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カテゴリ:NHK朝ドラ「エール」、古関裕而
NHK朝ドラ「エール」のモデルになった作曲家「古関裕而」、 リュウちゃんの大好きな作曲家なのだ! (古関裕而) 3月30日から、NHKの「連続テレビ小説」(朝ドラ)第102作として、 「エール」が始まりました。 「エール」は、昭和の大作曲家・古関裕而(こせきゆうじ)とその妻・金子(きんこ)の生涯を描くドラマで、実在した人物が一部実名を変更して登場してくるドラマになるようです。ここでは、ドラマに出てくる人物名と、モデルになった実在の人物名を対比して挙げてみます。尚、カッコ内は演じた俳優の名前です。 ★古山裕一(窪田 正孝)=古関裕而、★関内 音(おと)(二階堂ふみ)=古関(旧姓:内山)金子(古関裕而の妻)、★村野鉄男(中村蒼)=野村俊夫(古関裕而と同郷の作詞家)、★佐藤久志(山崎 育三郎)=伊藤久男(古関裕而と同郷の歌手)、★山藤太郎(柿澤勇人)=藤山一郎(歌手)、★藤丸(井上希美)=音丸(歌手)、★双浦環(ふたうら たまき)(柴崎コウ)=三浦 環(オペラ歌手)、★木枯正人(野田洋次郎)=古賀政男(作曲家)、★小山田耕三(志村けん)=山田耕作(作曲家)、 先日、新型コロナウィルスで死去した 志村けんが山田耕作役なのだ! (志村けん) リュウちゃんは少年時代から古関裕而のファンだったのです。いわば、「リュウちゃんの懐メロ人生」の核となる作曲家の一人です。少年時代から「長崎の鐘」や、「とんがり帽子」、「さくらんぼ大将」などの歌を口づさんで成長しました。最近、地元の公民館で2つの「歌声サークル」の指導をしていますが、毎年8月になると、2つのサークルで古関裕而の歌を歌うことにしています。夏の高校野球の歌「栄冠は君に輝く」、長崎の原爆投下に関する「長崎の鐘」、戦後の混乱期からたくましく立ち上がる姿を描いたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」など、令和の時代に歌っても少しも色褪せない名曲ばかり! 本ブログでは、NHK朝ドラ「エール」で使われるであろうと思われる古関裕而の名曲、そしてリュウちゃんの好きな曲をを年代順に辿ってみたいと思います。 古関裕而は明治42年(1909年)、福島市の裕福な呉服店の長男として誕生します。父親が音楽(多分、クラシック音楽)好きで、家には蓄音機があり、幼い頃からクラシック音楽に親しんだようです。大正5年、7歳で福島県師範学校附属小学校に入学、担任の先生が音楽好きの教師で、音楽の指導に力を入れていたこともあり、裕而は小学校4年生(10歳)の頃には楽譜が読めるようになったようです。 12歳の時、福島商業学校に入学、この頃、山田耕作の著書「作曲法」などを購入し、独学で作曲にのめり込んで行きます。 昭和4年、20歳の時に作曲したクラシックの管弦楽曲「竹取物語」が、ロンドン市のチェスター音楽出版社募集の作曲コンクールで第2位入選、これは日本人初の国際的作曲コンクール入選であり、当時の新聞でも大々的に報道されたようでです。この報道を見た豊橋市在住の内山金子(当時18歳)は、裕而にファンレターを送り、これが縁となってスピード結婚します。 「竹取物語」は、ストラヴィンスキーやリムスキー=コルサコフなどの影響を受けた斬新なオーケストレーションの管弦楽曲だったようですが、裕而が20歳までに書き溜めた膨大なクラシック作品(複数の交響曲、ピアノ協奏曲、交響詩「ダイナミック・モーター」、弦楽四重奏曲など)は、「竹取物語」も含め。すべて失われたそうです。ひょっとすると、フランスの後期ロマン派のクラシック作曲家<アンリ・デュパルク>(1848~1933)のように、裕而自ら破棄してしまったのかも知れませんね。 以下にネットで拾った「竹取物語」のスコア(総譜)の写真を貼り付けます。 