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カテゴリ:音楽・歌謡曲・懐メロ
今を去ること約40年程以前。リュウちゃん、横浜で開催された、あるセレモニーに出席した事がありました。そのセレモニーには数百人が出席し、最初のほうで、出席者全員が起立し、セレモニーに因んだ歌を歌うのですが、リュウちゃんのすぐ後から一際大きな声で朗々とした歌声が聞こえてきました。 「一体、どういう人が歌っているのだろう?」と思い、歌が終わった後で、リュウちゃん、ふと後を振り向きました。 そこにいたのは、、渡辺はま子さんでした。 渡辺はま子さんの初期の歌、「忘れちゃいやよ」、「とんがらがっちゃ駄目よ」、それと、戦後の歌ですが、「サンフランシスコのチャイナタウン」などは、リュウちゃんのおふくろさんが、よく口ずさんでいまして、それでリュウちゃんも自然と覚えました。考えて見れば、リュウちゃんの中に戦前の懐メロが身についているのは、おふくろのおかげなのですね、おふくろは偉大なのです。 また、同じ二見町に住んでいましたリュウちゃんの叔父さん(おふくろの兄)が、「雨のオランダ坂」が大好きで、よく口ずさんでいました。それで、この曲も自然とリュウちゃんの頭に入ったのです。 「ああ、モンテンルパの夜は更けて」も、おふくろ伝授の曲です。リュウちゃん、最近まで、この曲は戦前の曲とばっかり思っていましたが、今年の9月にフジテレビで放映された「戦場のメロディ」というドキュメンタリー風のドラマを観まして、この歌が昭和26年の発売である事を知りました。 一番の歌詞(詞:代田銀太郎、曲:伊藤正康)は以下です。 モンテンルパの 夜は更けて つのる思いにやるせない 遠い故郷しのびつつ 涙に曇る月影に 優しい母の夢を見る 上記のテレビドラマでは、太平洋戦争の敗戦でフィリピンのマニラ近くにあったモンテンルパの捕虜収容所に収容されていた108人の捕虜を、戦後、慰問した渡辺はま子さんが、当時のフィリピンの首長であったキリノ大統領に釈放を嘆願、結果、全員が釈放されて日本に帰還がかなったというエピソードが綴られていました。このモンテンルパ収容所慰問のきっかけとなりましたのが、昭和27年にNHKに送られて来ました「ああ、モンテンルパの夜は更けて」という歌の譜面で、これを渡辺さんがレコーディングした事により、上記のモンテンルパ捕虜収容所への慰問が実現し、それが捕虜全員の釈放につながったようです。アメリカ映画「シンドラーのリスト」のオスカー・シンドラーは、1100人ものユダヤ人をナチスのホロコーストから救済、また、日本の外交官・杉原千畝(ちうね)は、ナチス支配下のリトアニアで、6000人余りのユダヤ人に出国ビザを発給し、救済しましたが、戦後の事とは云え、また同じ日本人だとは云え、渡辺はま子さんは、「東洋のシンドラー・東洋の千畝」といえますね、 尚、作詞の代田銀太郎、作曲の伊藤正康の両人共、この収容所では「死刑囚」として収容されていたようです。NHKにこの曲を送らなければ、渡辺さんのレコーディング・慰問がなければ、彼らを含む108人の運命は暗転していた事でしょう。人間の運命の数奇さを献じざるを得ません。 渡辺はま子は、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)師卒業、昭和8年、ビクターから「海鳴る空」でデビュー、 ★忘れちゃいやよ、☆とんがらがっちゃ駄目よ、★シナの夜、★何日君再来、☆長崎のお蝶さん、(★蘇洲夜曲)、★雨のオランダ坂、★サンフランシスコのチャイナタウン、★ああモンテンルパの夜は更けて、 リュウちゃんが赤ん坊のころ、当時住んでいた三重県二見町の鳥羽市に近い集落から、二見町の繁華街に行くのには、徒歩で、夫婦岩を経由して行ったのですが、現在のように海岸沿いの道路は整備されていなく。