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テーマ:最近観た映画(54)
カテゴリ:日本映画(邦画)
昭和44年8月27日公開の記念すべき第1作、 最初のマドンナは光本幸子さんだったのだ! (最初のマドンナ・坪内冬子さん~光本幸子) <始めに> 本ブログを書くに当り、様々なネット記事を参考にさせて頂きましたが、特に、現在、葛飾柴又の帝釈天の前に住居兼アトリエをかまえて絵を描き続けておられる洋画家の吉川孝昭氏が平成15年に開設したホームページ「男はつらいよ・覚え書きノート」には本当にお世話になりました。 (朝日新聞デジタル版に掲載された吉川孝昭氏) 上記HPの中に、<男はつらいよ 全48作「本編完全版」>というコーナーがあります。このコーナーは各作品を脚本に基き、詳細に語ったもので、吉川氏はこのコーナーにおいて、サイレント映画の「活動写真弁士」のような役割を果たされています。 本ブログでは、各作品の冒頭に、吉川氏の各作品の「完全版」をリンクします。 尚、リュウちゃんのブログに使う映画の場面の写真の殆ども、このコーナーからお借りしたことを申し添えておきます。 <第1作「男はつらいよ」> ここをクリック⤴ (データ)★公開日:昭和44年8月27日、★併映:「喜劇 深夜族」(渡辺祐介監督、主演:伴 淳三郎)、★観客動員数:526000人、★配給収入:1億1000万円、★キネマ旬報ベストテン第6位、 寅さん29歳、さくら25歳、満男0歳、リュウちゃん22歳、 (注1)寅さん、さくらさんの年齢につきましては、後述する<寅さんの年齢考>に基いています。 (注2)「配給収入」とは:映画の興業では、「興行収入」と「配給収入」の2つの収入が表示されます。「興行収入」とは、文字通りその映画を観た人が支払った入場料金の総額です。「興行収入」の40~50%が上映劇場の「劇場収入」となり、残りの50~60%が製作・配給会社が「配給収入」として受け取ることになります。上記「男はつらいよ」第1作を例に挙げますと、 興業収入=観客動員数(526000人)×入場料金(当時、大人一人450円、子供は約半額)となり大人料金のみで計算しますと、興行収入は2億2670万円となり、公表されている「配給収入」は、興行収入の約49%ということになります。 <初代マドンナ、坪内冬子さん=光本幸子> 記念すべき(?)、寅さんの最初のマドンナ(=失恋相手)です。柴又帝釈天題経寺の御前様(笠 智衆)の一人娘、寅さんの幼馴染、幼い頃、寅さんは彼女を「出目金」というあだ名を付けていましたが、成長した冬子さんは、幼時のあだ名とは反対に「小っちゃい目」の女性ですね。 冬子さんは第1作では、ずっと和服での出演(その後、第7作「奮闘編」、第46作「寅次郎の縁談」でも和服で冬子さんを演じました)、これはちょっと不思議で、かなり現実離れしているなとリュウちゃんは後から思ったのですが、映画を観ている時には違和感は全く感じなかったのです。 冬子さんを演じた光本幸子(みつもとさちこ)は、この映画公開時点で26歳、さくらさんを演じた倍賞千恵子より2歳年下です。幼年より舞踊家の六代目藤間勘十郎に師事、「男はつらいよ」に出演した頃には日本舞踊・藤間流の名取りとして「藤間勘十紫」という名前を持っていました(洋服よりも着物が似合う訳ですね)、また、小学生の時、初代・水谷八重子の目に留まり「新派」に入団、「男はつらいよ」第1作のクレジットには「冬子・光本幸子(新派)」と書かれています。 (注)「新派」とは、明治時代から始まった演劇の一派で、「旧派」である歌舞伎に対し、新しい演劇のことを指す言葉であり演劇集団を指す言葉です。 (「新派」の主な演目)★「婦系図」、「滝の白糸」(泉 鏡花)、★「不如帰」(徳富蘆花)、★「金色夜叉」(尾崎紅葉)、★「明治一代女」(川口松太郎)、など、 今でこそ「男はつらいよ」のマドンナを演じた女優は、「歴史に残る映画女優」という地位が確立していますが、第1作製作当時には「ヤクザのマドンナ」なんて、誰も引き受ける映画女優は居なかったそうです。