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カテゴリ:奈良散策
全山梅また梅 奈良で一番大きい賀名生(あのう)梅林、 やはり雄大な景色だ! 3月12日、「奈良で一番大きい梅林」である「賀名生(あのう)梅林」に行ってきました。前日の「月ヶ瀬梅渓行きに続く、2日連続の梅林探訪です。 「月ヶ瀬梅渓」のブログでも書きましたように、「賀名生梅林」の梅の本数は2万本、奈良県で一番大きい梅林です。 以下に「賀名生梅林散策MAP」を貼り付けます。 上掲の散策マップにつきまして、注釈を入れてみます。 ★青能梅林の住所は、奈良県五條市西吉野町北曾木、JR「五條駅」から南に向かい、8,5キロの場所にあります。梅林は北曾木丘陵の斜面全面に、2万本の梅が植えられています。 ★「吉野の桜」に習って、「口の千本」、「一目万本」、「見返り千本」、「東雲(しののめ)千本」、「西の千本」、「奥の千本」といった「お花見スポット」があります。 ★MAPの一番下に「賀名生皇居跡」、「賀名生の里・歴史民俗資料館」があります。ここの標高は160m、これは「月ヶ瀬梅渓」の「下の梅林」とほぼ同じ標高です。一番上の「奥の千本」の標高は400m、従いまして、一番下の「賀名生皇居跡」と、一番上の「奥の千本」の標高差は240mとなります。 「月ヶ瀬梅渓」の上と下の標高差は130m、 「賀名生梅林」の上と下の標高差は240m 、 「月ヶ瀬梅渓」の2倍近い標高差がある! ★メインストリートである「黄色い道」の外周は、5,5キロ程のようです。メインストリート以外にも、無数の小道が縦横に走っていまして、その小道は梅林の中に点在する梅農家に繋がっているのです。 例によりまして、女房殿お手製のおにぎり弁当とリュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前8時半に自宅を出発、電車とバスを乗り継いで、午前11時47分、梅林の入り口にある「賀名生和田北口バス停」に到着しました。 <賀名生皇居跡> 梅林に登る前に、麓にある「賀名生皇居跡」に立ち寄りました。 「皇居」といえば天皇のお住まい、 誰の「皇居」なのだろう? 「皇居」の前に、由来が書かれた「碑」が建てられていました。以下、その碑文を書き下ろして見ます。 <賀名生皇居跡の碑文> 延元元年(1336年)、12月21日、後醍醐天皇は京都花山院を脱出、23日、阿那宇(あのう)にお着き、ここを皇居とされた。28日には吉野に潜幸になっている。かくて正平3年(1348年)、高師直(こうのもろなお)が吉野を犯したので、後村上天皇は逃れて、9月頃賀名生の皇居に入られ、時には住吉、観心寺、天野山金剛寺に、一時は京都に還幸された。殊に正平6年(1351年)、足利尊氏が帰順したので、北朝の天皇の廃立を宣し、南朝の年号に統一し、神器も皇居の内待所におさめられた。現在の堀家は、皇居の跡で普通の民家としては異例の特色ある稀有の遺構を有している。藁葺門の「皇居」の扁額は、天誅組吉村寅太郎の掲げたもの、尚、堀家には南朝関係という遺品の記録及び天誅組浪士帖等、多数の宝物がある<西吉野村観光協会> 今はカフェになっているこの「皇居」、 「南朝」の祖、第96代・後醍醐天皇と 第97代・後村上天皇の「皇居」だったのだ! (後醍醐天皇) 「皇居」の上のある山裾に、後醍醐天皇の側近であり、実質的に南朝を指揮し、著名な歴史書「神皇正統記」の著者である北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)の墓があるというので、行ってみました。 鳥居は立派だが、 墓自体は非常に小さい! 下の写真は、北畠親房の墓の近くで撮った「賀名生梅林」の下部の光景です。 もう、午後0時30分ですが、昼食は後回しにして、これから梅林を登って行きます。 <見事なミツマタの花> 梅林の麓に、見事なミツマタの花が咲いていました。 正にゴールデンボール! こんな見事なミツマタの花、 初めて見た! 車も通れる舗装されたメインストリートを登って行きます。 メインストリートの右側は「口の梅林」です。 メインストリートの左側は「一目一万本」、この急斜面にある梅の花が、賀名生梅林を代表する光景なのです。 「賀名生梅林」は 「月ヶ瀬梅渓」とは少し違って 観光梅林ではなく、「梅の実生産梅林」。 殆どが梅の実収穫のための「白梅」なのだ。 道路沿いに、またもやミツマタを発見、 賀名生のミツマタ、 素敵だ! 「白梅」以外の梅の花をい求めて、脇道に入って行きました。 ありました! 