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カテゴリ:奈良散策
明日香村・稲渕地区名物の案山子ロード 今年のジャンボ案山子は大谷翔平選手だ! (前回のブログに続きです) 12時30分、やっと「石舞台売店」(休憩所)に到着、 休憩所のベンチで昼食、 プファ~、ビールが旨い! 飛鳥の初秋の風が心地いい! 昼食の後、久しぶりに石舞台古墳に入場して見ました。 側面から撮った石舞台古墳です。 側面から見ると、 まるで「寝ている大仏」に見える! 右側の巨石、 「大仏の頭部」だったのか??? 玄室(死者を埋葬した墓室)に入ります。 玄室の内部です(撮影に失敗したため、以下の写真はネットからお借りしました) 玄室には、本来、被葬者を埋葬した「石棺」があった筈ですが、昭和8年~10年に京都帝国大学により行われた本格的な発掘の際には、すでに「石棺」は断片しか残っていなかったようです。 石舞台古墳の横手に、復元された「石棺」が安置されていました。 「復元された「石棺」の横に、以下の立て札が立てられていました。 この立て札の記述により、 多少、石舞台古墳の謎が 判ったような気がする。 尚、「石舞台古墳の謎」につきましては、下記のサイトに要領よくまとめられていますので、興味のある方は下記サイトをクリックして読んでみて下さいね。 <閑古鳥旅行者―石舞台古墳―> 通常、石舞台古墳のような古代の豪族の墳墓は、築造された後に墳墓全体を「封土」(土で埋める)するのですが、石舞台古墳は、かなり昔から封土が剥がされ、石室がむき出しになっていたようです。 以下の絵図は、嘉永6年(1853年)に刊行された「暁鐘成(あかつき かねなり)」が著した「西国三十三所名所図会」の「石舞台の図」です。 上掲の絵図で左側の手前にあるのが石舞台古墳です。この絵図により、江戸時代の終わり頃には、石室が剥き出しになっていたことが判ります。 下の写真は、昭和8年に京都大学が発掘調査した時の石舞台です。 (昭和8年の石舞台) 上掲の絵図及び写真を見ますと、当時は玄室の下まで岩が剥き出しになっていることが判りますね。現在見られるような玄室のところまで盛り土をしたのは、周辺整備と復元作業が行われた昭和34年だったようです。 上記の事柄から推定いたしますと、 石舞台古墳の封土は、 645の「乙巳の変」直後に剥がされ、 石室が剥き出しにされた。 と云えそうですね。 <石舞台周辺の萩の花とススキ> 石舞台の周辺は公園として綺麗に整備されています。以前は石舞台を囲む正方形の土手の斜面や、周辺にも紅白の彼岸花が見られたのですが、今回は残念ながら、彼岸花は全く見ることが出来ませんでした。 ここは奈良県屈指の ススキと萩の花の名所なのだ! <稲渕地区へ> 一時、ススキと萩の花を愛でてから、本日の一番のお目当てである「稲渕地区」に向かいました。「稲渕地区」は石舞台から徒歩30分くらい坂を上ったところにある「棚田百選」に奈良県で唯一剪定された「棚田の村」なのです。 上がっていく道路の右側に、「稲渕の棚田」が見えてきました。 棚田の周辺には、赤い彼岸花が咲き残っていました。 稲渕の陸橋を潜りますと、名物の「案山子ロード」のある目的地です。 入口のところに、いつものように紅白の彼岸花が咲いていました。 今年も入口の紅白の彼岸花に逢えた。 奥の黄色い彼岸花、 まだ咲いているだろうか? さて「案山子ロード」です。 稲渕地区では、9月になりますと棚田の農道沿いに地元の皆様が作られた数々の案山子が飾られます。毎年、テーマがありまして、昨年のテーマは「絆」、今年のテーマは「マスクの似合う案山子」なのだそうです。両方とも「新型コロナウィルス」に関連したテーマですね。 さて、今年の「案山子」を幾つか紹介いたします。(分かる限り、案山子のタイトルを入れてみました) ★「マスクの似合う<女の子>」:これ、「毀滅の刃」案山子なのかな? ★「稲渕の棚田でとれた棚田米」 ★「お姉ちゃんと仲良く」 ★「疫病解散!?