しかし、新派の光本幸子は松竹のオファーを快諾、かくして記念すべきマドンナ第1号といなり、映画史にその名を留めることになりました。因みに光本幸子は、これが映画初出演なのでした。 また、光本幸子は、 「清元節」の名取りでもあり、「 清元栄美幸」という名前を持っています。清元節は、三味線音楽の一つですが、語るような歌も入ります。光本幸子がレコーディングした歌謡曲を以下に挙げます。 <「恋のお江戸の歌げんか」~ 歌・光本幸子&舟木一夫> 光本幸子さんの歌、 ちょっと色っぽい! <ストーリー> <「男はつらいよ」~第1作オープニング>→ここをクリック、以下同様、 このナレーションは重要です。 寅さんの生い立ちや係累などが全てこのナレーションで語られます。 以下、全文を文字起こしします。 「桜が咲いております。懐かしい葛飾の桜が今年も咲いております。思い起こせば20年前、つまらねえことでおやじと大喧嘩、頭を血の出るほどブン殴られて、そのままプイと家をおん出て、もう一生帰らねえ覚悟でおりましたものの、花の咲くころになると決まって思い出すのは故郷のこと。ガキの時分、ハナタレ仲間を相手に暴れまわった水元公園や江戸川の土手や帝釈様の境内のことでございました。風の便りにふた親も秀才の兄貴も死んじまって、今、たった一人の妹だけが生きていることは知っておりましたが、どうしても帰る気になれず、今日の今日までこうしてご無沙汰に打ち過ぎてしまいました。 今、江戸川の土手に立って生まれ故郷を眺めておりますと、何やらこの胸の奥がポッポと火照って来るような気がいたします。 そうです。私の生まれ故郷と申しますのは、葛飾の柴又でございます」 ナレーションの後、メインタイトルが画面いっぱいに表示されます。 (巻頭2)寅さん登場 メインタイトルの後、最初のシーンとして江戸川の土手に座っている寅さんが初めて映し出されます このシーンで、以後の作品でお馴染みになるナレーションが流れます。 わたくし、生まれも育ちも 葛飾柴又です。 帝釈天で産湯をつかい、 姓は車、名は寅次郎、 人呼んでフーテンの寅と発します。 このシーンの寅さんの服装に注目! いつも寅さんは縞の入ったダブルの背広の下には上下のダボシャツと腹巻、雪駄履きがノーマルな服装なのですが、初登場のシーンではダボシャツならぬワイシャツ、しかもネクタイ着用、履物も雪駄ではなく革靴を履いている! この時の服装は、寅さんが20年ぶりに故郷・葛飾柴又に帰って来た時の「正装」のようです。寅さんはきっと、この「正装」で故郷に帰れば、おいちゃん、おばちゃんなどに「立派な紳士」に見える筈だと思っていたのでしょうね。しかし、 「テキヤの地(じ)」は正装で隠せるものではなく、すぐバレてしまうのです。 冒頭で寅さんがホールイン寸前のゴルフボールを拾い上げて、プレーヤーにひょいと投げ返すシーンがあります。 映画が公開された昭和44年当時は、日本でゴルフブームが絶頂に近くなった頃で、ネクタイを締めている紳士であれば、例えプレーしたことが無くても、ルールは殆どの人が知っていた筈です(リュウちゃんもプレーはしませんでしたが、大体のルールは知っていました) 一見、紳士に見える寅さんが ゴルフのルールを全く知らなかった! このシーン一発で、寅さんが「似非紳士」だと分かるのです。 リュウちゃん、このシーンを観て、 「これは素晴らしい喜劇になる!」と確信したのでした。 (題経寺の御前様との再会) 柴又では折から「庚申の祭」、寅さんは纏を見事に操り、粋な姿を披露します。 このシーン、まるで美空ひばりの「喧嘩纏」ですね。 そこへ題経寺の段上から御前様登場。 (御前様) 寅「御前様!御前様でしょ! おひさしゅうござんす。あっしですよ!寅ですよ!