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カテゴリ:音楽・歌謡曲・懐メロ
リュウちゃんは中学2年生の時に、橋幸夫さんの「潮来笠」、「故郷の花はおつでも紅い」で、歌謡曲にのめり込んでいったのですが、橋さんの歌の大半の詞を書いたのが佐伯孝夫さんでした。リュウちゃんの持っている「橋幸夫大全集」に収録されています120曲中の大半が、作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、 その後、いろいろな歌謡曲を聴いていく中で、ビクターの歌のかなりの部分が佐伯=吉田のコンビによるものと判って来ました。三田明も、吉永小百合も、フランク永井も、松尾和子も、藤本二三代も、三浦洸一も、山田真二も、、、、 何だ何だ何だ、ビクターの作詞家は佐伯孝夫しか居ないのか? 特に橋さんの「ゼッケンNo1スタートだ」「あの娘と僕」、「恋のメキシカン・ロック」などのリズム物などの詞を読むと、佐伯さんってリュウちゃんと年代が近い人なのかな?リュウちゃんの兄貴くらいの年代なのかな? と、最初は思っていました。 ところが、カラオケをやるようになりまして、戦前の歌などにも関心が向かうようになりました時にも、佐伯さんの名前はどんどん出てくるのです。 灰田勝彦さんの「新雪」、「鈴懸の径」、小畑実さんの「勘太郎月夜歌」、「婦系図の歌」、渡辺はま子さんの「とんがらがっちゃ駄目よ」、「サンフランシスコのチャイナタウン」、も、李香蘭(山口淑子さん)の「夜来香」も、元祖、鶯芸者の小唄勝太郎さんの「さくら音頭」、「明日はお立ちか」も、市丸姐さんの「三味線ブギウギ」も、高峰デコちゃんの「銀座カンカン娘」も、竹山逸郎さんの「月よりの使者」も、鶴田浩二さんの「ハワイの夜」、「弥太郎笠」も、、、、 へー、凄いや!この調子でいくと、戦前から昭和40年位までの時期のビクターの歌謡曲で、リュウちゃんが好きな曲の8割くらいは、佐伯孝夫さんの詞による歌という事にねりそうな感じですね、佐伯孝夫って、どんな人なのかな? 年譜を調べてみますと、佐伯孝夫さんは、明治35年(1902年)東京生まれ、早稲田大学仏文科卒業、早稲田在学中に、当時、早稲田の仏文の教授であった西条八十に師事、西条さんの主唱する雑誌「白孔雀」などに詩を発表、昭和6年に東京日々新聞(現在の東京新聞)に入社、昭和12年に現在の毎日新聞に入社、昭和14年にビクター専属作詞家になる、とあります(フリー百科事典ウィキペディアによる) そうか、佐伯さんは、かの「地獄のトミノ」や、童謡「かなりあ」、「鞠と殿様」、また、リュウちゃんブログでお馴染みの「愛して頂戴」、「東京行進曲」、「サーカスの唄」、「旅の夜風」、「純情二重奏」、「誰か故郷を想わざる」、「蘇洲夜曲」、「悲しき竹笛」、「青い山脈」ひばりちゃんの「越後獅子の唄」、「涙の白桔梗」、「ひよどり草紙」、「鳥笛吹けば」、「ブラジルの花嫁さん」、「娘船頭さん」、「雪之丞変化」、また島倉お千代さんの「この世の花」、舟木一夫の「夕笛」などの歌謡曲の作詞の西条八十さんの弟子だったのか! 西条さんは1892年(明治25年)生まれ、佐伯さんより10歳年上です。早稲田大学英文学科卒業、佐伯さんと西条さんは、早稲田の先輩後輩の間柄という事になりますね、西条さんは英文学科卒業なのですが、卒業後、何故かフランスに留学、昭和元年に帰国後、直ぐに早稲田の仏文の教授になりました(この頃は、フランスに留学したた人は、ほんの一握りに過ぎなかったのでしょうね、留学直後といえば、30歳を過ぎたばかりの年代、この歳で教授になるなんて、現在では考えられないことですね) 佐伯さんが西条さんに逢ったのは、この時期でしょうね、 西条さんが歌謡曲の作詞家として、以前、「歌謡曲の創成期(1)で書きました「新版・日本流行歌史」に初めて登場しますのが、昭和3年の「マノン・レスコオの唄」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子)ですが、この時、西条さんは36歳、佐伯さんが、初めて登場しますのが、昭和7年の「タンゴを踊ろうよ」(作曲:神戸道夫、歌唱:四家文子)、この時、佐伯さん30歳、西条さんは、歌謡曲の作詞を始める以前に、純粋詩「砂金」の発表が26歳、また、日本最初の芸術的童謡と云われます「かなりあ」が、同じく26歳で、歌謡曲作詞を始める10年前から、これらの「詩」を発表しています。 