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1966年6月29日に、ビートルズの4人が来日している。会場になった日本武道館の使用の是非を巡って賛否両論あった事を思い出す。 テレビ番組も放映された。冒頭で流れたのが確か「ミスター・ムーンライト」だったと記憶している。 先日、「バタフライエフェクト」で、ビートルズの軌跡を二度にわたって放映していた。 前期「青の時代」では、ブライアン・エプスタインという有能なマネージャーを得てビートルズが創り上げられていく過程を追っていた。 アメリカ公演のことを取り上げていた。 南部での公演は、スタジアムは「白人席・黒人席に分ける」というのが、当然とされていたところ、「そんなことをするのなら公演はしない」と彼らは言い出した。実はそれは当たり前で、彼らが最も尊敬していたミュージシャンは、黒人だったからだ。 彼らの言い分が通って、スタジアムは白人、黒人が混合という当時としては異例の空間が出来上がった。その空間の中で、コンサートを聞いたのが、ウーピー・ゴールドバーグ。 彼らは様々な国でコンサートを開いたが、フィリピン公演の際に、ジョンがジョークのつもりで「我々はキリストより有名になった」という一言が物議をかもし、デモが起きるわレコードは燃やされるわという事態となり、彼らはほうほうの体でフィリピンを後にする。 そんなこんなで彼らはコンサートを行わなくなり、スタジオ録音に軸足を移す。 確かポールだったと思うが、コンサートをやらなくなった理由として、「誰も僕たちの音楽を聴いてくれない。ただ騒いでいるだけだ」と語ったのが記憶にある。 後半。彼らの音楽は体制をこえる。ソ連、東欧圏にも彼らの音楽を求める若者たちが出てくる。 思うに、彼らが新しかったのは、それまでの主流であったプロの作った曲を歌い、演奏するのではなく、自分たちで作詞、作曲するスタイルだったように思う。 ソ連、東欧では彼らの音楽は「退廃音楽」とされて長髪も目の敵にされた。 レコードも当然発売禁止。しかし、ひそかに西側の放送を受信した若者は、使用済みのレントゲン写真にレコードの溝を刻んで楽しんだ。肋骨の写っている写真に刻まれたビートルズの「肋骨レコード」の始まりだ。 さて、東欧圏でも例外的に規制が緩かったのがバルト三国の中のエストニア。この国の一人の若者が当時発売されたばかりの「ヘイ・ジュード」に、ロシア語の歌詞ではなく、エストニア語の歌詞を付けて歌ったことで国民的歌手となる。 歌詞は、エストニアの人たちの感じていた不満、フラストレーションを見事に表現、後にもっと大きな規模で開催されたコンサートでは、禁止されていたエストニアの国旗が翻ることとなる。 ソ連崩壊後に独立を果たしたエストニアには、「公共の場所では、エストニア語以外の言葉を使用する事を禁止する」という法律がある。エストニアには、もちろんロシア人も住んでいる。しかし彼らは、公共の場、例えば郵便局の中で局員にロシア語で話しかけても局員はいっさい対応しないでいいという事になっている。 普通に考えれば、「母語をしゃべることを禁止される」という事は基本的人権の侵害という事になる。しかしそれ以前に、東欧の国々、或いはウクライナでは民族の文化と言葉の使用が禁止され、ロシア語話者が優遇され、その国の文化は悉く「ロシア化」されたことを想起すれば、現在の事態は、理解できる。ましてやプーチンによる「特別軍事作戦」という名前の侵略行動という時代の中でのロシア語話者に対する二級市民扱いはやむを得ないことかもしれない。 ナショナリズムの噴出はいい事ではない。哀しいことだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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