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テーマ:読書(8491)
カテゴリ:【読書】エッセイ・コミックエッセイ
書名 好きになってしまいました。 [ 三浦 しをん ] 目次 1章 美と愛はあちこちに宿る (名前のない友/衝撃の励まし ほか) 2章 あなたと旅をするならば (忘れがたきご亭主/流される旅 ほか) 3章 活字沼でひとやすみ (希望の塔ーなぜ、ひとは積ん読するのか?/夏目漱石ーキング・オブ・ツンデレ ほか) 4章 悩めるときも旅するときも (記憶は「ひと」とともに/ロボコップ再生 ほか) 5章 ささやかすぎる幸福と不幸 (夜中のアクアパッツァ/猫ネットワーク ほか) 感想 2023年185冊目 ★★★ 三浦しをんさんのエッセイはいつも面白い。 電車で読むのは危険。 でもこれはちょっと控えめだった。 2012年〜2022年に雑誌や新聞に連載されていたエッセイを集めたもの。 第一章は化粧品会社ハーバー研究所「日常のなかの美」をテーマにしたもの。 二章・四章は、VISAの会報誌の連載。 三章は本や書籍にまつわる連載あつめ。 五章はKITTE丸の内で配布される冊子の連載。 三浦さんは、ご自身のエッセイを「外付けハードディスク」と言う。 エッセイに残しておくことで思い出がよみがえる。 人間って忘却の生き物だよね。 プロと比べるのもおこがましいが、私もつらつらと何年かブログを書いてきて、昔の自分の記事を読むと、「え、そんなこと考えてたんだ?」とか、「そういえばそんなことあったなあ」とか、あるいは現在の自分の行動や考えの伏線になっているような内容があって、面白いです。 ブログ記事は検索できるから、私にとってはクラウドに保存した自分の記憶みたいなイメージ。 自分の脳みそも「Ctrl+f」(検索)できたらいいのに…。 映像記憶をさらにPDFの文字化みたいに文字列として認識させておいて、脳内のトップページにGoogleの検索フォームを設けたい…。 発想がテクノロジーに毒されている。 攻殻機動隊の世界みたいにならなくちゃ。 電子と言えば。 三浦さんは、紙の本が増えすぎて、2016年くらいから電子書籍の読書を始めたそうだ。 過去の購入履歴からダブり買いを教えてくれるから便利!といいつつ、複数の電子書籍サイトを併用してダブり買いしているそうな。 わっかるー。 電子書籍サイト、キャンペーンにつられて入会し、あちらこちらにアカウントを持ってしまい、「はて、私のあの本は、どこのサイトじゃったかの…」となってる。 いや、もしかして電子書籍で買ったってのは幻だったのかも…?と思ったり。 サービス終了したら読めなくなるし、やっぱり紙がベストなんだろうな。 人にも貸したりあげたりできるし、古本で売ることもできる。 置き場所さえ問題でなければ、な…。 しかしまあ、積みあがる本とは希望なのだとも言える。「明日も生きて、これらの本のなかから一冊読みたいな」とか、「知らなかったことをまだまだ知りたいな」とか、自分自身や未来への希望の象徴なのだ。このペースで行くと、とてもすべてを読みきれないまま死ぬにちがいないんですけどね。 本を1日に1冊読んでも、年365冊しか読めない。 日本人女性の平均寿命が84.62 歳 (2020年)。 85歳で死ぬとして、今37歳だから、あと48年。 48年×365冊/年=17,520冊。 あと2万冊も読めないのか…。 まして、1日に1冊というペースを生涯続けることはできないだろう。 現に、私は今年に300冊前後しか読めていない。 年を取れば、読書に必要な視力も体力も気力も衰えるだろう。 あな、かなしやかなし。 それでも、それは希望なのかな。 読めない本が積み上げられて、背丈を超える。 追加されるばかりで永遠に解消されない積読リスト。 天国はそれが全部読める場所ならいいなあ。 ついでに未完のまま終わった作品の続きも、読めたらいいんだけど。 私はてっきり三浦さんが読書中毒原理主義者なのかと思っていたのだけれど、三章で「夢中ということ」(日本経済新聞/2018.1.21)「穴に落ちる」(高校生のための読書への招待/2013)で、スマホに夢中になるのも別にいいじゃん、本じゃなくてもいいじゃんと書いていてちょっと驚いた。 三浦さんは、昔だって、スマホ老眼ならぬ「本に夢中になって目が悪くなる人」や、歩きスマホならぬ「歩きながら本を読む人」(二宮尊徳像)を「何あいつ、夢中になりすぎじゃない?」と思ってたんじゃないかと言う。 それが本であるか、スマホであるか、あるいは別なものであるかというだけで。 本を読むことが尊いのかどうかなんて、価値観が変化しただけなのだと。 そう言われると、絶滅危惧種「読書」の擁護・推進・保護をしたい私としては、「とはいっても、スマホと読書は違うでしょ」と言いたくなるのだけれど。 何が違うのかというと、なんですかね、「ためになる」度? いやでも、本だってすべてがすべて、「ためになる」わけじゃない。 そもそも「ためになる」から読んでいるわけじゃない。 スマホが「ためにならない」かと言うと、全部が全部そうとは言えない。 というか、すべての行動原理が「ためになること」じゃないといけないのか? 昔、日本語学の授業で、「電車の中での会話と比べて、電車の中での通話(電話)を不快に感じるのは、相手の発言を認識できないから」(片側だけの情報しか開示されないから)と聞いたことがある。 電車の中で本とスマホを持っている人を見て、その違いに思うのは、「何をしているかが明確」ということ。 本は、本を読んでいる。カバーをかけていなければ、タイトルから内容も推測できる。 一方のスマホは、スマホで「何か」をしているのだよね。 私はそこに通じるものを感じるのだけど…違うかな。 一周回って、最近本を読む人が増えた気がしている(私調べ)。 剥き出しの本に顔を突っ込むように読んでいる人に、「ああそれ、私も読みました!」と言いたくなる。 そのページ数だと、今あそこらへんだよね…! 日々、本を読む。 私は「今日読み終わるかどうか微妙」というときは、「予備の本(次に読む本)」と「もし予備の本に気乗りしなかったり読む気が起きなかったり思ったよりはやく読めてしまったときの予備の本」の3冊を持ち歩いていたりする。重い。 その日の気分と行動から、自分の読書ペースをあらかじめ把握していないと、「あ、この本帰りの電車の途中で読み終わってしまってその後に読む本がなくなっちゃう」となって、昼休みに慌てて本を求めにいったりする(重症)。 この世界から自分を切り取って、いつでも私はどこでもドアを開く。 図書館で、書店で、たくさん並んだ扉を見る。 私はあとどれくらい、別の世界へ行けるのだろう。 そしてどのくらいの数の扉を開かないままに終わるんだろう。 それでも三浦さんが言うように、「そこに扉がある」ことが、希望なんだ。 いつか、あの扉を開こうと夢見ながら、死んでいくとしても。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.08.23 08:23:09
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