佐伯さんは、大学卒業後、新聞社勤務で、歌謡曲以外の「詩」を発表している形跡はないようですが、「タンゴを踊ろうよ」の発売時は、東京日々新聞社勤務の時代ですね、まだビクターと専属契約をする7年前のことです。この時まで、西条さんの作詞になる歌謡曲は全てビクターから発売されていますので、その伝手(つて)で佐伯さんがビクターから作詞家デビューしたということが想像されます。西条さんがコロムビアから作詞家としてデビューするのは、翌昭和8年の「恋ごころ」(作曲:古賀政男、歌唱:長谷川一郎)からのようです。 この頃に、佐伯孝夫=ビクターの代表的作詞家、西条八十=コロムビアの代表的作詞家、という図式が出来上がったようです。 佐伯さんは、戦前は主に佐々木俊一と、戦後は主に吉田正と組んで、数々のヒットソングを生み出したと云われています。試みに、「日本流行歌史」の年表にある佐伯さんの詞によるヒットソングを年代順に挙げて見ます。 (昭和7年)「タンゴを踊ろうよ」(曲:神戸道夫、歌唱:四家文子) (昭和8年)「僕の青春」(曲:佐々木俊一、歌唱:藤山一郎)、 (唱和9年)「さくら音頭」(曲:中山晋平、歌唱:勝太郎他)、「さらば青春」(曲:加藤しのぶ、歌唱:藤山一郎)、「利根の朝霧」(曲:中山晋平、歌唱:小林千代子) (唱和10年)「生命線ぶし」(曲:細田義勝、歌唱:勝太郎・小野巡)、「無常の夢」(曲:佐々木俊一、歌唱:児玉好雄)、「悲しきジンタ」(曲:佐々木俊一、歌唱:徳山漣)、 (唱和11年)「守備兵ぶし(曲:佐々木俊一、歌唱:小野巡)、「とんがらがっちゃ駄目よ」(曲:三宅幹夫、歌唱:渡辺はま子)、「二人の青い鳥」(曲:松平信博、歌唱:灰田勝彦他)、 (唱和12年)「アロハホノルル」(曲:灰田晴彦、歌唱:灰田勝彦)、「あんこ椿」(曲:中山晋平、歌唱:勝太郎)、「軍国ざくら」(中山晋平、歌唱:市丸)、「忍び傘」(曲:佐々木俊一、歌唱:市丸)、「雨の酒場」(曲:佐々木俊一、歌唱:灰田勝彦)、「あなたなしでは」(曲:佐々木俊一、歌唱:能勢妙子)、「あこがれの唄」(曲:飯田信夫、歌唱:江戸川蘭子)、「東京パラダイス」(曲:鈴木静一、歌唱:灰田勝彦)、「荒鷲戦隊」(曲:中山晋平、歌唱:勝太郎) (昭和13年)「戦線日記」(曲:佐々木俊一、歌唱:鈴木正夫)、「密使の幌馬車」(曲:佐々木俊一、歌唱:灰田勝彦)、 ふー!、ビクター専属以前に、上記のような作詞があるのですね、 以下は専属になってからの作品です。 (昭和14年)「熱海ブルース」(曲:塙六郎、歌唱:由利あけみ)、 (昭和15年)「燦めく星座」(曲:佐々木俊一、歌唱:灰田勝彦)、「森の小径」(曲:灰田晴彦、歌唱:灰田勝彦) (昭和16年)なし (昭和17年)「明日はお立ちか」(曲:佐々木俊一、歌唱:勝太郎)、「鈴懸の径」(曲:灰田勝彦、歌唱:灰田勝彦)、「婦系図の歌」(曲:清水保雄、歌唱:小畑実、藤原亮子)、「バタビアの夜は更けて」(曲:清水保雄。歌唱:灰田勝彦) (昭和18年)「「勘太郎月夜唄」(曲:清水保雄、歌唱:小畑実)、「暁の交換船」(曲:清水保雄、歌唱:小畑実、藤原亮子)、「征けよロンドン・ニューヨーク」(曲:佐々木俊一、歌唱:勝太郎)、 昭和18年から、敵国語の使用禁止の統制が強まったためか、レコード会社の社名も、日本語になってしまいました。ビクターは勝鬨、コロムビアは日蓄、というように、 (昭和19年)「小太刀を使う女」(曲:清水保雄、歌唱:小畑実、藤原亮子) (昭和20年)(昭和21年)なし、 「日本流行歌史」の年表で見る限り、佐伯さんはお師匠さんの西条八十さんと違い、戦意高揚のための、いわゆる「戦時歌謡」は。