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カテゴリ:戦国伊達家
正直、あまり書きすぎると関が原からどんどん遠ざかるきがしますが、いろいろと調べていて伊達家のある意味戦略的な(めちゃくちゃな?)婚姻政策が微妙に東北の大名同士の関係に影をおとしていることは避けてとおれそうもないので、ある程度きちんとかきます。
伊達氏は、芦名氏と同様、源頼朝の奥州征伐に参加し、その功により、伊達郡に所領を与えられ、その後伊達氏を名乗るようになった。 9代目の大膳大夫政宗(先代の政宗)は、岩清水善法通清法印の娘を娶ったが、3代将軍足利義満の生母も通清の娘であるので、将軍は、大膳大夫政宗の義理の甥の立場にあり、1400年、幕府と呼応して鎌倉公方(関東を仕切る将軍家代行のような立場で、当初足利尊氏の弟が着任も、はじめっから仲が悪く、このころから反乱をしばしばおこすようになり、将軍家からの征伐命令を受けるようになる。このことが永享の乱、しいては応仁の乱の序曲となっていく)を挟撃するなど、将軍家との連帯感を深めている。その後徐々に幕府要人に莫大な貢物を送り東北地方の探題クラスの地位を狙いつつ1523年、14代伊達たね宗(伊達政宗の祖父)は、陸奥国守護職に任じられ、東北第一の実力者となる。たね宗は芦名盛高の娘を娶り、14男7女をもうけると、すべてを政略結婚につぎ込んだ。すなわち、相馬・芦名・大崎・葛西・二階堂・田村など奥州の諸大名に子女を送り込み、奥州第一位の地位を固めたが、その結果、逆に諸大名の重臣の反発を受けることもあった。さらに、15代晴宗(伊達政宗の父)が、たね宗との抗争を始め、天文の乱がはじまり、7年にわたる抗争ののち、たね宗の引退、晴宗の米沢への居城移動となる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年06月23日 05時03分18秒
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