ひと恋ふはかなしきものと平城山(ならやま)に
もとほり来つつ堪へがたかりき
かれこれ50年前のことになりますが、リュウちゃん、高校入学と同時に合唱部(勿論、混声合唱)に入部しました。
入部と同時に、幾つかの比較的合唱曲としては易しい歌を歌いましたが、その中の1曲に、北見志保子作詞、平井康三郎作曲の「平城山」がありました。
その詞の哀切極まりない風情、日本の歌曲の精髄とも云える作曲に、忽ち強く魅かれてしまったのです。爾来、50年の星霜を経ましたが、この曲に対する憧れは、あの高校一年生の時から少しも変わっていないのであります。
高校時代に初めてこの曲に出会いまして、強く魅かれはしましたものの、詞の意味が今一つよく判りません。この歌曲は、以下の2首の短歌で成り立っています。
ひと恋ふはかなしきものと平城山(ならやま)に
もとほり来つつ堪へがたかりき
いにしへも夫(つま)にこひつつ越えしとふ
平城山の道に涙おとしぬ
最初の短歌の「もとほり来つつ」って、どういう状況だろう?、何故、「堪へがたかりき」なのか?
2番目の短歌の「夫(つま)」って、男性なのか女性なのか?
「越えしとふ」とは、どういう意味なのか?
と、短歌の全体の感じは掴めるのですが、やはり上記の疑問が解けない限りは、この詞を深く理解出来る筈がありません。ただ、メロディから音楽に入り、常に歌詞の意味を二の次にしてしまう癖のあるリュウちゃん、上記の疑問は持ったのですが、深く追求しないまま、年月のみが過ぎて行きました。
奈良県に住んで30年弱、法隆寺の傍に移り住んで10年余り、二上山、葛城山、金剛山、春日山、三輪山、畝傍山など、奈良の歴史に纏わる名山は数多く知りましたが、気に掛かっていました平城山(ならやま)は、JRや近鉄電車の駅名としては在りますものの,平城山という山は何処にあるのか、よく判りません。
北見さんの短歌の解釈と共に、この「平城山」の存在自体が、これまでリュウちゃんの中で、「最大の謎」だったのです。
平城山は何処に在るのだ?
今年8月7日の朝日新聞「be」土曜版に(万葉から息づく哀歓~北見志保子作詞「平城山」)という新聞2ページに及ぶ大型コラムが掲載されました(文:伊藤千壽氏)。このコラムは、上記リュウちゃんの積年の疑問を一挙に解消するような、好コラムでした!
それで、このコラム片手に、50年来の憧れと疑問の地でありました「平城山」」散策に向ったのです。
平城宮跡の朱雀門から大極殿の脇にある小道を北上し、大極殿の裏手に出ますと、すぐ「歴史街道」という小道があり、そこを右折し、歴史街道を辿りました。下の写真は、歴史街道に入ったところの咲いていました花々の向こう側に大極殿を見たものです(この左側の華麗な花,何という花なのでしょう?ミコお師匠様、お教え戴ければ幸いで御座います)
下の写真は、歴史街道の3つの古墳のある場所に近い石畳の道を囲む鬱蒼とした森の中の木立、周囲は物音一つしない静寂に包まれていました。
この森を抜けたところに、冒頭の写真の「磐之媛命平城坂上陵(いわのひめのみこと・ならさかのへのみささぎ)」があります。
磐之媛命(いわのひめのみこと)は、仁徳天皇の皇后、万葉時代初期の秀れた歌人、仁徳天皇が側室であった八田皇女を皇后に迎えようとしたことに嫉妬しまして、住んでいました難波宮から、現在、同志社大学田辺キャンパス辺りにあります山城筒城宮(やましろつづきのみや)に移り、そこで生涯を終えたそうです。嫉妬の結果、仁徳天皇と終生の別れとなったようですが、生涯、仁徳天皇を深く慕っていたようで、万葉集には、以下のような歌が残っています。
かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを
古代の平城山の地には、磐之媛命の他、多くの万葉歌人の想いが秘められているようです。大伴家持を慕い、この地の松の下で泣いたという笠郎女(かさのいらつめ)、かって恋人だった大海人皇子の下を去り、天智天皇の下に走った額田王(ぬかたのおおきみ)、、、古代の平城山の地には、様々な宮人の愛憎が渦巻いていたようです。
歌人・北見志保子(1885~1955)は、昭和初期に、この平城山を訪れ、自らが主唱する歌誌「草の実」の昭和9年4月号に「磐之媛命皇后御陵」という30余首からなる連歌を発表しました。この連歌の作曲を、翌年に平井康三郎に依頼、平井は、この一連の連歌の中から、2首を選んで、歌曲という形で作曲したのです。
以下に貼り付けました「平城山」は、「いずみの会女声合唱団」による女声合唱バージョンです。
朝日新聞のコラムには、この短歌の現代語訳が書かれていましたので、以下に転載いたします(一部変更しています)
「もとほる」は古語で、「回る。巡る」の意、「つま」は、「夫」、「妻」、両方の意味がある。3首の短歌を現代語訳すると、
「人を恋することはかなしいものだと、平城山を巡りながら、耐え難い思いにとらわれました」
「古代の人もいとしい人を想いながら越えたという平城山の小道を、私は涙しながら辿りました」
ああ、これで50年来の疑問でありました「平城山の謎」が全て解けました!
「平城山」は、山の名前ではなく、平城京の北に位置する丘陵一帯の地名だったのですね、「平城山」は、「幻の山」だったという訳です。
下の写真は、磐之媛命平城坂上陵の近くの池の中にありました朽ちた橋、かって古代の人々が、様々な愛憎を持って辿った道、昭和初期に、古代の人々を愛憎に思いを馳せながら、北見志保子さんが辿った「ならやまの道」も、今はこの橋のように朽ち果てて、今は誰も顧みる人がいない、という感慨が一瞬、リュウちゃんの頭を過ぎったのでありました。
今年の奈良は、遷都1300年で、奈良公園や平城宮跡は観光客で大変な賑わいを見せていますが、平城宮跡のすぐ裏手にあります「平城山」は、ほとんど観光客は来ていないようです。これから奈良観光をされる皆様、平城宮跡の観光の後、是非「平城山」に足を運んで見て下さい。きっと、
奈良の古代ロマンは、平城山(ならやま)にあり
という思いに捉われますよ。
藤山一郎が歌った「平城山」です。藤山さんは、「影を慕いて」「青い山脈」「長崎の鐘」など、初期の歌謡曲の大スターですが、昭和8年、現在の東京芸術大学声楽科首席卒業した、バリバリのクラシック歌手なのです。
おまけに、藤山さんの歌った歌曲を幾つか、
城ヶ島の雨
小諸なる古城のほとり
椰子の実
最後にリュウちゃんの大好きな「白鳥の歌」です。若山牧水の有名な短歌に古関裕而が曲を付けた名曲です。
白鳥の歌(松田トシとデュエット)