294.生贄探し 暴走する脳 [ 中野信子×ヤマザキマリ ]
本のタイトル・作者生贄探し 暴走する脳 (講談社+α新書) [ 中野 信子 ]本の目次・あらすじはじめに 中野信子第1章 なぜ人は他人の目が怖いのか 中野信子「魔女狩り」に見る人間心理の闇幸せそうな人を見ると、なぜモヤッとするの?脳は、誰かと比べないと幸せを感じられないなぜ、「他人の不幸」は蜜の味なのか世界でもいじわる行動が突出している日本人協調性という名の蟻地獄あなたが生贄にされないために第2章 対談 「あなたのため」という正義──皇帝ネロとその毒親人はいともたやすく正義中毒にはまるなぜ読者が、皇帝ネロに感情移入したのか母親や重臣殺害の深層心理国民のアイドルだった若き日のネロ自己評価の低さがおデブの引き金に人の評価が支配する“世間体”という戒律わが子を自己実現の道具にする毒親子の苦痛に共感できない親とは?女は「正義」の使い方を知っている「妬み」の構造間違った褒め方がプチネロを作る第3章 対談 日本人の生贄探し──どんな人が標的になるのかプチネロたちの脳内「群れ」に生じる凶暴な安心感自分の空洞を埋めるための正義なぜ、日本では陰湿な炎上が起きるのか「群れに害をなす」というレッテルファッション化する「正義」匿名で解放された日本人フェラーリで上がる男性ホルモンの値息苦しさが表の顔と裏の顔を作るキリスト教と仏教の救済の違い攻撃する側の脳内を満たす快感「得していそうな人」が生贄になる 第4章 対談 生の美意識の力──正義中毒から離れて自由になる境目の人々に見えている世界なぜ混血児は優秀なのか戦わずして勝つフェデリーコ2世の戦略「理解してくれる人」を人は根源的に求めるエンタメは負のエネルギーを浄化する日本人を変質させた歴史のキーワード「悪」の使い道「違い」を面白がれる生の美意識どれほどアートの力が大切か自分は自分が大事、相手も自分が大事第5章 想像してみてほしい ヤマザキマリ「出る杭を打つ」日本を恋しがるイタリア人の夫思い知らされた「世間体」という日本の戒律想像力の欠如がヒトを危険生物化する人からの評価で自分の存在を自覚する人を脅かし群れさせる「孤独」の正体自他ともに失敗が許せない時代敵を味方に変えたフェデリーコ2世と空海の力本当の「正義」について考えてみるおわりに ヤマザキマリ引用進化の方向性としては、多様であることを支持するように進化してきているはずなのです。それなのに、貴重なはずの「異質な情報」「異質な思考」が、生贄として、社会という仮想的な巨大生物を維持するために、消費されてしまう。(中略)このパンデミックが後世、歴史的に何と呼ばれることになるかはわかりませんが、仮に「2020年のパンデミック」とするなら、せめて次世代には、教訓を残さなければと思っています。危機的な状況が起これば、少しでもはみ出した者から、生贄に捧げられてしまうのだよと。ヒトは放っておけばそういうことをしてしまう生き物なのだと。だからこそ、知性でそれを押しとどめる必要があるのだということを。感想2021年294冊目★★★『テルマエ・ロマエ』のヤマザキマリさんと、脳科学者の中野信子さんの共著。おふたりはプライベートで友人で、ラインなどのやりとりがこの本のきっかけになったそう。どんな話をするのかな、と思ったら、ローマの話や中世の魔女狩りと、今回のコロナの状況、日本人とネットとの親和性について…と多岐に渡り、興味深かった。「誰かが10万円もらえた、ということを、自分の脳は10万円損したように感じている」という脳の仕組み、今の子育て世帯への給付についてやいのやいの言うのも、子育て世帯のほうがマイノリティになった今、多くの人は「損した」と感じているからなのかな。本の中で初めて知った「スパイト行動」(相手の得を許さない、自分が損しても他人を貶めたいという嫌がらせ行動)。日本ではこれが顕著だそう。だからこその、「世間体」の中で生きる、「空気を読む」サバイバル。自分のなかにも、この気持ちってあるなあと思った。「ただ乗り(フリーライダー)を許さない」という気持ち。正義感のようなそれ。「自分はこんなに我慢している・負担している」とセットで、憤る。復讐心のように燃える。「よかったね」と思えない。何でなんだろうね、ほんと。私は「ドラえもん」ののび太をすごいと思っていて、それは「のび太の結婚前夜」でしずかちゃんのお父さんが「のび太君は、人の悲しみを悲しみ、人の喜びを喜べる人だ」と言っていたから。無理。そうは思えない。己の器の小ささに絶望する。本の中に何度も紹介される神聖ローマ帝国のフェデリーコ2世がすごい。6か国語を喋り、多種多様な教養を身に着け、各国文化にも造詣が深い。アラビア語を話してイスラム朝と協定を結び、エルサレムを無血開城させる。財力、教養、カリスマ、活動力を備えたまじやべえ奴…。ここで言語の有用性について触れられていたんだけど、やっぱり自動翻訳がどれだけ発達しても、肉声で意思疎通することの価値は残るし、機械が進歩するほどいっそう高まるんじゃないかな。相手の言語を学ぶということは、その文化や歴史、生活習慣もセットで学ぶということだ。そこに多大な労力を費やすということは、相手に敬意を払っているということに他ならない。相手の一部を自分の中に取り込み、自分の血肉にすることだから。朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で、どうして英語を学ぶんだろう、と主人公が言う。自分に英語を教えてくれた夫は、戦争で帰らぬ人となった。彼が身に着けた英語は、知識は、すべて無に帰してしまった。それなのに、どうして私は、まだ英語を学んでいるんだろう。学ぶことをやめられないんだろう。それに、アメリカ兵(大学で日本語を専攻していた)が答える。彼が遺したものが、与えた知識が、言葉が、あなたを生かしているのではないですか。景気が悪くなる。災害が起こる。世の中が閉塞する。人は、生贄を求め、集団から異質なものを排除しようとする。私はそれと言語を重ねて見る。違う言葉を話している人たち。それでも学び続けるのは、いつか話せる日が来ると信じるからだ。いつかわかり合えると、その日が来ると、純粋に願っているから。だって覚えている。はじめて言葉が通じた喜びを。簡単な挨拶を交わして、笑顔を返した時のこと。いつかすべてがうしなわれてしまうとしても。逸脱者を引きずり降ろそうとするときに。社会が徹底的に叩いて、世間が打ちのめして、ひとりを死に追いやる時に。私はどこに立っているだろう。そして思い出す。昔読んだ本の「世の錨となれ」という言葉。みんなが流れていく、その先に何があるのか。私は止まることが出来るだろうか。傾いていく秤の反対側に、重石を乗せることが出来るだろうか。それが小さな小石でも。↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