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2006/11/14
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ところで…最近感じること。

私が地震や噴火などを体で感じているのではないかと思い始めたのが2004年の9月頃でした。
それから、はや2年が経過しましたが、未だ自分でも自分の体感についてはまだまだわからないことばかりです。
これまでほぼ毎日のように体感から地震を探ってきましたが、体感でこうだったらこうなる傾向にあるというのはなんとなく自分の中に少しはできたようにも思えますが、このような経験をこれからも積んだからといって地震を予測できるようになるかといったら決してそうではないのではないかとも感じます。
もし、それでいつ、どこで、どのような規模の地震が起こると、その時間、場所、規模まできっちり地震を予測することができるものならばもうとっくにそのようにできている人がいてもおかしくないとも思いますし、そんな話はこれまでにも聞いたこともありませんから、おそらくこれから先もきっちりとした予測は誰にも出来ないことなのではないかと感じます。
人類がこれから先どんなに地震を研究していったとしても、地震は予測できるものではないと思えるのです。

それは目に見えない意思を持った存在のなせる業に違いないからとも思うのです。
いつどこにと地震を予測しようとすることよりもその意思を持った存在がいったい何のために、何を思い地震を起こしているのかを知ろうとすることのほうがよほど大きな意味があるのではと感じます。
地震は自然に起こるものではなく、そこに理由あって、起こすものの意思あって起こっているのだということ、それが私たちに人間としての大切な学びを促すためにあるのだということを知らなくてはいくら地震を予測しようとしたとて、そこから逃れようとしたとて無意味なことであろうと感じるのです。
私たちが学ぶためには避けては通れない道、人間として生きていくうえで必要なお知らせであるということを理解してそこを越えない限りはいつまでもその恐怖に怯え続けることにもなるでしょう。

それらのことを見えない世界の意思を持った存在が言葉として私たちに向け伝えているのがソラからの伝言だと思っています。
なぜ地震が起こるのか、その理由を知ってから地震は怖いものという概念は私の中から嘘のようになくなりました。

もし、自分や家族の生死に関わるような大きな地震が起こるとしたならそれがいつ起こるか知りたいとほとんどの方が思うことでしょう。
しかし、それがどのような思いから発しているものなのかを考えていただきたいのです。
死にたくはない。辛い目には遭いたくない。だから事前に地震を知りたい。そう思うかもしれません。そしてそれが当然の感情だと思われるかもしれません。

けれども、その思いこそ地震を起こすものの意思や自らのイシキ(潜在意識)の思いを無視した、生きている今さえよければよい、自分さえよければいいという自己中心的な思いにつながるものであることを知らなくてはならないでしょう。

このように言うと、では、なぜ体感から地震を追っているのかと私のことを不思議に思われる方もおられることでしょうね。
正直なところ、今の私にとっては地震がいつどこに起こるかを知ろうとすることはさほど重要なことではないと思っています。
見えない世界(イシキの世界)から見ると何事も自分に起こる出来事は自分に必要なことであるから起こっているわけで、自分のイシキがそれを望んでいるからにはいくら地震が起こることがわかったとしても、どんなにそれを避けよう、逃げようとしたとしても避けられるものではないからです。
また、地震に限らずですが、そのことを知っていれば自らの先のことを恐れることもなければ何かを避けて通ろうと無用な不安を抱くこともまったくないのだということがわかります。
私が体感を報告し、地震を追いかけているわけはもっと本当のことが知りたい、地震の意味、地震を起こすその存在の思いを感じたい、そのものが何を伝えんとしているのかを知りたいと思っているからです。
そして、その存在の思いに多くの方に気付いてほしいと思っているからです。

ソラからの伝言では私たち人間の肉体はその形になるようにとの星(ソラのもの、イシカミ)たちからの指導を受けた思いを持つイシカミの原子(=ニウ)でできており、地震の体感もそれらのものが知らせていると伝えています。
それが本当のことであると感じられるようなことが私にはこれまでに何度もありました。
そのうちの一つが体感が本格的に始まり、ソラからの伝言に出会って間もなくの頃、2005年3月に起こりました。

そのときのお知らせ「2005年3月11日(金) 油より、過去世のつけを払う、地震の体感、他のチャネラーさんより。」ではこのようなことが伝えられました。

2005年3月11日真夜中、目がチクッと痛くて目が覚める。

「星にならないモノ* (光が出せない星?の意識体) が降りて来ました。
(地震を知らせる体感が苦しいようなので) それで何で知らせようかと考えました。
それで決まりを作りました。
怪我* をしたところが本州です。
手首が九州、 親指=四国、 人さし指=中部、 中指=関東、 薬指=東北、
小指=北海道で大きな地震はありません」

