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「カチンの森虐殺事件」については名前だけは知っていた。この本を読んで、アウシュヴィッツなどと同じように、人間はいったい何をする生き物なのか、と考えざるを得なくなった。 「カチンの森虐殺事件」について、訳者の根岸氏の解説を引用する。
カチンの森虐殺事件とは、ソ連秘密警察NKVDがスターリンを頂くソ連共産党政治局に命じられて、ポーランドの将校と知識階級2万2000人(あるいは2万5000人)をロシア、ウクライナ、白ロシア(現在のベラルーシ)の各地で1940年4月から7月にかけて組織的にいっせいに殺害した、20世紀で類例のない歴史的蛮行を指している。なせ゛「カチンの森虐殺事件」と呼ばれるのか?一連の大量殺戮行為の中で、西ロシアのスモレンスク郊外カチンの森で、集団墓穴の遺体だけが最初に1943年に発見され、のちに事件の広がりがわかってからは全体の象徴とされたからだ。P188
カチンの森でポーランド人の遺体が発見されたのは1943年4月9日である。この発見は4月13日にドイツのラジオ放送から「ポーランド軍将校がソ連に殺害された」と発信されている。これに対してソ連情報局は4月15日に「1941年にスモレンスク西方で建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は…ドイツファシストの手に落ち」・・やがて処刑された、と発表している。 この地域は1941年にはドイツ軍の手に落ちているが(1941年6月22日にドイツはソ連に侵攻、圧倒的な勝利を収めている)、1939年の9月1日にドイツがポーランドに侵攻して後は、独ソ不可侵条約の秘密議定書によってソ連が支配する地域となっている。
遺体発見後の経過を見てみよう。
世論はドイツを指弾した。発見された死体がドイツ製の弾丸で射殺されていた事実があったため、ドイツ政府は独立の国際調査団、ポーランド赤十字社調査団、ドイツ法医学特別調査団を招いて、現地調査に踏み切った。(中略) 国際調査団はドイツ以外の12ケ国から委員が選ばれた。(中略) 国際調査団は1943年4月28日にカチンの森へ到着した。現地で必要な人材や便宜はすべてドイツが提供した。委員には完全な行動の自由があり、検屍を望む遺体はどれでも自由に選ぶことを許された。P15
では、遺体はどんな状態だったのか。
カチンの森では、死体でいっぱいの深さ2,3メートルの集団墓穴が8つ発見された。埋葬のしかたにしある共通したパターンがあった。死体は顔を下に、両手は両脇に沿ったままか、背中でしばりあげられており、足はまっすぐに伸び、9から12層に重なりあって積み上げられている。すべて例外なく頭蓋骨を撃ち抜かれ、ほとんどがただ1度で銃殺されて、(中略)赤外線を使って軍服を顕微鏡分析した結果、犠牲者たちは襟の立った冬外套の襟越しに、あるいは直接頭部を拳銃で撃たれて処刑されたことがわかった。P17
結び方はすべて同一だった。縄は全部同じ長さだったから、あらかじめ組織的に用意されていたに違いない。現場でドイツ人科学者が行った顕微鏡検査によると、縄はソ連製だった。P18
さるぐつわをされ、しばられ、頭からかぶせられた外套で目隠しされた将校たちが抵抗したのは明らかだが、彼らはやがて銃剣の一突きで黙らされた。(中略)銃剣の刺し傷はたやすく識別でき、医学チームが傷を顕微鏡で検査したところ、刺し傷と衣服の刺し傷は、四つ刃の銃剣によってできたものだった。この種の銃剣はそのころソ連軍が使用していたことがわかっている。P19
殺された人びとの身元が確認できたのは、軍服のポケットの中身が個人情報の宝庫だったからだ。(中略)ソ連の収容所で受けたチフス予防注射証明書、個人の身分証明書、日記、手紙・・アルミニウム製の軍用認識票、個人の名刺、スケッチ画、写真・・ (中略)遺体の上にはソ連の日刊紙がたくさん置かれていた。
さて、以上の事から何がわかるか。著者は、遺体から回収された日記の日付の最も新しい のは何年、何月、何日のものだったかについて述べる。そしてソ連の日刊紙の日付で最も新しいものは何年、何月、何日付なのか・・。ソ連政府がカチン地区を支配していたのは1941年の晩夏までで、その後、ドイツ軍が攻略している。 遺体の身元が判明した時点で遺族は、「捕虜殺害犯は誰なのか」の真実と正義を求めてチ ャーチルとルーズヴェルトに期待をかけている。 「ドイツがこの事件を利用して連合国の間にくさびを打ち込もうとしている」という憶測 はもっともだったし、ポーランドの指導的立場にいる人々を大量に虐殺してそこに自国を 支持してくれそうな人々を送り込んでポーランドを支配しようという動機は、独ソ両国と もにあった。 ルーズヴェルトは、「この事件は、ソ連が引き起こしたものである」という見解を徹底し て拒否し、自分に対して「殺害犯はソ連だ」と報告書を上げてきた外交官を南太平洋の島に 左遷し、チャーチルは、ポーランド語の新聞が、「ソ連犯人説」を報じるのを禁じている。
そして、ソ連軍は反攻に転じて、カチン地区を再び自国の管理下に置いた。ドイツが敗北 すると、ドイツの罪を裁くためにニュルンベルク裁判が開催されたが、カチンの森虐殺事件 について取り上げられることはなかった。
ザヴォドニーのこの本は1962年に出版されている。読んでいて気になったのが、「今の ところ〇〇の件については詳しいことは判明していない」という表現が何カ所か出てきた 事だ。「ソ連崩壊によって多くの資料が利用できるようになったのになぜだろう?」と思った のだが、それまで秘匿されていた資料の多くが(すべてではない)利用できるようになってか ら書かれた本の多くが、この本から多くの部分を引用しているということが「解説」に載っ ており、納得できた。
1998年、本書は著者の母国ポーランドでついに陽の目を見た。アメリカで世に問われて以来27年を要したことになる。半世紀間カチン事件がタブーとされてきたポーランドで、合法的に出版されたことは、ポーランドの自由化の到来を告げていた。翌年ワレサが大統領に選ばれる。P199
著者は、徹底して「事実によって語らしめる」という態度を貫いている。激越だが内容空疎な言葉は一カ所もない。
※1991年にソ連邦が自壊した時に、カチンの森で共産党政治局(国家の最高意思決定機関)が指示しソ連秘密警察(NKVD)が捕虜の大量虐殺を実行したことを認めた。しかしロシアにはいまだに「ドイツ軍の犯行」と主張し、カチンの犠牲者が賠償金を請求するから公式の責任を認めない人々がいるという。すべての機密文書が公開され、ロシア政府がポーランド政府にたいして正式に謝罪するという事は行われていない。 つまり、ロシアは、カチンの森の一件については真摯に向かい合っていないという事になる。ポーランド側からすれば、ロシアは依然として脅威であり続け、現在のウクライナ侵攻によってそのことが裏付けられたという事になる。
※P21に「殺害された人びとの中には一人の女性までいた。彼女はポーランド空軍の中尉で、ソ連軍の捕虜になってから他のポーランド将校とともに抑留され、カチンで銃殺死体となって発見された」という箇所がある。 これがおそらく『カチンの森のヤニナ』のもとになった記述であると思われる。西宮図書館であと4人待ち。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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