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タイガース非公式サイト2代目

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2024年05月28日
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背番号22(その3)

背番号22の第3回目です

今回は昭和30年代半ばから40年代半ばまでのあいだに背番号「22」を着けた3選手を紹介するけど たぶん3人ともあまり知られていない選手だとおもう

「22」を着けた期間もそれぞれ3年 2年 2年だから 当時リアルタイムで見てた人であってもほとんど印象がないんじゃないかな ただし谷本さんはスカウトとして有名なんだよ

室山皓之助(こうのすけ) 外野手

岡山県出身で高校は倉敷工業。1957(昭和32)年の選抜大会にセンターとして出場しベスト4。卒業後は法政大学に進む。

東京6大学リーグでは4度の優勝を経験。1960(昭和35)年春季では首位打者になっている。また同年の大学選手権でも優勝している。1960年春から1961(昭和36)年春にかけて3季連続でベストナインにも選ばれた。リーグ戦には通算68試合に出場し、232打数69安打26打点2本塁打、打率.297の成績だった。

 1962(昭和37)年にタイガースへ入団。実際は阪神電鉄に入社しタイガースへ出向という形をとっており、ドラフト制度以前のタイガースでは大卒の選手を獲得する場合はこのパターンでの入団が多く村山実なども同様だった。背番号は「22」で入団から3年間着け、その後の2年間は「28」に変えている。

右投げ右打ちの好打者としてキャンプで認められ、開幕から1軍で起用されて52試合に出場していたが、8月15日の大洋ホエールズ戦で近藤昭仁のフライを追っている最中にアキレス腱切断というアクシデントに見舞われる。1年目は97打数17安打5打点2本塁打、打率.175の成績のところでリタイアを余儀なくされた。

 それでも翌1963(昭和38)年には復帰して自己最高の81試合に出場しており、スタメン3番を担うこともあった。打撃成績も153打数32安打45打点3本塁打で、打率.209と向上している。

 しかし、当時のタイガースの外野陣にはソロムコ、並木、藤井と好選手がそろっていたため、その牙城は固く、レギュラーの道は開けなかった。

 そして1964(昭和39)年はわずか4試合の出場に終わっており、背番号を「28」に変えて臨んだ1965(昭和40)年には再びアキレス腱を切断してしまう。

 1966(昭和41)年、またも復活はしたが19試合出場にとどまって現役をあきらめ引退している。通算では182試合303打数59安打17打点5本塁打67三振、打率.195の成績しか残せなかった。

 1967(昭和42)年、引退後は電鉄社員に戻り、ホテル阪神に勤務したのち、1979(昭和54)年から今度はタイガースフロント入りし、日本一になった1985(昭和60)には吉田監督付き広報という立場だった。

谷本 稔 捕手

愛媛県八幡浜市出身で高校は八幡浜高校。高校1年時の1952(昭和27)年に父親を亡くして母子家庭となって経済的に厳しい時代を過ごす中でプロ野球入りを意識することになったと言う。

 八幡浜高校の野球部監督だった徳田節次郎が、当時大映スターズの監督だった藤本定義の実兄である縁で、1955(昭和30)年に大映に入団している。

 大映には1957(昭和32)年まで準レギュラー級の捕手として在籍したが、球団合併によって1958年からは大毎オリオンズの選手となる。

 オリオンズでは7年間プレーし、そのうち4シーズンで100試合以上の出場実績があり、安定して2割7分程度の打率も残し、ほぼレギュラー級捕手として定着していた。

大毎オリオンズ時代 右が谷本 左はエースの小野正一

 しかし1964(昭和39)年は88試合の出場にとどまり、それまで8年連続で記録していた本塁打も0となって醍醐猛夫にポジションを奪われてしまう。

 1965(昭和40)年、大映時代の監督だった藤本定義が監督を務めているタイガースへ牧勝彦とのトレードにより移籍し、室山から譲られた背番号「22」を着けた。

 3年間プレーしているが、1967(昭和41)年からブルペンコーチ兼任になって背番号も「53」となり、同年に引退している。

 プロ通算成績は1099試合2759打数708安打360打点46本塁打236三振、打率.257。

 引退後も1974(昭和49)年まで2軍バッテリーコーチとして残り、1979(昭和54)年から1981(昭和56)年まで1軍バッテリーコーチ、1982(昭和57)年は2軍監督を務めた。

 その後はフロント入りしてスカウトとして敏腕をふるい、嶋田兄弟や藤川球児を入団させている。特に藤川は線が細くまだ球速も出なかったため「1位でとるほどの投手じゃない」という声があったが谷本の強い推しで1位指名となっている。想像だが、のちに藤川が「22」を着けたのは谷本の着けていた番号だったからかもしれない。(藤川は2005年から7年間、2009年のWBC、メジャーから戻った2017年から4年間と3度の機会で「22」を着けている)

西村公一 内野手・外野手 (再掲)

​ すでに背番号8-3で紹介しているが、最初に着けた番号が「22」であるため少し詳しく再掲する

山梨県大月市の出身。高校は地元の甲府工業で1966(昭和41)年の夏の選手権で甲子園を経験し、ベスト8になっている。

 1955(昭和30)年にタイガースへ入団していきなり22勝で新人王に輝いた西村一孔(背番号「20」で紹介済)は実兄である。

1966年の二次ドラフト1位でタイガースに入団し2年間「22」を着けるが田淵幸一に譲り、その後「8」→「43」と変えている。

兄の一孔は1960(昭和35)年に引退しており同時に在籍していた期間はない。

 ルーキーだった1967(昭和42)年は10試合で10打席に立ったがノーヒットで4三振に終わっている。

 翌1968(昭和43)年が16試合、1969(昭和44)年が23試合、1970(昭和45)年も12試合と出場機会は増えない。

 1971(昭和46)年にようやく52試合に出場、打数も101と三桁になったが打率は,168。入団以来、公式戦の打率が2割に届いたことがない。

 1972(昭和47)はファームでは本塁打王になったが1軍のゲームに5試合しか出場できず、翌1973(昭和48)年は公式戦出場が0となって自身の限界を感じ引退した。

 同僚の江夏豊によると、「試合に出たくて骨折していても隠してプレーしていた」というほど根性のある選手だったようで、内外野どこでも守ったのも試合に出たいがためだった。しかし選手としてプロのレベルにはついていけなかったようだ。

 通算118試合170打数26安打7打点2本塁打61三振、打率.153という数字が残る。引退後はプロゴルファーに転身した。

まとめ

今回はの3人は背番号「22」を着けた期間が短い人ばかりだったね 選手としての知名度はというと 谷本さんはパリーグでかなり活躍してるようだけど 他の2人はちょっとわかんないだろうね

タイガースでの谷本さんはスカウト時代が一番有名みたい とくに藤川球児投手を1位指名した功績が大きいわよね
 室山さんは2度もアキレス腱切ってしまってはさすがに断念だったよね 2度とも復帰はしてるから努力家だったんだろうね

さて次回はいよいよ3代目ミスターと言われる田淵幸一さんの登場だよ!この人はエピソード盛沢山すぎて単独掲載になるよ

背番号22の4へ続く



 


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Last updated  2024年05月28日 08時00分10秒
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