138.きれいになりたい気がしてきた [ ジェーン・スー ]
本のタイトル・作者きれいになりたい気がしてきた [ ジェーン・スー ]本の目次・あらすじ第1章 世間が望む“おばさん役”から全力で逃げ出そう第2章 次の十年は「効かせ」の十年第3章 自分にとっての「ちょうどいい」第4章 自己受容と諦観は別物よ引用ふと、イライラしながら美魔女を見ていた昔の自分が頭をよぎりました。あのころ、私はなぜイラついていたのでしょう。たぶん、めちゃくちゃ我慢してたんだと思う。我慢しているとき、人は我慢のない人生を送る他者に腹を立て、それを責めたくなります。私にとってそれが美魔女だったのかも。うらやましくて仕方なかったのかも。ようやく気が付きました。私は「我慢と自己犠牲の上に成り立つ基盤があってこそ一人前」という、世間が求める女性像になれない自分を責めていました。と同時に、基盤の有無にかかわらず、加齢をものともせず人生を謳歌する美魔女に「少しは我慢しなさいよ」と嫉妬していたのです。ならば自分も美魔女に倣って人生と美を謳歌すればいいのに、私は「ズルイ」と舌打ちをするだけでした。かっこわるいねえ。感想2022年138冊目★★★『美ST』連載の44本のエッセイ集。はじめ、タイトルから「きれいになりたい気がしてきた」→「○○というやり方を試してみた」→「結果こうなった」の実践方式を雑誌コラムでずっとやった本かと思っていたんだけど違った。美の周辺のことをテーマに書いたコラム集だった。なので、「あたり」のものと「うーん」というものが混交している。でもジェーン・スーさんの語り口が好きなので全体的に楽しく読めた。私も、四捨五入アラフォー。若い頃の、雑誌やテレビが標榜する美しさの範疇外にいて、だからこそそれに反発し「自分は違う」と主張していたものとは違う。新たな美しさは、この本の「最後の勝負は遺影だ」に向けたもの。閉経についても書かれていて、ここらへんも自分の将来の先輩がたの話を聞きたいところ。「あと何回であがるか、腕にシミがあって減っていけばいいのに」っていうの、分かりやすくていいですよね…。更年期の訪れにも戦々恐々とするようになってきた、今日この頃。ギラギラした女性実業家との会食で、ワーママ友人が言ったという「誰に遠慮して生きてんだ、私は」という一言。グサッと胸に刺さる。遠慮。それは言い換えると、世間体?自分の中にある内律化された規範。こうあるべき、という認識。誰に遠慮しているんだろうね、私(たち)は。そしてそれは、カウンターで「遠慮しろ(=空気を読め、わきまえろ)」にもなる。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森会長の女性蔑視発言に「#わきまえない女」がトレンド入りしたことを思い出す。だからこそ、引用部のジェーンさんみたいに、「ムカつく」「ずるい」と思ってイライラするのは、相手が「わきまえていない」からなんですよね。自分が我慢していることを、線引きして遠慮していることを、抑圧されていることを、相手はものともしないから。「ここまで」と赦していたボーダーの越境。境界線を越えてきた者たちに男が感じる「イライラ」も、同じなんだろう。若い頃の「きれいになりたい」は、誰のものだったのかな。媒体で見かける商業主義的なアイコンを、自分から乖離した存在だと思った。平井摩利さんの『火宵の月』という漫画があって、そこで主人公(両性体の猫・火月)が「彼女たちと、中途半端な自分は違う。ぜんぜん違う」と言うシーンがあって、それを覚えている。うつくしく、華やかな彼女たち。概念としての若く美しい女。それと、鏡に映る自分は、なんて懸け離れているのだろう。ここも、あそこも、全部、だめだ。鏡の中の自分を嫌悪し、目を逸らす。でも今、アラフォーになって「きれいになりたい気がしてきた」私は、何かのアイコンを見ていない。それに気付く。私はただ、私を見ている。「最後の勝負は遺影だ」―――それは「最後に最良の私」を目指すということだ。誰かの真似ではなく、模倣ではなく。自分というオリジナルとしての完成を、最善を目指す。それは外側だけでなく。今、鏡のなかの私は、微笑む。戦友の顔は、シミが浮き出て皺を刻んでいる。けれどそれを嫌悪しないのは、むしろ愛おしく思うのは、思えるようになったのは、何故だろう?マルグリット・デュラスの『愛人(ラマン)』に言う。私は今のあなたの顔のほうが好きです。若い頃の美しかったあなたより。嵐を通り抜けた、今のあなたの方が。これまでの関連レビュー・私がオバさんになったよ [ ジェーン・スー ]・新しい出会いなんて期待できないんだから、誰かの恋観てリハビリするしかない [ ジェーン・スー ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