農家の門前に咲く、 ピンクと赤の枝垂れ梅! 赤い枝垂れ梅にリュウちゃん大感激!!! この辺りの小さな集落には、ピンクの梅やピンクの枝垂れ梅がありました。 ピンクの枝垂れ梅と松の若葉のコラボ、 「松竹梅」ならぬ「松・梅」だ! ガレージを改装した私営の休憩所の前のピンクの枝垂れ梅です。 枝垂れ梅の右手に見える山は「金剛山」(標高1125m)です。 ここから見る金剛山の裏側は大阪府の千早赤阪村です。 南北朝時代、後醍醐天皇を奉じた武将・楠木正成(くすのき・まさしげ)の居城「赤坂城」・「千早城」がありました。 元弘元年(1331年)、楠木正成は「赤坂城」・「千早城」に立て籠もり、攻めてくる鎌倉幕府軍と対峙、わずか500人の軍勢で、30万人とも云われた圧倒的な幕府軍を相手に、約1ヶ月もの間、持ちこたえたというエピソードは、「太平記」のハイライトの一つですね。 (「千早城の戦い」絵図) 段々、梅林の上部に登って行きます。上部に登るにつれて、視界がどんどん広がって行きます。 もう午後1時30分、 猛烈にお腹が空いた!!! 「賀名生梅林」は「月ヶ瀬梅渓」とは違って、観光客のための休憩所やトイレが殆どありません。少なくても、リュウちゃんが辿った道筋には、公共の休憩所やトイレは全く無かったのです。 何処で昼食を摂ろうか? 道の脇に、「ここは西の千本です」という標識を発見、 よし! ここで昼食を摂ろう プファ~、ビールが旨い! 眼下に拡がる梅林と吉野の山並み、 最高だ! もう午後2時を過ぎた。 そろそろ下山しよう。 で、「奥の千本」辺りの絶景を楽しみながら、約1時間掛けて下山しました。 帰路の途上、梅の花と竹林のコラボを発見、 往路の松とのコラボを合わせると、 「松・竹・梅」の完成だ(苦笑) 午後3時ジャスト、下山完了、帰りのバスの時間まで、少し余裕がありましたので、「皇居跡」の隣にある「賀名生の里・歴史民俗資料館」にちょっと立ち寄りました。 「歴史民族資料館」の中には、大和郡山市にある「大和民俗公園」と同じように、幾つかの雛人形や「唐箕」などが展示されていました。 「歴史民族資料館」に、賀名生梅林に関する2つの立て看板が立てられていました。2つとも、「賀名生」を知る上で重要な情報が書かれていましたので、以下、文字起こしをしてみました。 (1)<賀名生の由来> 延元元年(1336年)12月。足利尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇は、吉野潜幸の途中、この地に拠られました。当時。この地は「穴生(あなう)」と呼ばれていました。正平6年(1351年)10月、足利尊氏が南朝に帰順し、京都の多くの公卿や殿上人が「穴生」に参候して北朝が否定されたので、翌正平6年(1352年)正月、後村上天皇は、「願いが叶って目出度い」という思し召しから、「加名生(かなう)」と名付けられ、京都に還幸されました。これが世に云う「正平の一統」です。後で「加名生」は畏れ多いと、「賀名生」に改められたと伝えられています。明治の始めになって、「あのう」に呼び方を統一しましたが、下賜された南朝の歴史を伝える地名も昭和34年の合併で消え、ここに「賀名生の里」として刻まれるのみである。 (2)<賀名生梅林について> 「月ヶ瀬」、「広橋」とともに奈良県の三大梅林の一つである「賀名生梅林」、北曾木の丘陵を約2万本の梅が蓋い尽くす風景は、西吉野に春の訪れを告げる風物詩です。南北朝時代、都を追われた後村上天皇や公家達は、この地の梅を愛で、歌を詠んだと云われています。明治の初めに果実の収穫を目的として栽培が始められ、大正12年(1923年)に、当時皇太子だった昭和天皇のご成婚を記念して、5千本の苗が植えられました。 時代の変化と共に、梅の栽培に適していることから、戦後さらに拡大され、現代のような広大な梅林となりました。 品種としては、「白加賀」、「鶯宿」、「南高」、「林州」などが栽培されています。 なかでも、賀名生梅林を象徴する梅は、この地特有の「林州」という品種です。 後村上天皇や公家達が詠んだ歌の梅は、この地で眺めた林州だったのかも知れませんね。 一時、和歌山県みなべ町の「南高梅」が人気となり、「南高梅」へと植え替えられてしまい、梅林の大半を占めていた「林州」は全体の2割程度まで落ち込みましたが、地元の人達が「林州」を増やす努力を続け、昔ながらの賀名生梅林の景観を取り戻そうとしています。 「月ヶ瀬梅渓」、「賀名生梅林」、 そして「桜の吉野」、 皆、南朝=後醍醐天皇繋がりだったのだ!
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