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おとといの土曜日は去年もご一緒させていただいたピアノの発表会でピアノトリオを弾かせていただいた。
去年と同じ思い出のホール。 曲はピアノの先生とドビュッシーのピアノトリオ3-4楽章。 生徒さんとハイドンのジプシーと言われているピアノトリオの3楽章。もうひとりの生徒さんとルイエのソナタの2楽章。 去年に比べて新たに私にとってプレッシャーだったのは、曲数が多いことと、チェロから入るのが2曲あること。 だいたいバイオリンがいるアンサンブルだとバイオリンがリードするものがが多い。 ドビュッシーの3楽章は緩徐楽章でピアノが何小節か前奏を弾いてそれからチェロが美しいメロディを奏でる。そのあとバイオリンがそれを繰り返す。これが美しく弾けないと元も子もないわけで、もちろん美しくはできなくともとにかく失敗してはいけないという脅迫に取りつかれて、最後の合わせの練習の時もあまりうまくいかず、そのときの録音を聴くとビブラートが完全停止している。 もう一つチェロが先に出るのはルイエのソナタ。ほんとはアレグロの曲なのだけど、難しいからゆっくりということで、それでそのテーマのあり方というか、とらえ方、どう考えるかもオリジナルに考えないといけない感じだった。合わせのときもいろいろと話をした。最初にチェロがテーマを弾くのだけど、なんかしっくり行かなかった。8分休符がちょんちょん入って、その休みの扱いと言うか、その前の音をどのくらい伸ばすかとか、どこに重みを感じるかとか、なんていうかゆっくり弾いても、プツプツ切れている感じになるべきではないと思ったり、逆にこのプツプツ切れるのが孤独感を出している魅力なんじゃないかと思ったり。(とここまで書いて、8分休符のところにピアノの左手で合いの手が入っていることに気がついた。後でもこのテーマが出てくるときには必ず合いの手ある。もうちょっとそこを意識して会話させるべきだったのでは?そんなん基本じゃん。あー、バカ。と改めて楽譜を見に行ったりしてて思った。) 結局、それを何とか解決するプロセスが、個人的には今回私にとって印象深い経験となったように思う。ちょっとアンサンブルということからは外れてしまうかもしれないけど。 それははっきり言って最後の合わせが行われた後でやった。これを合わせる前にしなくてはいけないとは思っています。 いろいろな人がいるし、私のやり方はあまり音楽的ではないとも思う。でも私はとにかく納得がないとある程度落ち着いた気持ちで本番(仕上げる?)にのぞむことはできないとういうことが分かった。 フレーズに対してどう弾きたいかがはっきりしてなくても、もう時間がないのだからとにかく迷惑かけずに弾けるようにしとこうとすべきなのだろうが、よけいに遠回りになってしまうように思った。その臨機応変さがない自分に対しては諦めたほうがいいようだ。技術的に弾けない不安より、曲が自分の中に入り込んでない不安のほうがずっと大きく感じるみたいだ。 どうしていいかわからないときに、先生がいれば先生に教えてもらってそれを手がかりにできるけど、今回は先生がいないので、世間的には間違っていようがどうしようがとにかく自分が納得できるイメージと音とそれが高い確率で出せる手順とを見出さねばならない。 上の二つの部分については、エラーつぶしよりもそちらに思い切って時間を使った。2つともまず信頼できるイメージができてなかったので、自分が気に入る何かを見つける。たぶん音楽に秀でている人は音だけでできるのだろうけど、どうも私にはクマが必要なようだ。抱きしめるクマ。それがあると安心できる。 ドビュッシーは舟でした(まあ平凡です)。最初のピアノの序奏で海の地平線と自分が立っている場所、島、岩。右側の岩陰から1艘の舟が静かに出てくる。それがチェロ。そして、もう一度同じ旋律をフォルテで繰り返すところではフェリーニの「そして船は行く」みたいなおっきい船を出す(つくづく「そして船は行く」っていい題名だと思う)。この2艘の船を出すのが私の仕事。そうしたらもう自分もそれに乗ってどんどん入っていきます。バイオリンが出てきたらそれと一緒に脇で進ませる。そして、気持ちいいと思えるような音を目指して、体も寄りかかるように気持ちよくさせて。 本番は舟のことなどすっかり忘れていたかもしれません。でもある程度落ち着けるようになったと思われる段階まではこのクマを使う方法以外に今のところ私には手掛かりがない感じです。 ルイエはそんなにはっきりした視覚的イメージがあったわけではないけど、何べんも弾いて、アウフタクトの音はそれほど重要じゃないと思ったときになんとなく弾きやすくなった。アウフタクトってそういうもので当たり前のことなんだけどなかなか気がつけなかった。何度も弾いているところで、そのアウフタクトの音と一拍目の音とのくっつき具合というか離れ具合というかちょうどいいんじゃないかと思われる感覚が訪れるようになった気がする。 合わせの練習をしているときの録音を聴いていて、その全体の感じがトツトツとしていて、それは曲の魅力というより、この私たちがちょっと不器用でぎこちないけど何か真面目にやってる進み方がそうだったのかもしれないけど、なんか愛おしく感じた。それでとにかくそのトツトツとしたものを肯定することを鍵にして進めていけばいいのではないかと思った。それでなんとなく、大丈夫かなと思える感じに前日までに自分で練習しておいた。本番ではこの曲を最初に弾いたのだけど、最初のいくつかの音を弾いてそれらがホールの中で跳ね返ってきたときに、ちょっと今までとは違ったものだったので意外だったけど、瞬間的にそれが好きになった。「これでOK」と思った。それでそのまま弾き進めた。 この曲は不思議なことに本番を終えて家に帰ってきて録音も聴いて夜遅くに何とも言えない納得感が訪れた。ある16分音符のところはひき臼を回すように弾こうと思っていたのだけど、よく考えたら曲全体がひき臼のようなイメージだと思った。平凡な私はひき臼を回すように弾く。高みに行く予定もないけどでも毎日回し続け、高みへのあこがれも少しあって、でもダメで、でも答えがなくても、トツトツとそれを回し続ける。悲しいともうれしいともないかもしれないけど、でもやはりそれは美しく愛おしいとか思ったら、泣けてきた。もうその曲はその遅く回すテンポがぴったりで、アレグロなんて考えられない気分になった。 こういうことは一緒に弾いてくれる人にはあまり話す気がしません。それは話すとバカみたいな話に響くというのもあるし、それからその人たちはまた別のイメージを持っているかもしれないし、イメージそれ自体は重要ではなくて、どういう音を出すかということが重要だし、音はあくまで抽象的なものでとどまるべきだと思うし。 ただ、個人的なメモとして、書いとこうと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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