写真がボケていてよく判らないが、 本格的なスコアだ! (ビクターの機関誌「ビクター」昭和5年(1930年)7月号に掲載された「竹取物語」の楽譜) 以上のように、古関裕而は当初は山田耕作のようなクラシックの作曲家を目指していたのですが、福島商業学校在学中に実家の呉服店が倒産、そのため、やむなく収入に繋がらないクラシックの作曲家になることを諦め、昭和4年9月、流行歌の作曲家になるべく、知己を得ていた山田耕作の紹介で、コロムビアレコードの専属作曲家として「就職」するのです。 それでは年代順に古関裕而の名曲を辿って行きます。 ◎「福島夜曲(せれな~で)」(詞:竹久夢二) 昭和6年、コロムビア専属作曲家としての初めてのレコードが発売されました。 A面には少年時代、近所に住んでいた5歳年上の作詞家・野村俊夫の詞による「福島行進曲」、「福島夜曲」はそのB面に収められました。 「福島夜曲」は、昭和4年、福島市で竹久夢二の展覧会が開催された折、夢二のファンであった裕而が、夢二の福島をうたった「福島夜曲」という詞に曲を付けて、夢二の泊まっている旅館に持参した曲です。以来、夢二と裕而は固い親交を結んだのだそうです。 (「福島夜曲」の色紙) 「福島夜曲」の詞は、<七-五-七-五>の全12段から成っています。 長い詞ですので、「吾妻山」、「会津磐梯山」、「信夫山」を歌った3段の詞を以下に書いて見ます。 ◎「福島夜曲(せれなあ~で)」(詞:竹久夢二) 遠い山河たづねて来たに 吾妻しぐれて見えもせず 会津磐梯山がほのぼの見ゆる 心細さに立つ煙か 信夫お山におびときかけりゃ 松葉ちらしの伊達模様 リュウちゃん、この歌は、平成8年にコロムビアレコードから発売されたCD<藍川由美「古関裕而歌曲集」>で初めて聴き、いっぺんに好きになってしまったのです。 <「藍川由美:古関裕而歌曲集」のCDジャケット> 残念ながらこの曲はYou-TubeにUPされていませんので、このブログで紹介することは出来ませんが、上記<「藍川由美:古関裕而歌曲集」>のアマゾンのサイトで、冒頭30秒だけ視聴出来ます。興味のあるお方はこちらで試聴して下さいね(メロディは上掲の「色紙」で分かりますね) 尚、リュウちゃんは藍川由美さんのファンなので、以下に挙げる曲で彼女の録音のあるものは、出来るだけオリジナルのYou-Tubeと併記して貼り付けて行く予定です。 (追記) 11月28日、NHK朝ドラ「エール」は最終回を迎えました。本日、改めましてYou-Tubeを覗いてみました所、阿部秀子という歌い手の「福島夜曲」がUPされていることを発見! <「福島夜曲」(歌:阿部秀子)> 恐らく、これが「福島夜曲」の最初のレコーディングだと思われます! ◎「紺碧の空」(詞:住 治男(すみ・はるお)、早稲田大学第1応援歌) <「紺碧の空」>→ここをクリック(以下同様) 昭和6年、早稲田大学からの依頼で作曲されました。後年、スポーツに関する名曲を多くの越した古関裕而の、このジャンルの嚆矢となった名曲です。 この応援歌は、「早慶戦」で、慶應義塾大学の<「若き血」(詞・曲:堀内敬三)> に対抗するために作られたようです。 弱冠22歳の青年作曲家が、 同年代の早稲田大学生に依頼されて 見事な応援歌が出来上がった! 凄い! ◎「船頭可愛や」(詞:高橋掬太郎、歌:音丸) 昭和10年、裕而がコロムビアの専属作曲家となって5年目に発売し、初の全国的大ヒットとなった名曲です。 この歌を吹き込んだ「音丸」は、東京出身の女性歌手、当時は「市丸」や「勝太郎」のように、男のような芸名を持った芸者出身の「うぐいす芸者(歌手)」が全盛だったのですが、「音丸」は芸者経験のない「下駄屋の姉御」だったのです。 (音丸) 船頭さんといえば、大体は男、 何で、船頭さんが可愛いのか? とリュウちゃんはずっと不審に思っていましたが、この歌の「船頭」はどうやら「潮来の娘船頭さん」のことのようですね。 