アマビエの眼で鬼退治」:ちょっとシュールな案山子だ! ★「三猿」 ★「大坂なおみ選手」:この案山子、本人よりもキュートだ!? ここの案山子、いつも1体だけ、巨大なジャンボ案山子が作られます。 昨年は新型コロナ禍で亡くなった「志村けん」のジャンボ案山子だったのですが、今年は大リーグで「二刀流」で大活躍した大谷翔平選手のジャンボ案山子だったのです。 大谷選手よりは顔が長いのが気になるが、 大谷選手をジャンボ案山子にした 「選球眼」はナイス!なのだ。 実はリュウちゃん、オリンピック・パラリンピック開催中に、オリ・パラは殆ど観ずに、ネットのAbemaTVで藤井総太君の将棋中継と大谷選手の試合ばかり見ていました。 ここで大谷選手の今季の成績を挙げてみます。 <打撃成績> ★出場試合数:155試合、★打席数:537打席、★ヒット数:138安打、★打率:0,257、★本塁打:46本、打点:100打点、★得点:103得点、 ★盗塁:26盗塁、★四球:96個(内、敬遠:20個)、三振:189個、 <投手成績> ★登板試合数:23試合(全て先発)、★勝敗:9勝2敗、★登板イニング数:130イニング、★防御率:3,18、★奪三振数:156個、 大谷翔平殿 来年は今年以上に、 二刀流に磨きをかける事を 期待しています! <稲渕地区の白と三色の彼岸花> 案山子ロードの終着点に、赤・白・黄色の三色の彼岸花が咲いているエリアがあります。 終着点が見えてきました。 遠目では彼岸花は少ない、 やはり「終わりかけ」なのか? やはり、「終わりかけ」でした(残念!) もう午後3時だ。 先を急がないと日が暮れてしまう! 少し足は重いが、これからはずっと下り坂、 先を急ごう! 帰路途中の「富有柿」です。 もう柿の季節だ! <聖徳太子誕生の橘寺> 午後3時30分、聖徳太子生誕の地とされる「橘寺(たちばなでら)に着きました。 橘寺の下の棚田も、明日香村屈指の彼岸花の名所なのです(下の写真で、左側にあるのは「観音堂」なのですが、現在は修復工事中なのです) 境内に入ります。 橘寺の境内には、約150本の「酔芙蓉」が植えられていて、今や奈良県屈指の酔芙蓉の名所なのです。不信人者のリュウちゃんが拝観料350円を払って境内に入ったのは、「酔芙蓉」を観るためだったのです。 もう夕方 朝には白かった花びら 皆、酔っぱらってピンク色になった! 下の写真は橘寺の境内にある「飛鳥の謎の石造物」の一つ、「二面石」です。2つの顔が彫られており、一面は「善の顔」、もう一面は「悪の顔」とされていますが、長年にわたる風化で、表情が殆ど判らなくなってしまいました。 聖徳太子が「通勤」に使ったとされる愛馬「黒駒」の像です。 7世紀の初め、聖徳太子は「斑鳩宮」で暮らしていましたが、飛鳥の「小墾田宮(おはりだのみや)」で即位した推古天皇の摂政となったため、「斑鳩宮」から黒駒に乗って、頻繁に飛鳥に「通勤」したとされています。 法隆寺にも、聖霊院の右手に小さな厩(うまや)があり、この中には「黒駒」と、従者の調子丸の像が祀られています。 (法隆寺の黒駒の小さい厩) 飛鳥の「橘寺」から斑鳩の「法隆寺」までの道は「太子道」と称され、現在でも残っています。「太子道」は全長28km、歩いて行けば1日掛かりの行程ですね。 馬に乗っていったとしても通常なら2~3時間くらい掛かる筈ですが「黒駒」は「神馬」で、一瞬にして富士山も飛び越えてしまう超能力を持っていたようなので、一瞬で「法隆寺」から「橘寺」に辿り着いたのかも知れませんね。 そうだとすると 手綱を引く調子丸は 「おいてけぼり」だ! 調子丸さん、大苦労されたようだ!? (黒駒に乗る聖徳太子と従者調子丸) もう午後4時だ! 先を急ごう。 下の写真は、境内の中から撮った「西門」です。 写真中央に伸びている農道を右に曲がりますと、「亀石」に出逢います。 