全て
| 音楽・歌謡曲・懐メロ
| 懐メロカラオケ
| 懐メロ歌謡曲・カラオケ
| 橋幸夫
| 美空ひばり
| フォト・花・伊勢神宮
| フォトブログ・曽爾高原
| フォト・花と実・斑鳩の里
| 日本映画・小説
| フォトブログ
| SF映画
| 猫のフォトブログ
| 株・日本航空
| 音楽・紅白歌合戦
| 日本映画(邦画)
| 外国映画(洋画)
| SF・天文学
| 童謡・唱歌・歌曲
| 唱歌・抒情歌・童謡
| バンクーバー冬季オリンピック
| フォトブログ・園芸、春咲く花
| 梅・桜・花のフォト
| 国内旅行
| 歴史・奈良遷都
| のだめカンタービレ・クラシック音楽
| バラの花のフォトブログ
| 花遍路・花のフォトブログ
| スポーツ
| クラシック音楽
| 洋楽ポピュラーミュージック
| 時事問題
| 芸術・陶芸
| 原発問題
| 奈良散策
| 藤の花
| 京都散策
| 将棋・藤井聡太四段
| ブログ
| 美術鑑賞
| 葛飾北斎
| 紅葉狩り
| NHK朝ドラ「エール」、古関裕而
| 将棋・藤井聡太
| 東京オリンピック、パラリンピック
| 巨樹探訪
| 将棋・藤井聡太5冠
| 寒牡丹と冬牡丹
| 梅行脚
| 河津桜
| 桜行脚
| 孫姫4姉妹
| アジサイ行脚
| ハスとスイレン
| 馬見丘陵公園の花
| 長浜盆梅展
| 奈良県の河津桜
| 三重県の梅の名所「鈴鹿の森庭園」「いなべ農業公園梅林」
| 月ヶ瀬梅渓
| 醍醐寺の桜
| 2つの「吉野の桜」
| 函館「五稜郭」の桜
| 大和葛城山のヤマツツジ
| 近江妙連
| 西ノ京ロータスロード
| 歌川広重
| 咲くやこの花館
| 海遊館
カテゴリ:音楽・歌謡曲・懐メロ
藤原宮跡から安倍文珠院へ、 今年も「コスモス行脚」が出来た! 10月19日、今年初めての「コスモス行脚」に行って来ました。 今回歩いたのは、奈良で一番のコスモスの名所である「藤原宮跡」と、桜井市にある古刹「安倍文珠院」です。 本日の行程は以下です。 JR「畝傍駅」~「おふさ観音」~「藤原宮跡」~「安倍文珠院」~JR「桜井駅」 おおよその距離は、JR畝傍駅から「藤原宮跡」までは約1キロ、「藤原宮跡」から「安倍文珠院」までは約4キロ、「安倍文珠院」からJR「桜井駅」までは約1キロ、合計約6キロです。 合計約20キロの 「山の辺の道」と比べると、 楽勝の行程だ! 例によりまして、女房殿お手製の「おにぎり弁当」と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前9時に家を出発、午前11時、出発点の「畝傍駅」に到着。 ローカル線2回乗り換えに失敗、 乗車時間20分なのに、 2時間も掛かってしまった! 午前11時、JR「畝傍駅」に到着、ここからスタートです。 <おふさ観音> 「畝傍駅」から「藤原宮跡」までの途上に、バラの寺として有名な「おふさ観音」があります。 境内に入り、暫し「秋バラ」を鑑賞、 今正に「秋バラ」の季節、 境内には、 鉢植えのバラが咲き乱れていた! 「おふさ観音」から歩いて10分くらいで、「藤原宮跡」の北側に着きます。 おお、 「藤原宮跡」のコスモス、 完全に「見頃」だ! 「藤原宮跡」のコスモスは、約3万平方メートルの広大な敷地に、6種類300万本のコスモスが植えられています。 「藤原宮跡」の総面積は、 84万平方メートル、 コスモスエリアは全体の4パーセントだ。 全ての敷地を コスモスで埋め尽くすとすると、 6300万本のコスモスが必要なのだ! (「藤原宮跡」のコスモスエリア図) コスモスエリアに入ります。 コスモスは、 晴れた秋空がお似合いだ! 「藤原宮跡」は、畝傍山、耳成(みみなし)山、天の香久山の、所謂「大和三山」のトライアングルの中心部にあります。 以下に、例によりまして「大和三山」とコスモスのコラボ写真を貼り付けます。 <畝傍山とコスモス> <耳成山(みみなしやま)とコスモス> <天の香久山とコスモス> 「大和三山」の中では「天の香久山」がコスモスエリアに一番近いので、写真も一番多く撮ったのです。 もう正午を過ぎた、 お昼にしよう。 で、コスモスエリアの北にある「大極殿跡地」に移動、 この「大極殿」から、主(ぬし)だった持統天皇が左前方にある天の香久山を観て、百人一首で有名な、 春過ぎて 夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ 天の香久山 という歌を詠んだ筈です。 (「大極殿跡地」から見た「天の香久山」) 「大極殿跡地」にビニールシートを敷いて、昼食。 プファ~、ビールが旨い! 気分は持統天皇だ! リュウちゃんも一首浮かびました。 夏過ぎて 秋来にけらしまほろばの 香久山の下コスモス薫る(お粗末!) 午後1時過ぎ、「藤原宮跡」を後にして、「安倍文珠院」に向かいました。 「藤原宮跡」から 「安倍文珠院」までは、 約4キロの道のり、 1時間もあれば着くだろう。 午後2時過ぎ、「安倍文珠院」の「表山門」に到着、 下の写真は、「安倍文珠院の伽藍図」です。 コスモスは「金閣浮御堂」のある「文珠池」のほとりと、文珠池の右横の、「花の広場」に咲いています。この時期、「花の広場」には、「コスモス迷路」が作られているのです。 境内に入ります。 先ずは「金閣浮御堂」の周囲のコスモスです。 「金閣浮御堂」とコスモスのコラボ、 「安倍文珠院」の秋の風物詩だ! )「金閣浮御堂」の横にある「コスモス迷路」に入ります。 