昔、水郷の「潮来」では、産業らしいものが無く住民の収入も乏しかったので、地元の若い娘を「娘船頭さん」としてサッパ舟(魯で漕ぐ小舟)の船頭をさせたところ、これが大評判となり、観光客が大勢、潮来に来たのだそうです(古関裕而の自伝「古関裕而―鐘よ鳴り響け」には、この歌のことを<「大海の豪快な漁師を想う歌」>と書いているようですが、腑に落ちない記述ですね) (潮来の娘船頭さんが漕ぐ「嫁入り舟」) そうか! 娘船頭さんだから可愛いのか! 納得!? 尚、潮来の「娘船頭さん」、「嫁入り舟」を題材にした歌には、以下のようなものがあります。 <美空ひばり「娘船頭さん」>→ここをクリック(以下同じ) この歌、リュウちゃんは最近、シビれています。 ◎「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」(詞:佐藤惣之助、歌:中野忠晴) <六甲おろし、オリジナル音源> 御存じ、阪神タイガースの応援歌です、昭和10年の「大阪タイガーズ」球団創立時に作られ、翌昭和11年、チームの激励会で披露されました。昭和36年、球団名が「阪神タイガース」に変更されたため、曲名と歌詞が変更され、「阪神タイガースの歌」になりました。 <戦時歌謡・軍歌> 昭和6年、「満州事変」勃発。昭和12年、「日中戦争」勃発、このころから音楽界、レコード業界も戦争に巻き込まれて行きます。クラシックの山田耕作や歌謡曲の古賀政男、古関裕而らは、軍部の要請に応じて、否応なく大量の軍歌、戦時歌謡を作ることになるのです。 ◎「露営の歌」(詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章) <「露営の歌」:春日八郎> 日中戦争が勃発した昭和12年、毎日新聞が戦意高揚のために「進軍の歌」の詞を募集、奈良市出身の薮内喜一郎が入選しました。その詞は北原白秋や菊池寛によって、「露営の歌」と題され、毎日新聞紙上で発表されました。この新聞を満州旅行の帰途、下関から東京へ行く特急列車の車内で読んだ古関裕而は心を動かされ、作曲を依頼されていないのにも関わらず、東京に着くまでの車中で作曲しました。東京でコロムビアの社員が正式に作曲を依頼したところ、古関は「それなら、もう出来ていますよ」と言って楽譜を差し出したのだそうです(このエピソードはウィキペディアに掲載されています) ◎「愛国の花」(詞:福田正夫、歌:渡辺はま子) 昭和12年年、銃後を守る婦人の思いを託した「国民歌謡」として大ヒット、5年後の昭和17年に映画化されました。 ◎「暁に祈る」(詞:野村俊夫) 昭和15年の映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」の主題歌です。レコードのB面に収められた挿入歌「愛馬花嫁」(曲:万城目 正)も大ヒットしました(リュウちゃん、以下の島倉千代子の歌唱が「お気に入り」なのです。 お千代さんの「愛馬花嫁」、 素敵だ! <「愛馬花嫁」:島倉千代子> この曲のウィキペディアには、以下の記述があります。 「望郷の念にかられる兵士達の思いが見事に描かれており、それが大衆に受け、当初の目的である「軍馬PR映画」の枠を超えてレコードは大ヒットを記録した。この曲や、同じく古関裕而作曲である「露営の歌」などの歌詞やメロディを紐解くと、実は「反戦の歌」であることがわかる。本心では家族と別れ戦争に行きたくはなかった兵士達に共感を得て愛唱された結果、ヒットした」 この記述、かなり独断的ですが、 実は「反戦の歌」、 実は、リュウちゃんも同感! (※)リュウちゃん、軍歌や軍国歌謡曲は嫌いなのですが、古関裕而の軍歌や軍国歌謡曲は例外です。歌詞は殆どの場合は「軍歌そのもの」なのですが、その詞に付けられた古関裕而のメロディは一般的な空疎で勇壮な軍歌とは異なり、哀調を帯びていて、悲愴です。ウィキペ氏の<実は反戦の歌>の記述は、相当独断的で全面的に納得出来る訳ではありませんが、 「同感!」の思いがするのです。 <伊藤久男> 古関裕而の歌を多数レコーディングした伊藤久男は、裕而と同郷の福島県生まれ、裕而より1歳年下の歌手です。 「暁に祈る」は古関裕而=伊藤久男(ソロ歌唱)の最初の大ヒット曲になりました。