田んぼのあぜ道に一列に咲く彼岸花です。 こちらの彼岸花は、まだ「見頃」でした。 石碑の下に咲く白い彼岸花です。 本日の遠足で最後に観た白い彼岸花となりました。 明日香村の「謎の石造物」の中でも、最も有名な「亀石」です。 例年、この「亀石」の頭の横には、赤い彼岸花が咲くのですが、今年は下の写真のように、彼岸花の姿は影も形もありませんでした(残念!) 「天武・持統陵」のある丘の麓の彼岸花です。この辺りは蕎麦畑になっています。実は、ここに「赤トンボ」が飛んでいたのですが、リュウちゃんのバカチョンデジカメでは「赤トンボ」をとらえることが出来ませんでした。 カメラが悪いのか? リュウちゃんの腕が悪いのか? おそらく後者ですね。 ブログ友の「みなみたっち」さんだったら、バッチリと「赤トンボ」の飛翔を捉えられただろうと思い、つくづくも残念だったのです。 下の写真は「天武・持統陵」の下で撮りました。正面の石段を上がったところに「天武・持統陵」(野口王墓)があります。 時間があれば、「天武・持統陵」の裏手から、明日香の彼岸花の「名所」の一つである「欽明天皇陵」まで足を運ぶ予定だったのですが、夕暮れが迫って来ましたので、本日の最後の目的地である「中尾山古墳」に向かいました。 「中尾山古墳」って何? 以下に「高松塚古墳」周辺の案内図の写真を貼り付けます。 ★上掲の案内図で、中央上部の矢印の先、徒歩10分のところに「天武・持統陵」があります。 ★図のやや右下に、「高松塚古墳」があります ★「高松塚古墳」の下、案内図からはみ出したところに「文武天皇陵」があります。 ★「中尾山古墳」は、右上の赤字で「現在地」と書かれた斜め左下にあります。 ★「中尾山古墳」は直径約20m、高さ4mの小さな三段式八角墳です。 明日香村の古墳の中では、地味な存在であった「中尾山古墳」は、昨年末、急に脚光を浴びることになりました。 以下に、昨年11月、「中尾山古墳」に関する新聞記事の「見出し」を幾つか貼り付けます。 <奈良の八角墳、構造判明、専門家「文武天皇陵では?」>(2020年11月26日、朝日新聞デジタル) <奈良・中尾山古墳、「真の文武陵」 異例の成果、陵指定なく調査可能>(2020年11月27日、毎日新聞大阪朝刊) <中尾山古墳も八角墳、文武陵?、石敷きは3重>(2020年11月26日、日本経済新聞) 明治以来、宮内庁か一貫して「文武天皇陵」であるとしてきた「桧隈安古岡上陵:ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)」が、 実は文武天皇陵ではなかった! これは考古学上のビッグニュースなのだ! (文武天皇陵?桧隈安古岡上陵?) この問題につきまして、ジャーナリストの粟野仁雄(まさお)氏が2020年12月30日付けの「デイリー新潮」で総括的なコラムを書いていますので、そのコラムを以下にコピペします。 <「中尾山古墳」が文武天皇陵と確実に、宮内庁はいつまで「ねじれ構造を放置するのか> 奈良県明日香村の中尾山古墳が、日本が統一国家の様をなしてゆく7世紀末から8世紀初頭に君臨しながら夭逝した文武天皇(683~707年)の陵墓であることが確実となった。 2020年11月28、29日だけ一般公開され、ぽかぽか陽気の29日に訪れた。明日香村の教育委員会と関西大学が「再調査結果」として発表したもので、発掘調査は1974年(昭和49年)以来という。 中尾山古墳は近鉄・飛鳥駅から歩いて15分ほどの丘にある。文武天皇陵と認められたことを祝うように、古墳の周囲だけまだ紅葉が美しかった。 集まった見学者を前に明日香村教育委員会の西光慎治調整委員が「天皇中心の律令国家で作られた新しい形態のお墓。舒明天皇以来の八角形は天皇にしか許されない形のお墓の形態なんです。でもこの八角形は中尾山古墳で終わってしまった。唯一無二の重要な古墳です」などと説明していた。