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1929年6月12日、アンネ・フランクが誕生している。13歳の誕生日に、アンネは、父オットーからプレゼントとしてサイン帳を贈られているが、彼女はそれを日記帳として使い始めている。日記帳には「キティー」という名前を付けている。 1942年7月5日に、アンネの姉のマルゴーに対してユダヤ人移民センターに出頭すべしという命令通知が来る。翌日、かねてから潜伏場所を決定していたオットーは、家族を連れて潜伏場所へと移動する。 1944年8月4日の朝に、密告により彼らは潜伏場所から連行される。アンネとマルゴーは、ビルケナウ収容所からベルゲン・ベルゼン収容所に移送され、そこで、1945年の2月から3月の間に発疹チフスで亡くなる。
「ユダヤ人問題の最終的解決」は、そもそも合理性を全く欠いている。潜伏場所から連れ出される際に、親衛隊の隊員は、オットーが第一次大戦の際にドイツ軍の中尉であった事を知ると、思わず敬礼をしそうになったという事である。また同じ第一次大戦の際に、毒ガスを実用化したフリッツ・ハーバーはユダヤ人である。二次大戦が勃発した時点でドイツ在住のユダヤ人は5万人程度だったと考えられている。 東進するにしたがって居住しているユダヤ人の数はどんどん増えていく。そのユダヤ人たちを全く区別することなく「ユダヤ人」としてひとくくりにして殺害している。 各地のユダヤ人たちを列車に乗せて収容所に送り込む際には、ユダヤ人移送のスケジュールの方が、弾薬、食糧などの輸送スケジュールよりも優先されたという例さえある。 兵として活用することも、労働力として活用することも、高度な知力を活用して新兵器の開発、暗号解読の任に当たらせるという事も一顧だにされていない。 そのような「合理的な」選択をしていれば、アインシュタインは、アメリカに亡命することなくドイツで原爆製造の先頭にたっていたかもしれない。ただ、それが可能になるためには、アメリカのマンハッタン計画のような効率的な組織が必要であって、ヒトラーの独裁体制のもとでは不可能だというオチがつくのだが。 習近平は、中国共産党の長期にわたる権力闘争から生み出された「集団指導体制」「国家主席の任期は2期まで」という教訓を踏みにじって長期独裁、個人崇拝体制を確立しようとしている。彼は、古今東西の「独裁者の末路」を研究し、「自分だけは例外」という結論に達したのだろうか?それとも中国は未だに「開発独裁が必要な国」と中国を位置付けているのだろうか?
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