ほとんど書いていないようです。これは。単に、二人の気質も違いから来るものなのか、あるいは、ビクターとコロムビアの社風の違いから来るものなのか? (昭和22年)紫のタンゴ」(曲:飯田信夫、歌唱:灰田勝彦)、「誰か夢なき」(曲:清水保雄、歌唱:竹山逸郎、藤原亮子)、 (昭和23年)「東京の屋根の下」(曲:服部良一、歌唱:灰田勝彦) (昭和24年)「三味線ブギウギ」(曲:服部良一、歌唱:市丸)、「月よりの使者」(曲:佐々木俊一、歌唱:竹山逸郎、藤原亮子)、「今日われ恋愛す」(曲:清水保雄、歌唱:竹山逸郎)、「銀座カンカン娘」(曲:服部良一、歌唱:高峰秀子)、 (昭和25年)「火の鳥」(曲:佐々木俊一、歌唱:宇津美清、渡辺はま子) (昭和26年)「ミネソタの卵売り」(曲:利根一郎、歌唱:暁テル子)、「アルプスの牧場」(曲:佐々木俊一、歌唱:灰田勝彦)、「高原の駅よさようなら」(曲:佐々木俊一、歌唱:小畑実)、「野球小僧」(曲:佐々木俊一、歌唱:灰田勝彦)、「白樺の小径」(曲:佐々木俊一、歌唱:淡谷のり子)、 (昭和27年)「弥太郎笠」(曲:佐々木俊一、歌唱:鶴田浩二)、 (昭和28年)「ハワイの夜」(曲:司潤吉、歌唱:鶴田浩二)、「花の三度笠」(曲:吉田正、歌唱:小畑実) ふー!!やっと出てきました。リュウちゃん世代のゴールデン・コンビ、佐伯孝夫=吉田正は、昭和28年の「花の三度笠」が最初のヒットソングのようです。 戦後の佐伯さんの盟友、吉田正さんは、大正10年(1921年)生まれ、佐伯さんより、18歳年下です。太平洋戦争の終結を満州で迎え、直後シベリア抑留、軍隊時代に作った曲「異国の丘」が、昭和23年のNHKのど自慢で、シベリアからの復員兵によって歌われ、これが、ビクターの歌謡曲を担う作曲家・吉田正の出発点となったのは、あまりに有名なエピソードですね。 一方、戦前からの佐伯さんの盟友であった佐々木俊一さんは、明治40年(1907年)生まれ、佐伯さんより5歳年下です。彼は、東洋音楽学校で万城目正と同期、小林千代子が歌った「涙の渡り鳥」、小唄勝太郎の「島の娘」が出世作です。 吉田さんは、佐伯さんのことを「自分の歌の先生は、佐伯孝夫氏だ」と言っていたそうですが、吉田さんに限らず、ビクターの全ての作詞・作曲家にとって、佐伯さんは大先生と云うべき存在だったようです。 リュウちゃんが、初めて歌謡曲にのめり込むきっかけとなった橋幸夫さんの「潮来笠」が発売になった時に、佐伯さんは58歳、サラリーマンなら定年寸前の歳だったのですね、ほぼ最後のヒット曲となった橋さんの「恋のメキシカン・ロック」は65歳、今風に云うならば、「アラカン青年」ですね、 師匠の西条八十と違って、大戦中も。ほとんど戦時歌謡を作らず、灰田勝彦さんの「鈴懸の径」などのモダンな作詞に徹した、戦後も、「銀座カンカン娘」や「有楽町で逢いましょう」などの都会調の詞で、ビクターの作風をリードした。 佐伯孝夫さんは、正に反骨の、「永遠のモダン・ボーイ」と云えるのではないでしょうか、 最後に、「永遠のモダン・ボーイ」を象徴する詞で、リュウちゃんの大好きな「いつでも夢を」の一番の歌詞で、この稿の〆といたします・ 星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも歌ってる 声が聞こえる 淋しい胸に 涙に濡れたこの胸に 言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を 星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも歌ってる お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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