戦後、2人のコンビの歌は、高校野球の歌「栄冠は君に輝く」、「イヨマンテの夜」、「サロマ湖の歌」などが大ヒットしました。 (伊藤久男) (※)リュウちゃんが昭和40年代、テレビの懐メロ番組で伊藤久男の歌を聴いた時は、「声量はあるが、ドラ声を張り上げる雑な歌手」という印象が強かったのですが、これはテレビの懐メロ番組に登場してきた昭和40年代以降には、糖尿病が悪化し、本来の美しいバリトン歌唱が破綻していたためのようです。 ◎「若鷲の歌(予科練の歌)」 (詞:西條八十、歌:霧島昇、波平暁男) 昭和18年9月に公開された戦意高揚映画「決戦の大空へ」(主演:原 節子)の挿入歌です。海軍飛行予科練習生(予科練)の訓練と生活を描いた「予科練募集のためのプロパガンダ映画」だったようですが、この映画の影響もあったのか、それとも、「若鷲の歌」が若者の心を動かしたためなのか、予科練を志願する若者はこの映画公開直後、飛躍的に増えたようです(映画公開前の昭和18年4月の「甲種12期生」の入隊者は約3200人でしたが、映画公開(レコード発売)直後の昭和18年10月の「甲種13期生」の入隊者は、12期生の約10倍、3万人と、飛躍的に増えています) この映画は戦後になると 、すぐに忘れ去られてしまいましたが、「若鷲の歌」は時代を越えて今でも歌い継がれています。 古関裕而の紡ぎ出す 格調高く悲愴なメロディは 永遠に残るのだ! このブログの最後に、古関裕而の作曲した戦時歌謡を出来るだけ挙げて見ます。 <「海の進軍」:藤山一郎・二葉あき子・伊藤久男~昭和16年>→ここをクリック(以下同じ) <「特別攻撃隊(斬込隊)」(歌唱・藍川由美~昭和20年> (藍川由美<レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ(古関裕而歌曲集2)>のジャケット) (※)この歌、昭和20年にレコードが発売された形跡がありません。恐らく、藍川由美さんが平成9年に発売したCD<レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」(古関裕而歌曲集2)>が初録音かつ唯一の録音のようです。 昭和20年は、3月10日の「東京大空襲」((約10万人が死亡)、7月26日、ポツダム宣言、8月6日、広島原爆投下、8月9日、長崎原爆投下、8月15日、ポツダム宣言受諾(敗戦)、と、もはや新しいレコードを発売する余裕は全くありませんでした。恐らく3月10日の東京大空襲で、レコード会社のスタジオも殆ど壊されてしまい、物理的にもレコードの発売は出来なかったように思われます。戦後、歌謡曲のレコードが初めて発売されたのは、昭和21年1月発売の「リンゴの唄」霧島 昇・並木路子のデュエット)だったのです・ 古関裕而は昭和10年、26歳の時に「船頭可愛や」の大ヒットで世に認められました。しかし、昭和12年の「日中戦争」勃発以降、日本は軍事色一色に染められ、レコード業界のアーティストも好むと好まざるとに拘わらず、「戦時歌謡・軍歌」を作らざるを得なかったのです。そのような世情の中、古関裕而は作曲家のトップランナーとして、多くの戦時歌謡・軍歌を作曲し続けたのです。 同時期の山田耕作や古賀政男らの戦時歌謡・軍歌が敗戦後、全く歌われなくなってしまいましたが、ただ一人古関裕而の歌だけは、戦後も歌い続けられる「スタンダードナンバー」になったのですね。 古関裕而の格調高いメロディは、 戦時歌謡という忌まわしい詞を越えて 永遠に残るスタンダードナンバーになった! とリュウちゃんは思っているのです。 古関裕而の格調高いメロディが全面的に開花するのは、昭和22年からです。 次回のブログでは、 昭和22年からの古関裕而の足跡を 楽しみながら辿ってみたいと思っています。 <以下、「NHK朝ドラ「エール」のモデルになった作曲家・古関裕而の歌(2)~戦後編」に続きます>
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