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お盆が過ぎ秋風を感じるようになりましたが、ふと父を懐かしく想いだしてます。
父は4年前95歳で亡くなりましたが、70歳で膀胱癌を患いお腹に袋を付けて25年再発もなく天寿を全うしました。 父はサラリーマンでしたが、真面目、誠実、勤勉、お人好し、他人の悪口は言わない、怒らない、お金に執着しないという性格でしたね。 でも今風に言えばただ好い人で、子供の頃は父の良さは理解できず、もっと格好いいお父さんに憧れ、母に「なんでお父さんと結婚したの」なんてひどいことを言ったのを覚えてます。 父は61歳の時母に先立たれてから母のやってたお店を守り、兄夫婦を助け孫の世話やらほんとうに豆に働いてましたね。 母が亡くなってから私達4兄妹夫婦と孫たちで父を連れて毎年旅行に出てました。旅行代は父が持ってくれたので、孫もほとんど参加してましたね。そんなお陰で未だに孫たちは仲が良く行き来してます そんな父も88歳の米寿の頃からボケ症状が出始め、90歳を過ぎるとひどくなり、徘徊、子供の顔が分からない、幻覚、可愛がってた内孫の名前も分からなくなり姪はショックを受けてました。 私の家に連れて来てる時「宿代のお支払いを」と言ったり、お布団を汚したり、夜中にうろうろしたりで今は笑って言えますが、ちゃんとした父だったのにと、切なくて何度涙したことか… 私が泣いてたら、内孫の姪が「おばちゃん、おじいちゃんはご飯を美味しいって食べてるじゃない」って言われハットしました。あ~父は生きがいがあり生きてる意味があるのだと姪に教えられました。 94歳で自宅介護も限界となり施設にお願いしましたが、それまで義姉は自分の体を壊してまで面倒をみてくれ心から義姉には感謝してます 最後はとにかく義姉でしてこんなこともありました。 私たちが2泊3日で旅行に連れ出し実家に連れ帰ったら、玄関に迎えに出た義姉の手を握りふ~とため息をついてほっとしてました。変な人たちに拉致されてたようで不安だったのです 喜ばせようと思って連れ出したのにがっかりでしたが、義姉が父をそれだけ良く看てくれてたのだな~と嬉しかったですね。 「どなた様?」で誰が来てくれたのかはわかなかったけれど、施設には皆で出来るだけ通いました。私達の声が記憶の奥に残ってたようで、嬉しい表情をしてくれたのが張り合いでした。 父が好きなコーヒーとお饅頭を持ち車イスで外へ連れ出して公園で一緒に食べました。 次の年の1月肺炎になり10日間危篤状態の中、孫たちも入れ替わり立ち代り訪れ父を見守ってましたが、静かに母の所へ旅立っていきました。 34年ぶりに母に会うわけで、母が父の顔が分かるかしらと皆で心配しました(笑) 私は短歌の会に入ってますが、始めるきっかけは父が危篤だった時、短歌をやってた姉が勧めてくれ、父をじっと見つめてる中、その頃の思いを歌に詠んでみました。 そんなきっかけで始めた短歌ですが、国語嫌いだった私が4年続いてます 「我の名ももう分からぬと知りつつも惚けたる父に幾度も問いぬ」 「娘の名問う我の顔じっと見る惚けゆく父の目の奥寂し」 「惚けし父よ神の褒美と思いつも変わりし姿に涙あふるる」 「「もういいよ」危篤の父の耳もとにささやきつつもモニター気になる」 「死の際に愛する子等を皆迎え悔い残さずか旅立ちてゆく」 愚作 父が1月に亡くなった年の8月に短歌の会に入りまとめたのですが、久しぶりに読むと暗いですね。 あの頃は惚けによる異常行動に疲れ果て心身ともに疲れてたのだな~と思います。 でも今思い出す父の顔は惚ける前の優しい笑顔ですね あの世で久しぶりに会った母に沢山のお土産話をしてることでしょう 父には人として何が大事なのか、沢山のことを教えてもらったような気がします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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