|
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日は音夢鈴さんのクリスマスサロンコンサートに入れていただいて、小さい人や大人の人の演奏を楽しませていただいて、私も弾かせていただいた。
きっと昨日いらした方も読まれるだろうし、どう書いたらいいのだろうなどと思うけどやっぱり今までのようにぶつぶつ書くしかないだろう。 サロンコンサートという感じの少人数の発表会に出たのはこれが2回目で1回目は11月の初めにバッハのアリオーソを弾いた。今回はそれよりも上級編でグラズノフの吟遊詩人とラフマニノフのヴォカリースを弾いた。弾く前にはやはりひどく緊張するし、今回もかなり来たけれど、弾いているときは今までの発表会とは違った感覚でよかった。少人数でおしゃべりしながら弾いていくというのはすごく自然な感じで、本来の音楽の演奏のされ方でもあると思う。 皆がお料理を持ち寄るように自分の練習してみた音楽を持ってきて聴いてもらう。それを皆が楽しむ。そういうことだ。若い人たちは細かいことなどあまり気にせずに堂々と思い切り歌いあげてそれがすごくすがすがしく魅力的だ。大人はもう少し複雑で悩みもあったりするのだと思うけどそれを乗り越えて音楽を形作ろうとする意志のようなものがあってそれもまた心を打つ。持ち寄られた音楽を通して、またお話をしたりして、仲間に入れていただいて幸せだった。 練習しているときに、自分が聴きたいように弾くべきだと、まあ当然のことなのだけど、そう思った。「私の音楽」を提示するのではない。聴いてくれる人のために弾くというのでもない。そういう主従関係ではなく、その曲を一緒に聴くような時間が持てるのが最高なのではないかと思った。私がいいなあと思う演奏って思えば自分が弾いているような気分にさせてくれる演奏だ。 そうして一緒に聴くためには、本番で技術的な注意の指令をいちいち頭が出しているとダメなので、それが自動的にできるまで練習しておかないといけない。 今回それが実践できたわけではないけれど、そういうことなんだなあと思った。 本番では準備したものの何割かしか出せないものだと仮定してのぞめば、それはそれで焦らないようにも思う。本番で100%出そうとするから私のような小心者は失敗するのだろう。本番ではそういった細かい技術的なことではないことに集中しなくてはならないのだ。 吟遊詩人は短いけれど大きな感じの曲で難しかった。私って立ち上がりが遅いんですって言っていると失敗ばかり続けているうちに曲が終わってしまう。最初ですでに広大なイメージを出したいのだけれど、やっぱり音がブツ切れでなんだかわからないものになってしまう。この曲のイメージ・ストーリーはいろいろ思ったけど自分にとってリアルに描けなかったのはたぶん私が吟遊詩人を見たことも聞いたこともないからかもしれなかった。だけど最近テレビで瞽女(ごぜ)さんのフィルムを見て、そのイメージでぐっとくるようになった。雪の中を縦一列にならんで歩く瞽女(ごぜ)さんの前の人の腰のあたりを触る手の映像が印象的だった。練習しているとき音をつなげなくてはいけないときにそれを思い出すと何としても続けたいという気持ちになって、実際にはちょっと違うかもしれないけど私にはフィットした。(でも本番ではそんなことすっかり忘れてたし、音もブツ切れだった) ヴォカリースはメロディが素敵な曲でもともと好きな曲だが、弾いたことはなかった。この曲は聴き始めはすごく魅せられるのだけどはっきり言って途中でなんか飽きてしまう。私に問題があるのだろうけど、ロストロポービッチの演奏を聴いていても私は飽きてしまう。結構最初から最後までおんなじ感じに聴こえるのだ。練習を始めてからいろいろな演奏を聞いたけど、マイスキーなどはかなり起伏をつけている。でもなんだかちょっと大げさすぎる気もする。印象的だったのはYou Tubeで聴いたSergei Suvorovという人の演奏。細めの音で繊細にずっと線が描かれていく。ピアノとのアンサンブルも素敵。私が初めて最後まで集中して聴いたヴォカリースだった。 のせたいところとか、区切り、揺らぐところとか、一応イメージは描いたけれど、最終的には、退屈しないように弾くというより、むしろその緩慢に揺れる同じものというのが、ヴォカリースの魅力なのではないかと思った。それにはつまり一つ一つの音や流れが繊細で魅力的なものでなくてはならない。 今回の2曲はレッスンも受けずに自分で練習してみて、出来はよくなくても、目指したいものを自分で作るのはいい経験になったし楽しかった。あらためて、こんな機会を作ってくださった音夢鈴さんに感謝。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|