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カテゴリ:歌川広重
大阪で初めて開催される 大々的な歌川広重展、 300点以上の浮世絵の名作を一挙公開。 (歌川広重展ポスター) 7月18日、大阪・天王寺の「あべのハルカス美術館」で開催されている「広重―擦りの極―(すりのきわみ)」展に、女房殿と2人で観に行って来ました(この展覧会は7月6日から9月1日まで開催されています) この展覧会は主催がNHKと朝日新聞社ということもあり、特にNHKのEテレなどで何度もも特集番組を放送しているせいか、会場は大変混雑していまして、一点一点の浮世絵をじっくり鑑賞する時間はなく、浮世絵の前を来場者の流れにまかせて通り過ぎるだけになってしまったのです。 会場内は基本、撮影禁止なのですが、今回は珍しいことに、一部の作品で「撮影OK」になっていました。 以下、何枚か撮影した写真を貼り付けます。 撮影OKといったって、 三脚も使えず、大混雑の中での撮影、 悲惨な写真になってしまった。 (木曽海道六十九次之内「和田」) (木曽海道六十九次之内「洗馬」) (木曽海道六十九次之内「上ケ松」) (木曽海道六十九次之内「高崎」) まだ何枚か撮影したのですが、自撮りの写真は上掲の4枚に留め、以下の作品の写真は全てネットからお借りしたものを貼り付けます。 <歌川広重について> (歌川広重の死絵、3代豊国筆、1858年) <プロフィール> ★1797年誕生、 ★12歳で、江戸の火消し同心職を父から引き継ぐ。 ★1811年、15歳の頃、浮世絵師・歌川豊広に入門、翌年の1812年に「歌川広重」の名を与えられ、5年の修行の後、1818年、役者絵「傾城貞かがみ」で浮世絵師デビューを飾る。 ★1833年~1834年、55枚揃いの「東海道五十三次(保栄堂版)」刊行(尚、浮世絵画材としての「東海道五十三次」は人気が高く、広重以外の浮世絵師も多数の版を刊行しています。広重も、「保栄堂版」の後に、20種類もの「東海道五十三次」の浮世絵を刊行しましたが、今日では「広重の東海道五十三次」といえば、「保栄堂版」を指すことになっているようです) ★1833年~1834年頃、70枚揃いの「木曽海道六十九次」を刊行(渓斎 英泉(けいさい えいせん)との共作)、 ★1852年、「不二三十六景」刊行、広重が初めて手掛けた富士山の連作、 ★1856年~1859年、晩年の代表作である120枚揃いの「名所江戸百景」刊行(一部は広重の死後に刊行) ★1859年、37枚揃いの「冨二三十六景」刊行、1852年の「不二三十六景」に続く2度目の「富士山」の浮世絵であり、広重最後の浮世絵である。 ★1858年没(享年61歳)、生涯に刊行した浮世絵は2万点以上に上る。 <安藤広重か?歌川広重か?> リュウちゃんは昭和36年頃、中学校の美術の教科書で広重を知りました。その時の名前の表記は「安藤広重」でした。ところが、月日が経ち、いつの間にか「安藤広重」が「歌川広重」に代わってしまいました。 「安藤広重」から「歌川広重」への変更、 いったい、何があったのだ??? この問題について、ネット調べをしましたところ、下記のサイトがヒットしました。 上掲のサイトによれば、戦後から昭和54年までの教科書は、「安藤広重」に統一されていましたが、昭和55年の教科書では、初めて「安藤(歌川)広重」と、苗字併記になり、その2年後の昭和57年には、「歌川(安藤)広重」と、「歌川」がメインの表記になり、更に12年を経た平成6年(1994年)には、完全に「安藤」の表記が消えて、「歌川広重」に統一されたのだそうです。 しかし、何故、そういう変更が行われたのかという根本的な原因は、全く判りませんでした。 安藤広重から歌川広重の 名称変更の謎、 結局、全く解けなかった(トホホ!) <作品> ここからは、実際の展覧会から離れて、ネットからお借りした画像で、広重の代表作を追ってみることにします。 <東海道五十三次(保永堂版)> (1) 日本橋(朝之景/行列振出) (2) 平塚(縄手道) 「東海道五十三次」に初めて登場する「富士山」の図です。 (3) 箱根(湖水図) 上掲のポスターの下部に使われた図です。 (4) 原(朝之富士) 「東海道五十三次」の中で、富士山が最も大きく扱われている図です。 この図に関連して、後年の「行書版」、「隷書版」の「原」の図を以下に貼り付けます。 この3枚の富士山の図、 広重の富士山の図では、 一番迫力がある! 山頂が版木からはみ出している! <行書版の「原・柏原立場 ふじの沼> <隷書版の「原(副題なし)> (5) 蒲原(14枚目、夜之雪) 55枚揃いの「東海道五十三次」の内、最も有名で世評も高い図です。 (6) 金谷(25枚目、大井川遠岸) (7) 庄野(45枚目、白雨) (8) 亀山(47枚目、雪晴) (9) 京都(55枚目、三條大橋) <―閑話―「浮世絵」とは> この項は、上掲のウィキペディアを参考にしました。しかし、このウィキペディアは膨大な内容ですので、広重の浮世絵に絞って、リュウちゃんの関心がある項目に関して、ポイントを簡単に書いてみます。 ★広重の浮世絵は一部を除いて、大半が「木版画(印刷物)」である。 ★大半の浮世絵のサイズは、「大判」と呼ばれる「27cm×39cm」のサイズである、このサイズは、用紙のA3サイズ(29,7cm×42cm)よりも少し小さいサイズになる。 ★1枚の版木から最低200枚を擦って販売する。広重の「東海道五十三次」のように人気が出た浮世絵は、版を重ね、1万枚程度が擦られて販売された。 ★江戸時代末期の浮世絵の販売価格は18文から20文、当時、「かけそば一杯の価格」と呼ばれたように非常に安価だった。現在の価値に換算すれば500円程度、現代のアイドルスターのブロマイドのようなものであった。なので、明治の始め頃までは「美術品」として扱われず、消耗品であり、現在の新聞紙のように、「包み紙」などに使用され、拡散してしまった。 ★「浮世絵」が「消耗品」から「美術品」に昇格したのは、1867年に開催された「パリ万国博覧会」が契機になったようだ。この万博は幕末の幕府が初めて参加し、「浮世絵」を出品し、この「浮世絵」がフランス印象派のゴッホやモネなどに多大な影響を与え、所謂「ジャポニズム」のきっかけを作った。 ★「ジャポニズム」ブームをきっかけに、大量の浮世絵が海外に流出した。現在、世界には約80万点の浮世絵が現存しているといわれるが、その内、50万点は海外の美術館やコレクターに所蔵されており、日本で所蔵されている浮世絵は30万点くらいのようだ。 <不二三十六景(1852年)> 歌川広重の「富士山」の浮世絵は、先行した葛飾北斎の「冨嶽三十六景」及び「富嶽百景」の影響があると云われています。大胆にデフォルメされた構図、荒波の描写などは、これまでの広重の穏やかで静かな構図の浮世絵からは想像もつかない作品が多くありますね。 (1)「相模七里ガ浜風波」 (2)「相模大山来迎谷」 <富二三十六景(1859年)> (1)「武蔵小金井」 (2)「駿河薩タ之海上」 上掲の「相模七里ガ浜風波」と本図の「波の描写」には、明らかに1830年頃に刊行された葛飾北斎の「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」の影響がみられますね。 (葛飾北斎「神奈川沖浪裏」) (2)「伊勢二見か浦」 リュウちゃんの故郷は「夫婦岩」のある伊勢市二見ヶ浦です。なので、広重の描いた二見ヶ浦の浮世絵に興味津々になりました。多分、広重は、「海岸から富士山が見える西の果て」という意味で、「富二三十六景」の中に「二見か浦」の図を描いたのだとリュウちゃんは思っています。 リュウちゃんは小学校3年生から中学校3年生の7年間、自転車通学で、「夫婦岩」を見ながら学校に通いました。しかし、通学路から富士山を見た記憶は、7年間で数回に過ぎなかったのです。 広重の描く「夫婦岩」、 何だかいびつな形をしている。 広重は、 実際に「夫婦岩」を見たのだろうか? 下記の図は、同じ広重が1850年頃に描いた「伊勢名所二見ヶ浦の図」です。 (「伊勢名所二見ヶ浦の図」大判錦絵3枚続。1850年頃) 上掲の浮世絵に描かれた「夫婦岩」、 男岩も女岩も 高さが数十メートルもある! 異様な高さだ! やはり広重は実際の「夫婦岩を見ずに、 想像だけで描いたようだ。 では、広重の「想像」の元になった画像は何だったのでしょうか? リュウちゃんは、広重が「伊勢名所二見ヶ浦の図」を出版した20年ほど前に出版された歌川貞国の「二見浦曙の図」が広重の「想像の元」になったと思っています。 (歌川国貞「二見浦曙の図」:1830年頃) 上掲図で 夫婦岩の前の小さい人物像から推定すると、 男岩は50m、女岩は40m位ありそうだ。 実際の夫婦岩は、 男岩が高さ9m、女岩は高さ4m 、 奇岩ではなく、穏やかな岩なだ。 (夫婦岩) <江戸名所百景> 1856年~1858年、119枚、死の直前まで製作された「最晩年の作品」です。 (1)「上野清水堂不忍ノ池」 (2)「亀戸梅屋舗」 ゴッホが模写した作品として有名です。 (ゴッホの模写との比較。右側がゴッホの模写) (3)「深川萬年橋 (小名木川河口)」 この亀、何故、吊るされているのだろう? (4)「亀戸天神境内」 この景観は今も残っているようです。この浮世絵の「太鼓橋」は、クロード・モネが1899年に描いた「水連の池」にも描かれています。 (クロード・モネ「水連の池」1899年) (5)「高輪うしまち (現在の泉岳寺駅付近)」 大八車のデフォルメが凄い! (6)「上野山内月のまつ」 上野の寛永寺清水堂にある「月の松」は、(1)の「上野清水堂不忍ノ池」でも描かれています。この「月の松」は、現在も観ることができますが、これは平成24年に復元された「2代目」なのだそうです。 (7)「蓑輪金杉三河しま」 後述の「深川州崎十万坪」と対をなす構図です。 (8)「深川州崎十万坪」 今回の広重展のポスターに採用された広重最晩年の傑作です。タイトルにある「十万坪」とは、現在の江東区千田および千石周辺に当たるところで、享保8年(1723)から行われた干潟の埋め立てにより10万坪に及ぶ新田が開発されたため、「十万坪」と呼ばれていたのだそうです。 <月に雁> 広重の「月に雁」といえば、昭和24年に発売された記念切手が思い出されます。リュウちゃんは小学校時代、ささやかな切手収集家だったのですが、額面8円の「月に雁」は、当時の流通価格で数千円もしていたことを思い出しました。 この切手、 現在ではどれ位の価格なのかな? と思い、ネット検索しました所、あるサイトに、 「並品:2600円、美品:6200円。5枚綴りシート美品:34000円」とありました。 昔は「高嶺の花」だった「月と雁」、 今でも「高嶺の花」なのだ! お昼苗に美術館を出て、近所の行きつけの寿司店で昼食、 プファ~、ビールが旨い! この店の寿司定食、ボリュームたっぷり、 安くて旨いのだ!
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