車平造のせがれの寅でござんす! ほれ、あのー、庭先に入り込んじゃ トンボ取して御前様に怒鳴られた不良の寅でござんす」 御前様「あー、覚えとる覚えとる」 (「とらや」での20年ぶりのおいちゃん、おばちゃん、妹さくらとの再会) 寅さんの仁義風の挨拶、近所の「御一統様」への挨拶に続き、妹さくらさんの話題になります。 寅「ところで、ナニはまだかい?」 おばちゃん「さくらちゃんかい?今日は残業なんだよ」 寅「へえ、残業なんかやってんの?近所の、紡績の女工でもやってんのか? おいちゃん「とんでもねえ、さくらはキーパンチャだぜ」 寅「キーパン???なるほどねえ???」 (※)キーパンチャーとは、コンピューターで処理するためのデータをキー操作によりパンチングし、入力作業する仕事に従事する人のことです。日本でも、昭和30年頃からキーパンチャーが増え始め、昭和40年代には高校を卒業した女性の花形の職業だったようです。 この時代、「キーパンチャー」という職業は普通の大人であれば誰でも知っていました。でも、寅さんは知らなかったのです。 このシーン、冒頭のホールイン寸前のゴルフボールを拾い上げ、ボールを投げ返すシーンと同じように、「寅さん、ズレてる!」と思わせるシーンでした。 (さくらさん登場) そんな話をしているうちに、さくらさんが帰って来ます。 さくらさん、美しい! (さくらさん登場) おばちゃん「さくらちゃん、お帰り」 寅「さくら!」 さくら「ただいま」 寅「さくら!」「おまえ、ホントにさくらかい?」「ほらほらほら俺だよ、この顔に見覚えねえのかい?」 さくら「ねえ、この人、誰なの?」 おばちゃん「やだよ、まだわかんないのかい」 おいちゃん「よく見ろよ!」 寅「いいんだ、いいんだ、無理はねえ。 五つや六つのちっちゃいガキの頃にほっぽりだして それっきりだ、フッ、親はなくても子は育つっていうが、 でかくなりやがった」 さくら「お兄・・・ちゃん?」 寅「そうよ! お兄ちゃんよ!」 20年ぶりの寅さんとさくらさんの再会シーンは感動的でしたね。でも、その後、寅さんは「ションベンしてくらあ~」と言って、すぐ横にトイレがあるにも拘わらず、裏の庭で立小便をします。これもカタギの人間では考えられない行為です。 立小便をしながら、寅さんは、 ♪~泣~く~な~妹よ~ 妹~よ~泣くな~♪ と歌を大声で歌います。 この歌、昭和12年にディック・ミネの歌唱で発売された「人生の並木道」という歌謡曲です(詞:佐藤惣之助、曲:古賀政男) 1番の歌詞は以下です。 ♪~泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば幼い二人して 故郷を捨てた甲斐がない~♪ 歌詞では、「妹と2人で故郷を捨てた」となっていますが、寅さんの場合は、「引き留める妹を振り切って1人で故郷柴又を捨てた」のですね。寅さんの心の中では、放浪中、ずっと妹さくらちゃんのことを不憫に思っていたので、この歌はさくらちゃんの「応援歌」のような歌としていつも口づさんでいたのかも知れません。数ある古賀政男の歌の中でも、名曲中の名曲の一つだと思っています。 話は変わりますが、「男はつらいよ」第1作が公開された1年前の昭和43年にビクターレコードから<影を慕いて/森 進一>という12曲入りのLPレコードが発売されました。このレコードには、コロムビア専属の大作曲家・古賀政男の名曲12曲が収録されています。「人生の並木道」はB面の最初に収められていて、当時、このアルバムの中でもピカイチの「絶唱」と評されました。 昭和44年にビクターレコードに入社したリュウちゃん、このLPを買って愛聴しました。中でも「人生の並木道」は涙ウルウルで聴いたのです。 以下に昭和43年に森 進一がステージで歌ったYou-Tubeを貼り付けます。 (さくらさんのお見合い) このシーンも抱腹絶倒なのですが、写真のみ2枚掲載し、詳細は省きます。 この「お見合い」は寅さんのせいで「大失敗に終わったのです。 (寅さんの仁義) 寅さんの商売は、街頭に茣蓙を敷き、その上に様々な商品を並べて、威勢のいい「啖呵売」の口上で物を売る「テキ屋」(香具師)です。テキ屋はヤクザの組織の末端にあり、寅さんもヤクザの末端の一人です。 この映画では、地元のテキ屋の親分に仁義を切るシーンが出てきます。 このシーン、当時、数多く製作された東映の任侠映画を彷彿させます。 以下、上掲のシーンで寅さんが切った「口上」を書いてみます。 「わたくし、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。 姓は車、名は寅次郎、 人呼んでフーテンの寅と発します。 皆様ともどもネオン、ジャンズ高鳴る大東京に仮の住居まかりあります。 不思議な縁持ちましてたったひとりの妹のために粉骨砕身、バイに励もうと思っております。 西に行きましても東に行きましても、とかく土地土地のおあにいさん、おあねえさんに御厄介かけがちなる若造でござんす。 以後見苦しき面体お見知りおかれまして、 恐惶(向後)万端引き立って、よろしくお頼み申します」 寅さんが地元のテキ屋の親分に仁義を切るシーンは、全48作品の内、これ1回だけなのです。第1作の前半では、寅さんはかなり濃厚に「ヤクザ」の雰囲気を持っていましたが、第1作の後半~第2作以降ではこの雰囲気はどんどん薄れて行くのです。 (舎弟・登登場) <寅さんと舎弟・登(津坂匡章)> ここで寅さんが初めて本業の香具師(やし)の啖呵売をします。 <寅さんの啖呵売> (寅さんの大喧嘩と柴又出奔) 寅さんはさくらさんの「お見合い」の失敗をおいちゃん達になじられて、柴又を出奔してしまいます。このシーンも下記の動画でお楽しみ下さいね。 <寅さんの大喧嘩と柴又出奔> (マドンナ登場) 寅さんが、おいちゃん、おばちゃん、さくらさんと大喧嘩して柴又を出奔して一か月後、帝釈天の御前様のお嬢さん、坪内冬子さんから「とらや」に速達が届きます。そこには寅さんの消息が書かれていました。 (冬子さんの速達のナレーション) 「前略皆様、お元気ですか、奈良滞在も3ヶ月近くなりますが、ようやく健康も回復し、迎えに来た父と共に帰郷をすることとなりました。 ところが今日、父を案内しての見物の途中、珍しい人に偶然会い、びっくりしました。今思い出すと、なんだか可笑しくなってしまいます」 冬子さんは奈良で3ヶ月、病気療養をしていましたが、健康を回復し、父の御前様と奈良ホテルに泊まり、奈良観光をしていました。 最初に行ったのは斑鳩町の「法起寺」(ほっきじ)と「法隆寺」、 (法隆寺西大門のシーン) (法隆寺西大門) 「男はつらいよ」の最初のロケ地は、 リュウちゃんの家から徒歩4分の 法隆寺西大門だったのだ! 寅さんファンとして、ちょっと感激! (寅さんとマドンナの出会い) 御前様と冬子さんは、東大寺二月堂の舞台で休憩しています。 そこへ外国人夫婦を連れた寅さん登場、寅さんが御前様に気付き、挨拶をします。 寅「あ!御前様!こりゃ、どうもどうも!いや、どうもお久しぶりでございました。あの節はどうもお世話様になりまして、ヘヘ…、また、なんです?、こんなところへ?民情視察ですか?」 (二月堂、寅と御前様) 寅さん、御前様の横に座っている冬子さんを見て、 寅「あ…、どうも御前様、なかなかスミに置けませんね。こんな綺麗な方とお楽しみを…、それじゃ、わたくし…」 御前様「バカ!娘だ!ほら、忘れたのか?おまえが出目金とあだ名をつけてよくいじめとった冬子だ!」 寅「はあ~、出目金!」 冬子「ええ、覚えてるわ。寅ちゃんでしょ。 ちっとも変わらない、おんなじ顔」 ここから奈良公園の「浮見堂」での御前様の「バターギャグ」までは以下の動画の1分21秒までをご覧ください。 (※)御前様のバターギャグは秀逸でした。この「ギャグ」は普通のアチャラカ喜劇のギャグと違い、御前様は大真面目で、写真を撮られる時には、「バター」と言って口を開けるものだと勘違いしていたのですね。