また、トンネルもありませんでしたので、夫婦岩近くまで岸壁がせり出している山につけられた山道を辿って、二見の繁華街に出たものでした。この山道の頂上地点からの眺望は、眼下に夫婦岩、伊勢湾を航行する大小の船、遥か海の対岸は知多半島、伊良湖岬が一望出来る絶好のビュー・スポットだったようです。晴れた日の朝には、駿河湾越しに、富士山が観られる事もしばしばあったようでした。 赤ん坊のリュウちゃんを背中に負ぶったおふくろは、いつもその地点で暫しの休息を取り、叔父(おふくろの兄)の住むおふくろの実家の港町や、夫婦岩、知多半島の眺望に心和ませたのです。その時、おふくろの口について出てくる歌が、当時流行していた平野愛子さんの「港が見える丘」であったと、リュウちゃん、成人してから、よく、おふくろに聞かされました。 「港が見える丘」の一番の歌詞(詞・曲:東辰三、)は以下です。 あなたと二人で来た丘 港が見える丘 色褪せた桜ただ一つ 寂しく咲いていた 船の汽笛咽(むせ)び鳴けば チラリホラリと花びら あなたと私に降りかかる 春の午後ですた。 この、なだらかで微かにアンニュイなメロディの中に、若かった当時のおふくろは、何を想っていたのでしょう? リュウちゃんに、いろいろな懐メロを教えてくれたおふくろも、数年前に亡くなりました。リュウちゃん、このブログを書き進めてきまして、改めておふくろの影響の大きさに、感無量なのです。 平野愛子は、日本歌謡学院卒業、昭和22年、「港の見える丘」でデビュー ★港の見える丘、★君待てども、 リュウちゃんが幼少期の頃、2曲のシューシャインボーイ(靴磨きの少年)の歌が流れていました。一曲は底抜けに明るい暁テル子さんの「東京シューシャインボーイ」もう1曲は、かばり暗い宮城まり子さんの「ガード下の靴みがき」です。幼少期のリュウちゃんと致しましては、宮城まり子さん曲のほうに、強い共感を覚えた記憶があります。 比較する為に、二つの曲の一番の詞を並べて見ます。 先ずは、明るい「東京シューシャインボーイ」です(詞:井田誠一)、これは、昭和26年の曲です。 サーサ皆さん東京名物 とってもシックな靴みがき 鳥打帽子に胸当てズボンの東京シューシャインボーイ ぼくの好きなあのお嬢さん 今日はまだ来ないけど きっと彼女は来てくれる 雨の降る日も風の日も サーサ皆さんぼくが磨けば どんな靴でもよく光る シュシュシュシュシュー シュシュシュシュシュー ア愉快な靴みがき 次は暗く、もの悲しい「ガード下の靴みがき」(詞:宮川哲夫)です。これは、昭和31年の曲です。 赤い夕日が ガードを染めて ビルの向こうに沈む頃 街にゃネオンの花が咲く おいら貧しい靴みがき ああ 夜になっても帰れない 「東京シューシャインボーイ」は、ようやく戦後の復興が始まった日本の未来を、「ガード下の靴みがき」は、その社会情勢の中でも、庶民の現実の貧しさを象徴しているような歌だと、リュウちゃんは思っています。 この「ガード下の靴みがき」が流れていた同じ時代に、もう1曲、同じようなもの悲しい歌が流れていた事を思い出しました。その曲は☆「しいのみ学園」です。曲の最初の歌詞(詞:西葉子、曲:齋藤一郎)は以下です。 ぼくらはしいのみ まあるいしいのみ お池におちて泳ごうよ お手てにおちて逃げようよ お窓に落ちて たたこうよ たたこうよ この歌は、昭和30年封切りの映画「しいのみ学園」で主題歌のように使われた曲のようです。この映画は多分、小学校の講堂で観たのではないかと思いますが、映画の内容については全く記憶にありません。ただ、物悲しい歌のみがリュウちゃんの記憶に残り、「ガード下の靴みがき」を歌いますと、決まって、この「しいのみ学園」の歌を思い出すのです。 