証言記録 マニラ市街戦~死者12万 焦土への一か月
当初フィリピンはアメリカの統治下にありましたが、日本軍によって追われます。その時、必ず戻ってくると誓ったのがあのマッカーサー。日本軍はフィリピン人に日本語の使用や天皇崇拝を強制し自由を奪います。それが日本への反発を芽生えさせ、後に大きな悲劇を生むことになるのです。 やがてアメリカは首都マニラに進軍。日本軍と壮絶な市街戦を繰り広げます。建物が妨げとなり米軍も苦戦し、多くの犠牲者が出ます。一日も早く制圧するように、というマッカーサーの命により砲撃戦を開始。とてつもない数の砲弾を市街に打ち込み、米軍を味方だと思ってるマニラ市民までもが数多く殺されました。 一方で米軍はマニラ市民に銃を与えゲリラ隊を組織。ゲリラは一般市民の中に紛れ込んでいて区別がつかないため、日本軍の恐怖は増幅。人を見たら誰かれとなく撃ち殺すようになっていきます。さらにフィリピン人を密告者として働かせ、数百人の反日人物を処刑したのです。 日本の戦局がいよいよ苦しくなると最後の攻撃として「斬り込み」が行われました。暗闇の中、寝ている米兵に向かって軍刀一本で立ち向かうそうです。皆バンザイを叫びながら突っ込み、結局は機関銃でやられ遺体の山となりました。でも米兵にとっては恐怖でナイフを胸に置きながら眠る日々でした。 米軍勝利後はフィリピン人同士の争いが始まります。家族を失った人たちが日本軍に協力した密告者たちを捕らえていき虐待のすえ処刑。双方の心に消えない傷を残しました。 1ヶ月の攻防で日本軍16,555人、米軍1,010人、マニラ市民10万人が戦死。ビューティフルタウンと呼ばれた美しい街は廃墟となりました。 フィリピン人、元米兵、元日本兵の多くの証言を聞けましたが、各人に共通するのは目に涙をためて必死に堪えている様子でした。その表情には勝者も敗者もなくて耐え難い苦しみがあるだけでした。 家族を失ったフィリピン人女性「日本だけが悪いとは思わない。でも結果として多くの人が家族を亡くし全てを失ってしまった」 米兵「なぜあんなことになったのか分からない。自分はどうしてあの場に行ったのか。それは、そこに行けと命令する人がいたからだ。命を下す人が前線に立てばよい。そうすればどうなる?戦争なんてなくなるさ」 このマニラの悲劇をどれだけの日本人が知ってるんだろう。今でも日本の戦争責任を訴えるアジアの国は中国と韓国。他の国は過去を水に流して友好的と勝手に思いがちだけど、そんなことは全くないのがよく分かります。国民性の違いなのか声高に訴えることはないけど、泣き顔からは秘めた思いが伝わってきました。ガレキと共に横たわる裸の赤ん坊や母親たちの無残な姿は本当に悲しかったです。