この「勘違い」が、映画を観る「常識人」にとりましては「ギャグ」だと勘違いして大爆笑になりました。「常識人」ではない寅さんも、この「勘違い」は分からなかったのです。 このギャグは、さくらさんの結婚式で早速、寅さんによって使われます。また、第9作「柴又慕情」でも、吉永小百合演じる歌子ちゃん達と仲良くなるきっかけになったのが、このギャグだったのです。 御前様の「バターギャグ」が出た奈良公園の浮見堂は、リュウちゃんのブログでもよく出てきます。以下、以前のブログでアップした「浮見堂」の写真を1枚貼り付けます。 (浮見堂) 奈良公園の浮見堂、 御前様のバターギャグで 不滅になったのだ! (寅さんの柴又帰還) 結局、寅さんは御前様・冬子さんと一緒に柴又に帰還します。 やっぱり寅さんは 冬子さんに一目惚れ!? (博の愛の告白) 「とらや」の裏の印刷工場に勤めている諏訪 博(前田 吟)は、秘かにさくらさんを愛しているのですが、 寅「あいつは大学出のサラリーマンと結婚させるんだい。手前らみたいなナッパ服の職工には高嶺の花だい! 分かったか!わかったらこのへんウロウロウロウロするなよ!嫁入り前の娘がいるんだから、帰れよッ!」 と暴言を吐くので、寅さんと対決します。 (屋形船の中で寅さんと博の対決) 寅「オウ!文句あんのか!!」 博「大学も出てない職工にはさくらさんを嫁にやれないって言うのか!!」 寅「おう、当たり前よ!文句あんだったら腕で来るか!」 博「じゃあ聞くけどな」 寅「なんだい!」 博「あんた大学出か?」 寅「?」 博「もし、仮にあんたに好きな人がいて、その人の兄さんが お前は大学出じゃないから妹は やれないって言ったらあんたどうする?」 寅「なになに?俺に好きな人が居て、その人に兄さんが? バカやロウ、いるわけないじゃないか!冗談言うない!」 この対決の会話は秀逸ですね。寅さんの「いるわけないじゃないか!」は、勿論、冬子さんには兄さんがいない一人娘であることを念頭に置いた発言です。ここでも寅さんは冬子さんに惚れていることを暗に告白しているのです。 、、、、 寅「じゃあ、てめえ、(さくらに)惚れてねえって言うのか?」 博「いえ、惚れています」 寅「じゃあどうなんだよ!ええっ? はっきりしろよっ!お前」 博「ですからその親兄弟も居ないも同然だし、大学も出ていないから…」 寅「おい、こら、青年、お前大学は出ないと嫁はもらえないってのか?ああ、そうかい手前はそういう主義か」 先程まで「大学も出てりないナッパ服の職工には、さくらは嫁にやれない」と言っていた寅さんが、コロっと変わって「こら、青年、お前大学は出ないと嫁はもらえないってのか?」と180度違った発言をする、この辺の「いいかげんさ」が寅さんの「困った点」でもあり、「愛すべき点」でもあるのですね。 寅さんは中学校中退の学歴、それが「高嶺の花」である冬子さんに惚れてしまった。冬子さんへの片想いが成就する筈がないことを暗示する台詞だったようにリュウちゃんには思われました。 で、博と意気投合した寅さんは、ある飲み屋で博に「恋の手ほどき」をします。 寅「要するに女をつかむのは目だよ、、、、すっと流すんだよ、そうすっと女のほっぺたにも電波がビビビビビ~っとかんじるんだよ、、、その時ぱっちっと眼をあわしたら、この目をくっと絡ませるんだ、そして訴えるような、すがえるような、甘えるような目でジーッと見るんだよ、、、そこでもう一押し!目にものを言わせるわけだ」 (目でアイ・ラブ・ユー) 寅さん、博に向かって目をパチパチ、何やら場末のバーのオカマのようで、ちょっと不気味です。 寅「言ったろ?」 博「何をです?」 寅「バカヤロウ! アイラブユーだよっ!」 ここで周りの客、大爆笑! (寅さん、水元公園で冬子さんとボートに乗って初デート) 寅さん、ボートを漕ぎながら冬子さんに向かって目をパチパチ、 冬子さん「どうしたの?目にゴミでも入ったの?」 