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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号4(その1)
しばらく遠のいていましたが、背番号史を再開し続けていきます。
渡辺敬蔵 外野手 タイガースにおける公式戦出場はわずか1試合のみ。代打で出場し三振に倒れた1打席が唯一の公式記録となっている。 入団して1年もたたない昭和17年11月に大洋軍(大洋ホエールズとは無関係)へ移籍し、そこで10試合に出場し、12打数2安打を記録しているが、この年限りで引退。プロ生活は1年間だった。引退の理由も不明である。
駒田桂二 投手 実は入団時の背番号は27番で、翌年から7年間4をつけている。1年目は6試合の登板で未勝利だったが、背番号が変わった昭和25(1950)年が7勝、翌26年は11勝、27年が8勝とそれなりに活躍している。 通算では8年間で45勝39敗、防御率3.10の好成績を残しており、戦後の弱体投手陣の一翼を担っていた。 昭和31(1956)年のシーズンをもって引退し、社会人野球に復帰している。身長180センチのすらりとした本格派で、なかなかのイケメンだった。
辰市邦輔 二塁手 立命館高校の4番として夏の甲子園ベスト4に貢献し、大きな期待のなか昭和32(1957)年にタイガース入団した。入団時から2年間は背番号「39」で、昭和34(1959)年に「4」を着けた。 しかし実績は期待を裏切っている。入団年は4試合出場のみ。2年目が46試合、3年目に44試合に出場したが、鎌田実が二塁手として台頭してきたのに押される形でこの年限りで引退している。まだ21歳、有望視されていただけに残念だ。 通算では3年間で94試合、210打数45安打9打点で打率.214、ホームランは2本打っている。
水上静哉 内野手 社会人出身の内野手・水上静哉は、昭和34(1959)年に東映フライヤーズから移籍、その年は背番号51、翌昭和35(1960)年に背番号4を引き継いだ。 東映時代の5年間は427試合に出場しており、入団1年目の昭和29年に124試合、2年目には135試合に出場してレギュラーを張ったが、非力でどちらかと言えばセカンド、サード、ショートが守れるユーティリティな守備の人だったらしい。 東映を戦力外となり、タイガースでは2年間で通算69試合出場にとどまり、81打数17安打3打点で打率は.210だった。当時、試合終盤に非力な鎌田実の打席で代打を出したあと、守備固めとして使われたことが多かったようだ。 昭和35年限りで引退。背番号4は1年間背負っただけだった。
伊藤光四郎 外野手 水上の次、昭和36(1961)年に背番号4を引き継いだのが伊藤光四郎だ。 タイガース時代の6年間はどちらかと言えば鳴かず飛ばず。昭和34年の82試合が最多で、100打席以上のシーズンは1年だけという成績だった。 タイガースでは通算251試合で、256打数45安打10打点4本塁打、打率は.176と振るわないまま、昭和36年を最後に西鉄ライオンズへ金銭トレードにより移籍した。 伊藤はライオンズでは9年間プレーしており、そのうち6シーズンで100試合以上出場してレギュラークラスの働きをした。 現役引退後はライオンズの打撃コーチを長く勤め、太田卓司や真弓明信、加藤博一などの育ての親でもある。 まとめ 背番号4は、当初つけたがる人が少なく、昭和11年から同36年までの26年間で5人しかいない。しかもそのうちの17年間は空番だった。 背負った選手5人も、たいした成績を残していないし、日本人選手には敬遠された番号だったのだろう。 しかし、次につけることになる選手が大活躍したことから、「背番号4」の評価は変わっていくことになる。
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Last updated
2023年02月03日 14時00分56秒
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