プロ/アマチュア区分
少し忘れられるようになったと思うとまたもとに引き戻されてなかなか気持ちの整理がまだ完全についていないことがわかる。その引き戻しに自分でもいらいらする。人はいろいろな価値観があって、それとどちらかを正当化しようとする作用が働くので、自分が感じているのとは違うように解釈している人が発生する。でもそれもたぶん真実であり全力を持ってそれを否定してもたぶん時間と労力の無駄だ。時間が解決する部分もあるだろうし、新たなる展開をこちらで提示しない限り状況は変らない。以上は私自身の覚書き。(他も全部あまり読者に配慮のない覚書です。すみません。)引き戻しがあったにもかかわらず、練習にはまあまあ集中できた。とにかく集中すること。集中とは「本当にこれでいいか。これ以上の可能性はないのか。」を常に意識することと今は理解している。そしてそれはこの上なく楽しい仕事だ。今日どこまでいけるかはわからなくて落ちるかもしれないし、飛べるかもしれない。もう少しすれば飛べるかもと思うからしつこく時間を使ってしまう。本当に演奏に向いている人はちょっと違うようだ。そこまで思いつめないし、もっと自然にやっているみたいだ。上手な人はたいてい練習時間は短いみたい。そこらへんがタイプが違って躊躇する。でもしかたない。なぜか弦楽器がとくになのか、弓の動かし方とか音程のとり方とか、スポーツのような上手下手の話が多い気がする。音が抜けてるとか、死んでるとか。でもそうではなくまず全体の形とか、なにが言いたいとか、それを盛り立てるイメージとかそういう、技術の前の話があるはず。なんか気に入らないのはアマチュアとかプロとか区分すること。確かにプロの音とアマチュアの音とは違うという意味はわかるけれど、なぜその区分のことがこんなにも多く口にされるのかが理解できない。いまどき珍しい階級意識がそこにある。プロになるための努力が月並みでないからそれを得たものには特別の地位が与えられるというのはそれ自体は間違っていないかもしれない。しかし音楽ってもっと漠然としたあやういもので、お金を取れるか取れないかで区分できるものではないと思う。お金を出すのは神様ではないし。プロだといって安住できるものでもないと思う。その区分から自由な別のあり方があってもいいのではないかと思う。本当に真剣に大事なものを追っている人は自分がプロかアマチュアかなんてどうでもいいと思っているのではないだろうか。生活は大切だけど、一番大事な部分ではそれで糧を得ているかどうかは関係ないと思う。だから人の音楽や自分のことを語るなら、プロかアマチュアかということより、やっている音楽の価値をもっと語ってはどうかと思う。一番大事な部分を見つめてそれに言及しようとする人の比率はわずかでプロのなかでもアマチュアのなかでも同じくらいしかないように思う。私はその大事な部分があるということは直感的にわかるのだけど現前させられないのでえらそうなことは言えないけれど。