寅さんの「お目々でアイ・ラブ・ユー」作戦は見事に失敗に終わったのです。 (博の愛の告白) 博は寅さんにさくらさんへの「愛のキューピッド役」を頼むのですが、寅さんの対応がいい加減でメチャクチャなので、うまくいきません。 そこで、博はさくらさん、おいちゃん、おばちゃんが談笑している「とらや」の居間の前に立ち、一世一代の愛の告白をします。 (博の愛の告白) さくら「どうしたの?博さん」 博「僕の部屋からさくらさんの部屋の窓が見えるんだ。朝…、目を覚まして見ているとね、あなたがカーテンを開けてあくびをしたり、布団を片付けたり、日曜日なんか楽しそうに歌を歌ったり、冬の夜、本を読みながら泣いてたり、、、あの、、、工場に来てから3年間、毎朝あなたに会えるのが楽しみで、考えてみれば それだけが楽しみでこの3年間を、、、僕は出て行きますけどさくらさん幸せになってください、さようなら」 この博の告白、感動的です! リュウちゃん、このシーンは何度観ても涙ウルウルになるのです。 結局、出て行った博をさくらさんは追いかけ、婚約することになります。 (さくらさんと博の結婚式) 博とさくらさんは、柴又の川魚料理の創業220年の銘店「川甚」で結婚披露宴を行います。司会者を演じるのは、渥美 清の盟友「関 敬六」、彼は渥美 清と同じ昭和3年生まれのコメディアンで、寅さんシリーズでは様々な役を演じました。 この披露宴に、初めて博の両親が登場します。司会者などに渡された博の父親の名刺には「北海大学農学部名誉教授・諏訪颷一郎」と書いてありました。 「飈一郎」、誰も読めない! 風偏に「火」が3っつ、 何と読むんだ?? 映画の中では、結局、この読み方は判らなかったのですが、リュウちゃんは後で脚本や解説本を読み、この名前は「ひょういちろう」であることが判明しました。 因みに、「飈」という漢字は、音読みでは「ひょう」、訓読みでは「かぜ」、「つむじかぜ」。「みだ(れる)」と読み、意味は「吹き上げる激しい風」、「つむじ風」、「乱れる」、「荒れ狂う」なのだそうです。 この名前は司会者も仲人のタコ社長も読めなかったので、皆、ごまかして「すわ、、うんいちろうさん」と博の父親を紹介するというギャグが3回でてきます。この辺のギャグと、その後の父親の謝辞につきましては、下記の動画をご覧ください。 紹介の後、父親の飈一郎から謝辞が述べられます。飈一郎を演じたのは、黒澤 明監督の「生きる」、「七人の侍」などでで世界的に著名な名優「志村 喬」(しむらたかし)です。 以下、この謝辞を文字起こしします。 飈一郎「、、、、本来なら新郎の親としてのお礼の言葉を申さねばならんところでございますがわたしども、そのような資格のない親でございます。しかし、こんな親でも、何と言いますか、親の気持ちには変わりがないのでございまして、、、実は今日私は8年ぶりに倅の顔を、、、みなさんの温かい友情とさくらさんの優しい愛情に包まれた倅の顔を見ながら、親として私はいたたまれないような恥かしさを、、、いったい私は親として倅に何をしてやれたのだろうか、、 なんという私は無力な親だったか、、、隣におります私の家内も同じだったと思います。この8年間は…私ども2人にとって長い長い冬でした、、、そして、今ようやく、みなさまのお陰で春を迎えられます。 みなさん、ありがとうございました。 さくらさん…、博をよろしくお願いいたします」 この飈一郎の謝辞、 寅さんも博も感激で涙ウルウル、 リュウちゃんもまた涙ウルウルになったのです。 「男はつらいよ」第1作は、大爆笑の後に「涙ウルウル」、また大爆笑の後に「涙ウルウル」という繰り返しが波のようにリズミカルに襲ってきます。 「男はつらいよ」第1作は 笑いと涙のリズミカルな繰り返し、により 歴史に残る喜劇映画の傑作になった! とリュウちゃんは思っているのです。 (寅と冬子さんの2度目のデート) さくらさんと博が新婚旅行に行き、寅さんは冬子さん目当てに「寺通い」をします。 