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カテゴリ:戦国 里見家
6月30日に現在の職場の退職の辞令をうけました。
仕事を始めたころはどうなるかと思いつつ気がつくとあっというまに年単位で月日が過ぎ去りで、今日に至りました。ほんとに、大勢の方の支えによってここまれこれたのだなあと深くおもいつつ感謝の気持ちで辞令をきいておりました。 あと、本当にたくさんの花をいただきました。いままでもけっこうもらってはいたのですが、ここまで多くの花をいただくことははじめてで、感謝・感激でした。 次の職場でもひとつひとつ丁寧にがんばりたいとおもいます。 というわけで、あじさい寺に続き、東京にいるうちにどうしてもいっておきたいところ、、、それは、里見八犬伝発祥の地とも言える館山城です。 ということで、残り少ないある日、車をかっとばして館山にいってきました。 房総半島の先端の方でいままでだと3時間ぐらいかかっていたんですが、館山道がかなり開通してきて、君津ー富津間以外は完全に開通したため、館山まで2時間と以前よりも楽に行けるようになったように思います。 館山市内にはいると、「北条」という土地の名前もあり、対岸の北条氏の影響を感じつつ、館山城へ。狭い入り口を入るとそこそこ大きな駐車場があり、小山をのぼる途中で分岐・館山市立博物館があります。なんか、城のほうへは人はあるいていくんだけど、博物館は、、、 人気のない博物館にはいると、吹き抜けのエントランスのすぐ奥に展示室が。 一回の展示室の半分が戦国里見家の興亡について展示されていました。 そのほかは、、、縄文土器の展示と江戸時代の生活の展示でしたが、、、 里見家は、上野国(いまの群馬県)の出身で鎌倉時代に新田氏の一族の一人が榛名山のふもとの里見という土地に住み着き里見氏を名乗ったのが始まりといわれ、室町時代後期、鎌倉公方(将軍の関東代理みたいな役職)の足利成氏に仕えていたさい、成氏は関東管領(鎌倉公方の執権みたいな職業)の上杉氏と対立、上杉氏の支配地域である安房の国に送り込まれたのが始まりだそうです。その人の名は里見義実といいました。その3代くだり1500年代にはいると本家筋の里見義豊は1533年突然叔父の里見実堯(さねたか)を殺害し海上の権益をてにいれようとした(この当時の状況を説明する書状飾ってあり)ところ、そのこ里見義堯(よしたか)は、北条氏の支援を頼んで逆に滅ぼし、傍系が家督を継ぎ、これを契機に一時上総(千葉県北部)まで支配をひろめ、上杉謙信と連携しつつ(上杉影虎の書状の展示あり)逆に北条氏に戦いをいどんだものの、海からの直接の安房の攻撃を受けたり、1564年の国府台の合戦(千葉県国府台)にやぶれたあと、家来の離反もあり徐々に勢力をおとし、1577年に北条氏と和解・逆に交易をするようになった。その後里見家内の家督争いをおこすものの、1580年里見義頼が征したあとは、安房支配をかため、豊臣家・徳川家と仕え関が原でも東軍にて上杉景勝索制の兵も出兵12万石の大名となりました。そのご、徳川との交流を深めるために家来の大久保忠隣の孫娘をめとったところ、1614年大久保忠隣の失脚とともに安房の国没収(家来の江戸からの慌てふためく書状の展示あり)となりほうきの国(いまの鳥取県倉吉市)に移され、子供がないためお家断絶となってしまいました。 このとき、8人の家来が殉死しましたが、そのご、里見家の子孫が鳥取県に行き、ひそかに骨を持ち帰り、館山城の裏にお墓を建て祭ったのですが、この8人をモデルにしたのが南総里見八犬伝ということだそうです。 ということで、スペースとしては狭いのですが、非常に丁寧な考察が成され手つくり感のある、いい博物館だなあとおもいつつ、あとにしました。 一旦、しめます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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