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『ナチスの楽園』エリック・リヒトブラウ 新潮社
生存者のうち何千人もが、今や連合国管理となった収容所から出させてもらえなかったのだ。それも数ケ月間だけならまだしも、数年後になっても出られない者もいたのである。実にヒトラーが自殺して戦争が終わった後に、収容所内で栄養失調と病気のせいで衰弱死する者さえいた。 ダッハウでも、ベルゲン=ベルゼンでも、その他何十という難民収容所でも、囚人たちは、ヒトラーが築かせた塀の内側に閉じ込められたままだった。ドワイト・アイゼンハワー将軍が率いる連合国軍は、死体と汚物の放つ強烈な悪臭が敷地内に満ちていたにもかかわらず、彼らが収容所の外に出ることを許可しなかった。生き残った囚人たちをどう扱ってよいのか、誰にもわからなかったのである。(中略)
連合軍が運営するドイツ軍捕虜収容所では、元ナチスの将校たちは映画を見て、サッカーを楽しみ、大学の講座を履修することまで許されていたのだ。いっぽう、ユダヤ人難民収容所では、ホロコーストの生き残りたちが戦時の飢餓の埋め合わせとばかりに配給の増加を求めて闘争を繰り広げても、コーヒー一杯に湿った黒パンがつけ足されるのが関の山だった。P25~6
ここまで読んできて、「そんな馬鹿な」と思った人もいらっしゃると思う。私もそうだっ たのだ。その1ページ前に以下のような文章がある。
現在の私たちは、全世界が収容所の生存者たちを温かく抱きしめたという絵を想像しがちだ。連合国軍が到着するとともに収容所の鉄製の門扉が勢いよく開き、限界まで、痩せ衰えた囚人たちがぞろぞろと外に出てきて、ショックと罪悪感にうちのめされ、そして囚人たちが救援された事実に喜ぶ世界が、彼らに両腕を差し伸べるという絵図である。P24
私は、慌てて『夜と霧』(フランクル みすず書房 1970年第15刷発行)を取り出して、 ページをめくってみた。 P26には、「英陸軍はこの収容所(ベルゼン)に到着すると、直ちに状況をフィルムに収め、 これはベルゼンの公判廷で公開された」と記してはある。しかし、囚人たちがどうなったか は記してない。 解説には、「何が行われたか」は、様々な例を挙げて詳述されている。後半の写真では、 「ベルゼン強制収容所解放後、英軍ブルドーザーによる死体処理」という解説付きの写真も ある。この「処理」の仕方自体が無茶苦茶である。「人間の尊厳」の欠片もない「処理」の 仕方である。 この本の副題は、「アメリカではなぜ元SS将校が大手を振って歩いているのか」。元ナチ スの高官たちは、様々な手段を使って身元を隠し、海外に逃亡している。その最も有名な例 は、のちにイスラエルの諜報機関によってアルゼンチンから拉致され、エルサレムで裁判に かけられたアイヒマンだが、こんなことが一日二日でできるわけもなく、「ナチスの時代も もう終わりだ」と考えた人々は、密かに逃亡ルートを作り上げていたとしか考えられない。 1974年に日本で刊行された『オデッサ・ファイル』は、『ジャッカルの日』に続くフレデ リック・フォーサイスの代表作だが、元ナチSSの逃亡補助、名誉回復、西ドイツ社会への 浸透工作などを描いた作品だった。 さて、元ナチSSに対してアメリカはどんな対策をとったか。じっくり読みたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.08.06 10:17:00
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