ある日、冬子さんから、 「ねえ、寅ちゃん、憂さ晴しにどこかへ遊びに行きましょう」 と誘いを受け、2人で品川区の「大井オートレース場に出掛けます。 (大井オートレース場の寅さんと冬子さん) オートレースで2000円(現在の価値に直すと1万円くらい)勝った冬子さん、寅さんを誘い、蒲田にある焼き鳥屋に入ります。 (焼き鳥を食べる寅さんと冬子さん) 焼き鳥屋に入る直前から、北島三郎の「喧嘩辰」が有線(?)で流れてきます。店内でも流れているのです。 柴又への帰り道、ほろ酔いの冬子さんは「喧嘩辰」の3番を歌い始めます。 ♪~こ~ろ~しいたいほ~ど~惚れて~は~い~た~が~ゆ~び~もうふれず~に~わか~れ~た~ぜ~♪ <冬子さん、「喧嘩辰」を歌う> 冬子さんの口ずさむ「喧嘩辰」、さすがに清元の名取りだけあって、色っぽくていいですね! 題経寺の裏木戸で、 冬子「じゃあ寅ちゃん、さようなら」 寅さんが持っていた冬子さんのバッグを渡すと、裏木戸から冬子さんの白く細い手が伸びて来て、寅さんと握手します。 マドンナの手を握った! 「お目々のアイラブユー」は失敗したが、 「お手々のアイラブユー」は大成功!??? 寅さん、すっかり舞い上がってしまうのです。 冬子さんは俺に気がある! 哀しい「勘違い」なのですね、 (寅さんの失恋) 2回目の「デート」から数日後、寅さんは冬子さんと江戸川に「魚釣り」に行く約束をしたので、麦藁帽子をかぶり、釣り具セットを持って、冬子さんを誘いに題経寺に行きます。そこで寅さんが見たものは、 冬子さんと紳士が仲睦まじく談笑している光景、 ガ~~~~ン! 寅「あっ、お客さんですか?」 冬子「あ、ごめんなさい、今日お約束してたんだったわねえ」 寅「いいえ、いいんです」 寅さん、すごすごと退散するのですが、途中で御前様と出会います。 御前様「帰るのか?」 寅「へえ、あのー…ご親戚ですか?」 御前様「うん、これから親戚になる男だ」 寅「ええ!」 御前様「つまり、冬子の婿にな」 ガ~~~ン!!! まるで絵に描いたような突然の失恋、 残酷な結末ですね。万年失恋人間だったリュウちゃんも、こんな無残な失恋には耐えることが出来なかっただろうと思っています。 「男はつらいよ」第1作は、大方のファンは「喜劇」だと思っている筈ですが、リュウちゃんにとりましては、 「男はつらいよ」第1作は 大悲劇なのだ! という思いなのです。 今回のブログのラストに、「寅さんの年齢」についての考察を書いてみました。 <寅さんの年齢考> 第1作の冒頭、寅さんのナレーションが流れます。 「桜が咲いております。懐かしい葛飾の桜が今年も咲いております。思い起こせば20年前、つまらねえことでおやじと大喧嘩、頭を血の出るほどブン殴られて、そのままプイと家をおん出て、もう一生帰らねえ覚悟でおりました~、、、、」 以上のナレーションによれば、寅さんは10代の頃、柴又を出奔し、出奔してから20年目に柴又に帰郷したという設定になっています。 では、何歳の時に出奔したのか? 「第10作「寅次郎夢枕」には、以下のような「おいちゃん」の台詞があります。 「え~、柴又尋常小学校を卒業しまして、それから葛飾商業を、ええ、こちらのほうはすこし早めに卒評しまして、、、、」 ★尋常小学校は、昭和16年3月31日まで存在した日本の初等教育機関の名称です(昭和16年4月1日から「国民学校」と改称されます)。 尋常小学校は、現在の「小学校」と同じ「6年制」で、卒業時の年齢は、12歳です。 ★葛飾商業→「葛飾商業」をネット検索しますと、現存する「東京都立葛飾商業高等学校」が出て来て、ウィキペディアには、「なお、架空の人物であるが映画「男はつらいよ」の主人公・車寅次郎が本校中退という設定がある」という記述がありますが、これはガセネタですね。現存する葛飾商業高等学校の創立は昭和37年ですので、寅さんが在籍している筈がないのです。 この台詞で出てくる「葛飾商業」とは、旧制の商業学校のことで、入学資格者は尋常小学校卒業程度、就業年齢は2年~4年だったようです。