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カテゴリ:幕末・明治
ということで、久々のつづきですが、前回はふるさと維新館のメイン会場に突然あらわれた解説員さんのところでおわってしまって肝心の内容についてはまだ入っていなかったというところでしたね。ということで、話の内容に入るのですが、いろいろと驚きの事実が(ぼくとしてだけかもしれないですが)つぎつぎに語られるので自分でもその後いろいろと調べてまして、それを踏まえてお話しようと思います。(参考文献は、「薩摩民衆支配の構造」中村明蔵著 南方新社発刊・「薩摩の秘剣 野太刀自顕流」島津義秀著 新潮社新書・「西郷隆盛」田中惣五郎著 吉川弘文館ですので、こちらも参照してみてください)
解説員さん「まず、この舞台の全面に置かれている小屋の前で剣術を練習している模型についてですが、薩摩の下級武士の生活の様子をしめしているものです。下級武士は、年長の子供が年少の子供にいろんなことを教える郷中教育というものが発達していまして、年長のものが、読み書き計算から武術・遊び・精神論にいたるまですべて教えるというシステムができていました。明治維新で活躍した西郷隆盛や、大久保利通らは、すべて鹿児島市内の加治屋町に集中していましたが、みなこのように郷中教育をうけており顔見知りであったのです」 ということで、今回は、薩摩藩の郷中教育にまつわる話をちょっとつっこみます。 薩摩藩の構成としては、 藩主 ↓ 城下士(鹿児島衆中) 薩摩・内城城下にいる内政に直接関与する武士 4300人位 平均持高78石9斗 ↓ 郷士(外城衆中) 外城衆中(郷)を中心に居住している半士半農の人 23000人位 平均持高4石7斗 ↓ 家中士 郷士の家来 郷士の家来 11000位 平均持高4石 と、他の藩とは全く違う構成になっています。島津家では、戦国時代の対大友戦、対豊臣秀吉戦あたりで、武士の人数差を埋めるためもともと農民であった方も武士として徴用し、これと戦いました。また、豊臣秀吉戦敗北後ー関が原敗北後徳川治世になったあともその後の反撃に備えて武士としたものもそのまま人数を維持しました。普通の藩の中における武士の人数は総人口の5%と言われていますが、薩摩藩はダントツの28%もいました。 この武士の人数を維持管理する方法として、薩摩藩全体を城として、その中心に本拠地いまでいう鹿児島市に内城を置き、藩内政に必要な人員を配置、そして、薩摩藩(いまでいう鹿児島県)を郷(方中)単位として、そこに外城を設け、郷士を配置、他の藩ではお寺が管理していた藩の農民をすべて郷士が登録管理・年貢の徴収に当たらせるとともに、郷士には自作農を許可そこからは課税しないこととし、自給自足をさせるようにしました。特に島津家は武士の人数が半端でなく多かったので年貢の割合が非常に高く、他藩では、五公五民であったのが薩摩藩では8公2民という恐ろしい年貢の取立てをしていたため、農民の反乱を抑えるという目的もあったようです。また、検地も頻繁に行い、農民の少ないところへ、頻繁に農民を移動させたりして生産性を落とさない工夫をしていたようです。ということで、士族の中心であった郷士たちは郷単位で活動をしていたわけです。 ちなみに江戸幕府からはやはり詰問がきたようで、 ○なぜ、武士がおおいのか→九州全土平定したさい雇った武士を薩摩一国にしたので割合が高くなった ○城が多いようだが→外城は実際は堀とかやぐらがあるわけではないので、城としての機能はない といってかわしていたようです^^; そして、本論の郷中教育についてですが、その起源は、文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)の時のことです。島津家からは1万以上の武士が出兵、この間大人の武士がいなくなり青少年の風紀が乱れたため筆頭家老の新納(にいろ)忠元(ただもと)が青少年を鍛える組織を作ったのが始まりといわれ手いるようです。 ということで、紙面が長くなりましたので、実際の組織形態・内容については次回にします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年04月29日 05時27分30秒
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