「コスモス迷路」に 植えられているコスモス、 背丈2~3m、 大人でも迷路の上から見渡せない。 レモンイエロー や珍しい「八重咲き」もある。 この小さい迷路は、 コスモスのミクロコスモス(小宇宙)なのだ! 「コスモス迷路」の入口に、一際小さい「チョコレートコスモス」を観ることが出来ました。 チョコレート色の、 チョコレートの匂いがする 不思議なコスモス、 今年もリュウちゃんを出迎えてくれた! 「展望台」に登ります。 「安倍文珠院」は平安時代の陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をしたお寺で、上掲の「伽藍図」にある「展望台」は、晴明が天体観測をした場所のようです。 展望台の直下に「コスモス迷路」があります。 展望台からの眺望です。金閣浮御堂の右上の山は、藤原宮跡の北にある「耳成山」です。 展望台の脇に、ここからの眺望を示した絵図が掲げられていました。 写真は靄が掛かっていて よくわからないが、 この絵図で、本日歩いてきた道筋を 明瞭に知ることが出来る! ーーーー <付録> <邪馬台国は、やはり「纏向遺跡」だった!???> 前回の「山の辺の道」のブログで、リュウちゃんは、「邪馬台国は桜井市にある纏向遺跡だ」と書きました。 その理由は、 <邪馬台国のことが唯一記述されている中国の「魏志倭人伝」に記述されている国名:地名は、すべて当時の日本人が語った「音声」を当時の中国の漢字に変換したものです。従いまして、中国式漢字表記の以下の言葉は、日本式の漢字に、以下のように置き換えることが出来ると考えているのです。 邪馬台国=倭(やまと)国=大和国、卑弥呼=姫巫女> というものだったのですが、その後、「魏志倭人伝」に記述に関しまして、<邪馬台国=纏向遺跡>説を補強する「ささやかな発見」をしましたので、ここに書いてみます。 <朝鮮から九州に至る「魏志倭人伝」の記述> ★倭人は帯方(今の韓国ソウル付近)の東南大海の中に住み、山島に依って国邑をつくる。もとは百余国。漢のときに朝見(参内して天子に拝謁)する者があり、いま使者と通訳を接触させているのは三十国。 ★郡(帯方郡)から倭に到達するには、海岸に従って水行し、韓国(馬韓)を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その(=倭国の)北岸の「狗邪韓国」(くやかんこく。伽耶・加羅・金海)に到達する。(帯方郡から隔たること)七千余里。 ★海を渡ること千余里で、「対馬国」に着く。 ★南に一海を渡ること千余里、「一大国」(一支・壱岐)に着く。 ★海をわたること千余里で「末廬国」(まつろこく。松浦付近)に着く。 ★東南に陸行五百里で、「伊都国」(いとこく・いつこく。糸島付近)に着く。 ★東南の「奴国」(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里。 (※)尚、「奴国」は、西暦56年に古代中国の「後漢」の光武帝が「漢委奴國王」と印字された金印を授けたことで有名です。この「金印」は、江戸時代に志賀島(現・福岡県福岡市東区の半島)で発見され、現在では、東京国立博物館が所蔵しています。 この金印の発見により、「奴国」が現在の福岡市に存在していたことが確実になりました。 (漢委奴国王印:東京国立博物館蔵) ★東行して「不弥国」に(ふみこく・ふやこく)まで百里。 (※)「不弥国」までは、現在の北九州に存在していたことは確実です。問題はここからで、「不弥国」から南に向かう「九州説」と、東に向かう「畿内説」に分かれるのです。 (邪馬台国への行程図) ★南へ「投馬国」(とうまこく、つまこく)に至る、水行二十日。 (※)「不弥国」から 水行二十日の行程の「投馬国」 、果たして何処にあったのか? 上掲の図をご覧ください。 上掲の図は、邪馬台国畿内説と九州説の2通りの経路が示されています。 畿内説では「投馬国」は広島県の「鞆の浦」(とものうら)辺り、九州説では、宮崎県の「西都市」(さいとし)辺りとする説が有力のようです。 しかし、リュウちゃんは 思い切って想像を膨らませ、 「投馬国」を 奈良の「當麻寺」(たいまでら)の辺りにあった考えるのです。 先ず、「とうま」と「たいま」の音読みが 似ている。 そして、もう一つの類似性を、「魏志倭人伝」の続きの記述から拾ってみました。 ★(投馬国の)官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。 思わぬ所に 「耳成」という言葉が出てきた! これは大和三山の 「耳成山」の由来になった言葉だと 考えるのが合理的ではないだろうか? 「當麻寺」と「耳成山」は 直線距離で10キロ程度、 恐らく、古代の「投馬国(當麻国)」の 領内に「耳成山」も入っていたのだろう。 「耳成」は、邪馬台国畿内説の 重要なキーワードになりそうだ! 最後に、古代の奈良の豪族の分布図を貼り付けます。以下の図は、多分、邪馬台国時代から2~300年後の勢力図のようですが、古代史を想像する上の参考になると思います。 尚、下の図で、「當麻寺」は中央下部の「葛城氏」の表記のある辺り、右側(東)に「大和三山」があります。「纏向遺跡」は、図の右側中央下の「大王家」と表記された辺りにあるのです。
奈良は何処でも、 古代のロマンと謎に満ちているのだ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|