リュウちゃん、暁テル子さんの歌は、上記の「東京シューシャインボーイ」と、前回のブログで書きました「ミネソタの卵売り」の2曲しか知りませんが、平成11年にビクターから発売されたアルバムには、15曲が収録されています。上記の2曲以外の曲名をずっと挙げてみますと、「南の恋唄」、「鬼のブギウギ」、「東京カチンカ娘」、「リオのポポ売り」、「チューインガムは恋の味」、「パラダイス恋の国」、「りべらる銀座」、「桃太郎ブギ」、「泣き笑いABC」、「乾杯サラリーマン諸君」、「青空パラダイス」、「フラ天国」、 何だか、コロムビアの笠置シズ子の曲のタイトルに似ていますね、ビクターは、笠置シズ子のブギウギ・ブームに乗って、暁テル子さんを、「第2の笠置シズ子」として売り出そうとしたのではないでしょうかね? デビュー曲の「南の恋唄」の作曲者は、笠置シズ子の一連のブギウギの作曲者である服部良一さんです。「鬼のブギウギ」も服部さんの曲です。 確か、服部さんは、コロムビアの専属作曲家だった筈ですよね、この頃はフリーになっていたのかな? 平成15年にビクターから発売された「東京の屋根の下~僕の音楽人生1948―1954(ビクター編)」という服部さんのビクター作品を集めたCDには、46曲が収録されています。高峰秀子の「銀座カンカン娘」も服部さんの作曲だったのだ!市丸姐さんの「三味線ブギウギ」も服部さんだ! 暁テル子は、松竹少女歌劇団出身、昭和24年、「南の恋唄」「これがブギウギ」でビクターよりデビュー ★ミネソタの卵売り、★東京シューシャインボーイ、 宮城まり子は、昭和25年、ポリドールから「恋はお荷物」でデビュー ★ガード下の靴みがき、★毒消しゃいらんかね、★手のひらに太陽を、 高峰秀子は、昭和24年発売の「銀座カンカン娘」が大ヒット、 ★ 銀座カンカン娘、☆カルメン故郷に帰る この頃のビクターの歌手で、リュウちゃんが一番好きな歌手が竹山逸郎です。 あの直線的で格調高いバリトンの声には、男の哀愁が漂っていて、涙脆いリュウちゃんなどは、胸が締め付けられる思いがします。 デュエット専門歌手であるかのような藤原亮子さんとの共唱で吹き込みました「月よりの使者」は、以前のブログでも触れましたが、リュウちゃんのカラオケの最愛のレパートリーの一つなのでありますが、最近は中々デュエット相手が見つからず、やむなく一人デュエットになってしまうのです。 正に、トホホ!なのであります。 竹山逸郎は慶応義塾大学卒、昭和18年にビクターからデビュー ★ 涙の乾杯、★異国の丘、★誰か夢なき、★月よりの使者、★熱き泪を、 あと、ビクターからデビューした鶯(うぐいす)芸者3人を追加しておきます。 ★浪花小唄小唄勝太郎は、昭和6年、ビクターよりデビュー ★島の娘、★東京音頭、★さくら音頭、★明日はお立ちか、 市丸は、昭和6年、ビクターより「東京花嫁」でデビュー ☆茶切節、★天竜下れば、★三味線ブギウギ、 藤本二三吉は、昭和3年にビクター専属、昭和4年発売の「浪花小唄」がヒット、 ★浪花小唄、★祇園小唄、 佐伯孝夫って、どういう人? 前回と今回の2回にわたりまして、ビクターの歌謡曲の創成期の歌手について書きましたが、次回は、歌手という括りから離れて、気に掛かっていました作詞の佐伯孝夫さんのことを軸に書いてみたいと想っています。 今回の★☆追加 ★→27曲、☆→6曲 (累計)★540曲、☆442曲、★☆計980曲です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年12月06日 10時16分29秒
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