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『落花は枝に還らずともー会津藩士・秋月悌次郎』 (上下)
中村彰彦 著 中央公論新社 第24回新田次郎文学賞 受賞 会津藩を考える上でとても読みやすい良い本でした 小説ですが、秋月悌次郎が見聞きした範囲で書き綴っていることで かえって当時の状況がよくわかりました 秋月悌次郎は 京都守護職にあった松平容保(かたもり)の側にあって 身分がそう高くはないが、学問によって抜擢された公用方という文官であった 公用方は朝廷や幕府、各藩との折衝や情報収集を行う 彼は学問が好きであり、選ばれて、江戸の昌平坂学問所に学ぶ機会を得る 彼にとっての学問とは 「学問とは人としての道を知るためのものであり、 およそ人たるものは道義に生きるべきなのだ。」 その後は藩命により西国を遊歴するなど、諸藩の事情に詳しく、 交際範囲も広いという特異な会津藩士であった 「八月十八日の政変」の前には会薩同盟成立に動くなどの仕事をしている その後、落ち度があったわけでもないのに、 不運にも蝦夷の斜里の代官所(15人)に左遷されてしまう (1859年に幕府は国防のことを考え東北6藩に少しずつ蝦夷領地を与えた 会津藩は標津、斜里、紋別に代官所を置いた 税収は年4500両にすぎない 会津に海産物が入るようになったという恩恵はあったようだ) その間に時代は大きく変化、二年九ヶ月後再び京都に呼ばれ 冬の斜里を出発、ようやく京都にたどり着くが、時すでに遅く 薩長同盟による倒幕を防ぐことは出来なかった 鳥羽伏見の戦いでの敗北、奥羽戦争での敗北、降伏・・・・ 秋月悌次郎が戊辰戦争前、戊辰戦争、戊辰戦争後をどのように生きたか 松平容保の人となり、京都においてどのような言動をしたのか 当時の幕府中枢の動き、慶喜の動き 攘夷激派の動き 長州藩の動き、薩摩藩の動き,諸藩の動き 松平容保が、会津藩がいかに勤王であり、孝明天皇に信頼されていたか 松平容保が、会津藩がいかに誠実であったか 勤王であり、幕府に忠実であらねばならないという信念を持って京都守護職を勤めた しかしその会津は、攘夷激派によるクーデター成功という 政治的変化の中で朝敵とされ、追討令が出される 松平容保は若く、誠実であればよいという信念を持って事に当たっている 藩の気風はいわば性善説である 政治的に見れば未熟であり、政治の動きを読みとれなかった 藩の政治判断からみれば不幸なことであった だがそれを貫いたのが松平容保であり、会津藩であった 1868年1月鳥羽伏見の戦い 9月会津城落城 1864年禁門の変以来の会津藩死者は3014人 1868年 開城後 猪苗代謹慎 城内組 3254人 塩川謹慎 城外出撃組1744人 秋月悌次郎は降伏の使者として命がけの交渉、開城降伏式の準備にあたる 降伏後も永久謹慎、他藩へのお預けの身でありながら、後進のために命をかけて尽力する (猪苗代に監禁される 会津藩処分寛大陳情のために猪苗代を抜け出して北越まで行き、 長州奥平謙輔・前原一誠に陳情 12月-東京伝馬町に移獄 1869年 会津戦争責任者として終身禁固、永代お預けに処せられる) 明治5年1月、やっと許されて、会津に戻ることができた 一時政府につかえ、法案起草などに従事 その後東京大学予備門教諭として奉職 66歳で引退 次の年さらに熊本の第五高等中学校の教壇に立つ 筋のとおった生き方と誰にでも優しい人柄によって、 生徒からも同僚からも慕われたという 熊本五高において同僚であったラフカディオ・ハーンが 秋月悌次郎のことを書いた文章が残っている ラフカディオ・ハーンにとって 彼はその日、会っただけで、会った後に温かいものが残るような人として ハーンの想像する日本の神さまのような人として大切な人であった 秋月悌次郎の戦後の生き方もまた学問に対する彼の信念を貫くものであった 明治28年 熊本五高引退 明治33年1月3日没 77歳であった お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 16, 2005 06:24:51 PM
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