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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号4(その2) その1から続きです ジーン・バッキー 昭和37(1962)年7月、ハワイの3Aアイランダーズに在籍していた時に奨められてタイガースのテストを受け同月入団、背番号4の継承者となる。来日時の荷物は文字通りトランク一つだったという。 この年8月9日が初登板、2回で3点を失い敗戦投手。その後も7試合に投げるも結果は出ず、1年目は0勝3敗で防御率も4点台だった。 が、この男が化ける。 2年目の昭和38(1963)年には33試合で8勝5敗、防御率2.49。そして3年目の昭和39(1964)年に大爆発した。 46試合で353回1/3を投げ、29勝9敗、防御率は1.89!最多勝、最優秀防御率のタイトルを取り、ベストナインとともに外国人初の沢村賞も受賞している。小山正明がいなくなったあとのタイガース投手陣の柱となってリーグ優勝に導く大活躍だった。 当然セリーグのMVPだろうと思われたが、シーズン55本塁打の日本記録を打ち立てた王貞治にもっていかれたのは残念だな。
昭和40(1965)年には18勝でノーヒットノーランも達成、翌年からもさらに14勝、18勝、13勝を挙げて5年連続二けた勝利を達成している。 惜しかったのはタイガースでの最終年となった昭和43(1968)年9月18日の巨人戦。王の頭付近への投球をめぐり乱闘となった有名な「バッキー荒川事件」だった。 この乱闘で、迂闊にも巨人荒川コーチを右手で殴ってしまったバッキーは指を骨折し、事実上投手生命を失った。 タイガース時代の7年間(1年目は未勝利なので実質6年間)で100勝を挙げており、これはのちのメッセンジャーでも達成できなかった大記録として残る。 こうしてタイガースの「背番号4」は市民権を得て、あの人に受け継がれることになる。 川藤幸三 福井県立若狭高校のエース・外野手・4番打者として甲子園大会にも出場した川藤は、昭和43(1968)年にドラフト9位でタイガースに入団する。入団時の背番号は45で2年間着けた。 背番号4はバッキーが抜けたあと昭和44(1969)年には空き番となり、昭和45(1970)年から川藤が受け継ぐことになった。 高校時代は肩も強く、俊足で打力もあった川藤だったが、プロで目が出たのは6年目の昭和49(1974)年のことだ。それでも106試合で202打数40安打8打点1本塁打、打率.198という成績に過ぎない。 しかも運が悪いことにその翌年の春季キャンプ中にアキレス腱を不完全断裂する大けがを負い選手生命の危機を迎えてしまう。 昭和51(1976)年、けがからは回復したが、かつてのように走れず、スタメン出場の機会が少なくなっていったことで、代打へと生きる道を変えていった。ベンチでヤジ将軍になり、ムードメーカーとして存在感を前面に出すようになったのもこうした経緯が影響している。 大きな功績として、バースに将棋を教えるなど日本文化やチームに溶け込むためのサポートをしたことも付け加えておかねばならないだろう。川藤は日本シリーズでの出番はなかったが裏方に徹し、公私でチームを支えていた功労者だ。「日本一の場面に居れてよかったね」と本当にそう思う。 昭和61(1986)年に引退するが、この年は吉田監督の計らいでオールスターゲームにも初出場している。またこの年に打った5本のホームランはすべて代打。しかも、キャリアの中で1シーズンに打った最多ホームランというから「代打の神様」と言っても過言ではないだろう。パリーグにいたら指名打者で二けた打てたんちゃう? 結局、川藤は昭和45年から引退する昭和61年まで16年間、「背番号4」を背負っていたことになる。
まとめ バッキーが7年、川藤が16年と、2人で23年背負った背番号4。 この先も、色々重要人物が着けるなど、人数は少ないが味のある番号になったと言えるだろう。
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