つまり現在の中学校に相当する「職業学校」だったようです。 おいちゃんの台詞によれば寅さんは葛飾商業を中退したということになっていますので、寅さんが中退したのは、13~15歳の頃となりそうです。 ★以上から寅さんの第1作(昭和44年公開)当時の年齢を推定しますと、尋常小学校卒業はどんなに遅くとも昭和16年3月、この時点で12歳だとすれば、寅さんの誕生年は、どんなに遅くとも昭和4年ということになります。とすれば、第1作公開時の昭和44年には、寅さんは40歳ということになりますね(渥美清は昭和3年生まれですから、寅さんの年齢とほぼ一致します) ★ところが、寅さんがこの時点で40歳だとしますと、辻褄の合わないことが出てきます。それは、妹さくらの年齢です。 昭和44年公開の第1作で、さくらさんの年齢は何歳だったのか? さくらさんは第1作では、高校を卒業し、丸の内にオフィスがある一流企業「オリエンタル電機」にキーパンチャーとして勤務しています。最初に「とらや」で寅さんと再会するシーンの写真を見ますと、どう考えても25歳前後ですね(倍賞千恵子は昭和16年生まれですから、第1作公開時の実年齢は28歳です)。仮にさくらさんの年齢を賠償さんの実年齢と同じ28歳(恐らく上限ギリギリ)としますと、それでも寅さんとの年の差は12歳、 寅4さんは14~15歳の頃、父親と大ゲンカして柴又を飛び出したのですが、その時のさくらさんの年齢は2~3歳ということになり、第1作に出てくる子供時代の寅さんとさくらさんの写真のようにはなりませんね。 (少年時代の寅さん) (上記、少年時代の寅さんと同じ写真に写っている少女時代のさくらさん) 第2作、「続・男はつらいよ」の冒頭の夢のシーンでは、寅さんのおふくろさんは、 「38年前、玉のような男の子を生んだ」という台詞が出てきます。これだと第2作の時点で、38歳という事になります。 更に、第1作から11年後の昭和55年の公開された第26作「寅次郎かもめ歌」では、寅さんが夜間高校に入学しようとして、入学願書を書くのですが、この入学願書で寅さんの生年月日が判明します。 入学願書によれば、 寅さんの生年月日は、 昭和15年11月29日、 願書を書いた時の年齢は、 満40歳! これが正しいとすると、昭和44年公開の第1作の時点では、寅さんの年齢は「29歳」ということになりますね。これだとさくらさんの年齢差は1歳~5歳くらいになり、上記の2人の年齢差に合致しそうですが、そうすると寅さんが小学校を卒業した12歳の時は昭和27年ということになり、「尋常小学校」卒業とはなりません。 「男はつらいよ」の年代は第1作のラストで生まれた満男君の成長で辿ることが出来ます。例え寅さんが映画の中では歳を取らない設定になっていたとしましても、満男君の成長は「年代時計」になっていますので、寅さんだけは歳を取らないという設定は「無理筋」なのです。 まあしかし、この「無理筋」は、48作も続いたシリーズではやむを得ないのではないかとリュウちゃんは思っています。 で、このブログでは、シリーズ第1作時の寅さんの年齢を29歳とし、さくらさんの年齢を25歳として記事を書いていきます。 当初、一回のブログで、5人くらいのマドンナを採り上げるつもりだったのですが、第1作がリュウちゃんにとりましては余りの傑作であり、しかもレギュラーの登場人物をきちんと紹介したいと思いましたので、ついつい長大なブログになってしまいました。 次回からは一回のブログで数人のマドンナを採り上げたいと思っているのですが、如何なりますことやら? 最初のマドンナを演じた光本幸子さんは、平成25年、食道がんのため、69歳で亡くなられました。佳人薄命、合掌。 (以下、<映画「男はつらいよ」、寅さんのマドンナ遍歴(2)>に続きます)
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