ちなみのこの後、親指の付け根と手首の間に2,3回とても痒いサインがありましたが、今日和歌山で震度1がありました。
知らせる存在が違うと↑のサインとは違うかも知れませんが、体感を知らせている存在に
『キチンと知らせてくれたら、地球の素晴らしい景色やおいしい感覚を味わう事ができますよ!』  と、体感を知らせている存在に伝えてみてください。

*  星にならないモノ = 星としての形になれない意識の集合体。
イシカミの会話を聞く事ができるので、地震が起きる前の体感を人間に与えていると先日も降りてきて伝えて来ました。
*  怪我 = 東海アマの管理人さんが手の甲を怪我された事を知った。



このお知らせの翌日からこれを境に手首や手のそれぞれの指に楊枝か何かでツンツンと突っつくような感じや少し痒いような鈍い痛みのような感覚を感じるようになりました。
当初は本当に地震を知らせているのだろうかなどと自分でも半信半疑でした。
けれどもそれからの地震との関係を見ていて確かに知らされていると感じられたのです。
これは自分の思い込みでも嘘でもない、紛れもなく実際に起こっていることだと感じました。
それからこの情報は本当のことだと次々と実感していったのです。

当時は「星にならないモノ」とはいったい何のことであるのかがわかりませんでした。
でも、その他の事柄についても同じようなことがいえますが、何かを不思議に思い、知りたいと思いながらソラの情報を見ているとそれに関するヒントとなる新たな情報が次々ともたらされてそれまでの謎が少しずつ解けていくのを感じます。
ですから、この「星にならないモノ」についてもいずれなんであるのかがわかってくるものと思うようになりました。
今ではこれが最近伝えられたニウのことであったのではないかと思っています。

この情報はやはり本物。人間が自ら求め学ぶことを尊重し見守り応援する存在であるソラ(宇宙)のもの、イシカミならではの情報だと感じます。
この情報には人間自らの学びのためのヒントが随所にちりばめられています。
そして、まるで小さな子供に文字をひらがなから順に教えていくかのように人間の学びのために人間の立場にたって宇宙の真実をわかりやすく最初は大雑把に、そして、徐々に内容を広く濃くしているようにも感じられ、簡単なようでいて見方によっては実は奥が深いものだと感じています。

これまで私たちはとかく難しい言葉を並べたような崇高に感じられるものが神の言葉でよいものだと思ってきました。
そして、1から10までこうであるべきと教えとして示されたようなもの(宗教)に従って生きることがよいこととされてきました。

それがそもそも違うのだと思います。
よくよく考えたなら、そのようなものこそ人間を上から押さえつけるもので「我こそは・・・」と自らを崇めさせようとする存在の仕業なのではないかと思えるのです。
答えを自分で見出していくものでなければ、それはただの何かの言いなり、何かに従うということで、それが支配したいものの枠にはめられて支配されるということではないかと思うのです。
これまでそのような支配したいものの降ろした情報に慣れてしまっている私たちはとかく答えが先に出ているもの(とは言え、それは本当の答えではなく、人間を支配するために支配の存在にとって都合のいいようなニセの答えでもあるわけですが…)や先が示されているものがよいと思いがちで、それをまるまる信じるのがよいと思いがちなようです。
それこそが支配のものに従い飼いならされること、支配されるということだと思うのです。
支配するということは、支配されるもの=虐げられるものがそこに存在するということで、それは他者がどうなろうとも自分さえよければいいと思うからできることなのでしょう。
そのようなことが平気でできるようなものの教えが人間にとって真実と思いますか?

とかく支配星の教えに染まっていると神仏は絶対で崇高なもので、それらの教えを信じていれば自分は絶対に間違いないと思い、それが神に近づくことで正しいこと、そして、それを実践している自分は素晴らしいのだと自分に陶酔してしまう。
そして、その教えを信じていれば救われるとか、何かいいことがあるとか、特別な力やご利益、おかげを求める思いが知らぬ間にどんどん育つのです。
その思いは自分は特別であれという思い、他者より優れることがよいことで自分が幸せであればいいというようなとても自分勝手な思いなのです。
宗教はその裏でそのような思いを育てるから、だから人間同士を争わせる元になるのだと思います。
宗教はどれも平和を語っていますが、単純に考えてもそのような自分さえよければいいという思いを育てるものが皆を幸せにするはずがないでしょう。

また話があちこちでまとまりなくなりましたが、これまでに知らなかった真実をぜひ、多くの方に知っていただきたいと思うのです。
もちろん私も真実を知りたい。常にそう思っています。
自分のこと、目先のことばかりに囚われるのではなく、もっと大きな見かたでいろんなことをみていきたいものだと思っています。






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Last updated  2006/11/15 02:58:14 AM



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