|
カテゴリ:関ヶ原合戦史跡探訪記
おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していますのでご注意ください。 毛利輝元の思惑 関ヶ原の戦いでの毛利の動きを見ると、そもそも家康と戦う気はなく、戦後の領地安堵のほうが優先されていたのではないかと感じます。さらにこの合戦前後には混乱に乗じて自領周辺に軍事行動を起こし、領地の拡大を図っています。 西軍の総大将となったものの、自分は大阪城を動かず家康と戦うことはありませんでした。名代として前線に出張った毛利秀元にも南宮山を動かさず、戦力を損ねないように努めさせておいて、戦後はうまく和睦して自領は拡大する。こうした戦略で関ケ原に臨んでいた可能性が推測されるのですね。 一部には、最初から家康に勝てるとは思っていなかった輝元が、石田三成を決起の張本人のように仕立てておいて合戦し、自分は直接戦わず、敗戦の責任は三成に負わせるという、高等な生き残り戦略を描いたと説くものがあります。関ケ原での秀元の動きもまたそれを裏付けているようにも見えます。 毛利秀元陣地 「南宮山」へ登る 麓にある南宮大社は崇神天皇時代に創建されたと伝えられる非常に古い神社で、関ケ原の戦いでは戦火により焼失します。家康はこのことを気にかけており、孫の家光の代のときに再建されています。一説には西美濃出身で家光の乳母であった春日局の強い要望もあったとされます。 次の「東照宮」などは家康ゆかりであることを示していますね。
次の写真のように関ヶ原合戦にちなんだものもありますよ
毛利秀元陣地まではハイキングコースとなっています。案内表示に従って登ってみます。
ここはまだ境内です。伏見稲荷風の鳥居が並んだところを進んでいきます。 安国寺恵瓊陣地 ハイキングコースに入るちょっと手前のところに安国寺恵瓊の陣地跡があります。恵瓊は毛利家の外交官的役割を果たしていた僧侶から名をあげ、豊臣秀吉の側近にまでなりました。秀吉の死後は反徳川家康の決起や輝元を西軍の総大将に据える画策などを裏で主導したのは彼だと言われています。関ケ原合戦では秀元陣地のおひざ元に陣取りました。 解説坂もあります
関ケ原の戦いでは、安国寺恵瓊も南宮山を動けず戦闘に参加しませんでしたが、戦後は三成と諮った首謀者の一人とみなされ、六条河原で斬首されています。 ハイキングコースを進みます。入り口近くに案内図があります。東回りルートで登ります。
この辺りは自然も豊かでイノシシ、鹿、ツキノワグマ、ニホンザルなどの動物も生息しており、獣害を防ぐためフェンスが設けられています。ハイキングコースには自分で鉄扉を開けて入っていきます。 ハイキングコースは好く整備されています。 休息所も何か所か設けられています。 毛利秀元陣地に到着 12時20分ごろ登りはじめ、陣地についたのが13時38分。コース入り口には約1時間のコースと書いてありましたが、途中休憩したり写真を撮ったりしていたので、自分の足でも実質大体1時間ぐらいかなと思いました。 この陣地からは東方向、南方向の眺望がすばらしくいいです。大垣城、岐阜城、清州場、名古屋城などもすべて見えますね。
解説プレートは関ケ原町と同じタイプの立派なものが設置してありました。 ところが、西北に当たる関ケ原方向を眺めようとしても鬱蒼としているし、延々と尾根が連なり、しっかり見通せない位置関係です。 毛利秀元は、毛利元就の四男穂井田元清の子で、7歳の時、子供に恵まれなかった従兄の毛利輝元の養嗣子となります。 文禄4年(1595年)に輝元に実子が生まれると16歳の時に世嗣を辞退しましたが、4年後には独立した大名と認められ、別家を創設してそのまま毛利を名乗っています。関ヶ原の戦いには若干21歳で、1万3千の大軍を率いて参戦しました。
しかしながら、前述のように麓から1時間もかかる山上に本陣を置くこと自体、不可解です。もともと地形上、関ケ原を見通すことができないし、大軍が移動するには山奥過ぎて、時間も体力も消耗してしまうような場所なのです。
ハイキングコースの下りは西回りが速いのですが、それでも40分は優にかかります。さらにそこから決戦地まで4キロ以上ありますから、いざ出陣となって決戦場につくまで頑張っても2時間かかってしまいます。これでは火急の時にまったく間に合いませんね。 しかも、草鞋(わらじ)のようなものしか履いていない足軽では、駆け下りているうちにけが人続出でしょう。どうみても合理的ではなく、本当に戦意があったのか疑わしくなります。 吉川広家陣地跡 南宮山を下って、少し西に行くと吉川広家の陣地跡があります。吉川家は毛利家の家老兼外交官という立ち位置にあり、毛利安泰のためには、家康とことを構えるべきではないと考えていました。そのため、もともと石田三成とも仲が悪かったこともあり、関ヶ原では黒田長政通して東軍に内通し、毛利軍を南宮山にくぎ付けにしたと言われます。 安国寺恵瓊らに戦闘開始を催促されても、「いまから兵に弁当を食わすところだ」などと嘘を言って引き延ばしを図り、これが「宰相殿の空弁当」という有名な逸話として残っています。
しかしながら、次の理由から非公式サイトは、吉川の動向いかんにかかわらず、毛利軍は動く気がなかったのではないかと想像しています。 一つは毛利輝元が大阪城を動かず、逆に西国で自領周辺への侵略行動を継続していたこと。もう一つが秀元が戦闘参加に不便な南宮山上に陣を敷いたことです。本気で戦う気があったなら、もっと麓に布陣すると思うのですが。もし、そうしていたら、家康は桃配り山に陣を置くことはとても危なくてできなかったでしょう。 簡単に「南宮山に1万3千の脅威!」と言いますが、滑り台があって下りてくるのとはわけが違います。現在の整備されたハイキングコースですら軽装備とトレッキングシューズでも1時間かかります。武装して槍や鉄砲を担いだ足軽が、鍛えられていたとはいえ半分の時間で移動するのは難しいでしょう。 急坂で将棋倒しでも起こしたら下りてくる前に全滅です。こうしたことは実際に登ってみて初めて実感できたのですが、ここに布陣した時点で毛利秀元隊は戦闘不参加を宣言したようなものだと考えるのが自然に思えます。 家康も、念のため桃配山後方に毛利への備えとして山之内一豊や浅野幸長などを配置していますが、現実的には毛利は動かないだろうと確信していたのではないでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[関ヶ原合戦史跡探訪記] カテゴリの最新記事
|