巨大な前方後円墳の時代はとうに去り、規模も縮小されたこうした天皇陵が主流になったが、その最後のもので「終末期古墳」とされる。 墳丘は三段構造。下段と中段には石が敷き詰められている。上段は土だけを固めている。(版築という)。石室は10個の大きな石材を組んで作られた「横口式石槨」構造。 側壁、奥壁、隅石(石柱)は加工しやすい兵庫県高砂市産の「竜山石」(凝灰岩の一種)が使われる。石敷きの石は560トンも使われ、八角形の「対辺長」(円でいう直径)は32・5メートルもある。 石室には子供か痩身の人ならやっと入れる幅25センチほどの隙間がある。鎌倉時代に盗賊が重い隅石を押しのけて作った隙間だ。入口に鏡が置かれて中が少し覗けるようになっていたが「次のグループが来ていますのでお進みください」と言われよく見られなかった。天井石は花崗岩、内部はかつて水銀朱で真っ赤に塗られており、天井に片鱗があるという。中央には火葬骨を収めた銀壺を置く台があったと見られる。 「文武天皇陵であることをさらに強く裏付ける発見」(白石太一郎・国立歴史民俗博物館名誉教授)(11月27日付け読売新聞朝刊)、「八角墳の最終段階を象徴するような古墳。『文武をもって古墳は終わる』といわれているが、火葬骨をおさめた石槨(せっかく)の石はピカピカに磨かれ、本当に精緻な造り。最高峰の人物にふさわしい墓だ。中尾山古墳の被葬者は文武天皇の可能性が極めて高い」(岡林孝作・奈良県立橿原考古学研究所副所長)(同日付け産経新聞朝刊)など、中尾山古墳に文武天皇が埋葬されていることは確実視されている。 文武天皇は祖父が天武天皇、祖母が妻の持統天皇。父親(草壁皇子)が若くして死亡し、持統天皇が後見人となって697年に15歳で即位した。孫の即位に邪魔になる大津皇子を処刑した祖母の庇護で文武天皇は「大宝律令」を作り、法と官僚が支配する中央集権の律令国家を完成させた。唐の女帝、則天武后に遣いを送り、新国家が「日本」という名であることを知らせたが、710年の平城京への遷都が間近だった707年に25歳で病没した。 文武天皇から物語が始まる『続日本紀』では、文武天皇の亡骸は飛鳥の山で火葬され遺骨は檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)に埋葬された、と記録される。名前が書かれた石などもなく、文武天皇陵との確証はない さて、 この長い名前の埋葬場所は 実際にはどこなのか? 実は宮内庁が指定(治定(じじょう)という)している文武天皇陵は、極彩色の壁画で有名な高松塚古墳を挟んで500メートルほど南の栗原塚穴古墳なのだ。行ってみた。中尾山古墳よりはるかに大きく、鉄門で閉ざされて入れない奥に立派な鳥居がある。立札には「文武天皇 檜隈安古岡上陵」としっかり書かれている。訪れていた年配の男性は「宮内庁は文武さんの墓はここや言うて、今度も絶対変えへんのやろなあ」と笑っていた。 『天皇陵古墳を歩く』(朝日新聞出版社)などの著書がある今尾文昭氏(関西大学非常講勤師 元橿原考古学研究所調査課長)によれば、文武天皇の墓は江戸時代、中尾山古墳の少し北にある「野口王墓」とされていたが、明治時代に見つかった「阿不幾(あおき)乃山稜記」により、ここが天武、持統天皇夫妻の合葬墓と判明。明治14年(1881年)に明治政府は治定を変更した。「その結果、文武天皇陵を新たに栗原塚穴古墳に決めてしまったのです。江戸時代は文武天皇陵が高松塚古墳だったこともありました。中尾山古墳は近代初めの陵墓からは漏れていたのです」と話す。 この明治14年を最後に宮内庁は一切、天皇陵を変更していない。最近では2010年に、7世紀に活躍した斉明天皇(女帝・皇極天皇が復位して改名した)の墓が明日香村の牽牛子(けんごし)塚古墳と判明、大ニュースになったが、宮内庁は隣町の高取町の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)を斉明天皇陵としたままだ。