|
カテゴリ:カテゴリ未分類
頑張ろうって言っていた時はまだ頑張るところに行っていなかったのかもしれない。
この間書いたときからの心理の経過の覚書。 それから「つらい」と感じるようになった。それはかなり閉塞された状態だったけどそれで少し安心も一緒に来た。つらいという感覚が来てちょっと安心したということ。 そのあとピアノと合わせることを考えて、2-3年前の発表会のDVDを見てみた。弾いてすぐ聴いたときにはなんだかすごく音程悪くてひどい出来だと思っていたけれど、時間がたって聞くとホールがよく響くせいか何を弾いているかはわかる感じだった。今回はこれよりよく弾かなくてはという考えが次に来るのだけれど、それ(ただ弾くこと)より上げるための努力ってすごい量が必要だけど聞いた感じはあまり変わらないのかもしれないと思った。ここ半年くらいで自分ではすごく変わったように思っていたけれど他人にはほとんど違いはわからないのかもしれない。 それで落ち込んだかというとそうでもなかった。変な成功イメージを持つより少しでも出したい音が確実に出せるようにする努力を毎日するだけのことなのだと思った。練習しているのは自分だけれどその練習をさせている自分は右ななめ上の少し離れたところにいる。弾いている自分と弾かせている自分がいるという感覚があるときがあって、それを心地よく感じた。自分を埋没させるのではなく、そうやってある程度の客観性をもって着々と進める感じ、それでいて楽しんでいる感じはいいものなのではないかと思った。でもアホほど練習している出だしの所ですべてがクリアに見えてきた気がしたときがあってその時は泣いちゃったけど。 ハイドンは細かい音もクリアに出してなんぼだということを納得した。今それができる技術がないかもしれないけれど、クリアに弾きたいという気持ちを持つこと、そこに快感を感じることは大切でそれがこの音楽をいきいきさせる秘訣のように思う。音がきれいにはっきり見えること。思想とか感情とか物語とかそういうものより音そのものがどれだけ美しいかが示される曲だ。大変な曲だ。だから大変なんだと理解した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.04.19 22:22:08
コメント(0) | コメントを書く |