頑として変更しない理由を宮内庁は「神聖な祭祀が行われてきた」(陵墓課)などとする。6世紀に君臨した継体天皇陵も宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を陵墓としているが、学術研究から大阪府高槻市の今城塚古墳であることが確実。これも変更しない。前述の男性の「今度も」はこれらを念頭にしている。宮内庁は祭祀の伝統とともに「墓誌などが見つかっていない」も変更拒否の理由とし、今回も「名前が書かれた石などもなく、文武天皇陵との確証はない」などとする。 「真実性」 では栗原塚穴古墳には文武天皇の名前が書かれた石があるのだろうか。宮内庁は研究者も一切立ち入らせない。今尾氏は「今の学者で中尾山古墳が文武天皇陵であることを否定する人はいない」と見ており、宮内庁の姿勢は屁理屈をこねて歴史をねじ曲げているとしか思えない。 明治政府は天皇国家として天皇家の権威づけのため実在も疑わしい神武天皇以来の「万世一系」を「可視化」するために慌てて天皇陵墓を「治定」してゆく。幕末から明治にかけて、文献や地域の伝承などに基づいての指定だったが「根拠薄弱」が多いことは指摘されている。その一方で指定した天皇陵の学術的な実地調査をほとんど拒否している。 さて今回、半世紀ぶりに中尾山古墳が発掘調査されたのには理由がある。明日香村と橿原市は「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として、石舞台や天皇陵などの遺跡の世界遺産登録を目指している。中尾山古墳を構成資産にしてもらうには、古墳の正確な寸法のなどが必要だった。明日香村は今回の調査結果について「世界遺産の登録に向けて大きな一歩となる」(教育委員会)と期待している。 だが、世界遺産登録の要件に「真実性」がある。「嘘の埋葬場所」を世界に向けて具体名を挙げた天皇の墓だなどと喧伝していいのだろうか。昨年、大阪府堺市や藤井寺市などの「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されたが、目玉の「大山陵」に埋葬されているとされる仁徳天皇は実在さえ疑わしい。前述の今尾文昭氏は「百舌鳥・古市古墳群を構成する5世紀後半ごろまでの前方後円墳などの被葬者は不確かなことが多い。しかし今回の中尾山古墳は時代が8世紀に入っており、『続日本紀』などの正確な史料がある。それなのに事実と違うことを世界に向けて発信するのは問題です」と指摘する。さらに「宮内庁は祭祀を強調するが、一般の人は陵墓祭祀など知らない。違う場所を税金で祭っていることもおかしいのでは」と話す。 宮内庁は墓誌や墓碑がないとするが、そもそも日本の墓には墓誌を入れる風習はない。今尾氏は「律令には墓碑を立てよとの規定はあるが、天皇陵、皇后陵は規定の外にある。学術研究の成果と国家の指定の『ねじれ構造』を正していくべきです。ただ、現状では正しい場所に変えるための法律が存在しない。国会議員なども動いてほしいですね」と訴える。 仮に秦の始皇帝の墓と信じて中国の西安市を訪れて、真っ赤な嘘であれば世界の人は黙っていないだろう。自国の歴史を正しく伝えない国は世界の信用も得られまい。 ーーー リュウちゃんがこの日訪れた「中尾山古墳」は、昨年の発掘作業が無かったかのように古墳が埋め戻され、古墳を埋めた小山の南斜面には草がぼうぼうと茂っているのみだったのです。 「中尾山古墳」を後にして、ゴール地点の近鉄「飛鳥駅」に辿り着いたのが午後5時ジャストでした。 家に帰り、腰に付けていた万歩計の歩数を見ましたところ、 何と、 49187歩! でした。 少々足取りは重かったが、 1日の遠足の最高歩数記録を更新した! 後期高齢者一年生のリュウちゃん、 まだまだ健脚なのだ!
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