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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号22(その6) 背番号22の第6回目です 今回が最終回 残すところあと4名になりました 田淵さん以来 捕手の番号として定着したかに見える背番号「22」なんだけど ここにきてまた変化してきます 田淵さんがタイガースを出て行って40年経つわけだし 永久欠番になったわけじゃないので「田淵」というイメージが薄れて 近年では藤川球児さんの方がイメージ強いよね 球児さんについては長くなってしまうので近年の時期は簡略にさせてもらって、入団当時や頭角を現したころのことを重点にしたよ それでもやっぱ長いんだけどね 喜田 剛(ごう) 内野手 福岡県福岡市出身で高校は沖学園。父親は元大相撲幕下の佐田の花。少年野球時代は投手だったが高校で外野手に転向し通算32本塁打の強打者となる。福岡大に進むと捕手に転向、明治神宮大会でホームランを放つなど活躍し、大学全日本チームの4番を任される。大学4年時には再び外野手に転向している。大学通算9本塁打、打点王2回、本塁打王1回、ベストナイン3回。 2001(平成13)年のドラフト会議ではタイガースが7位で指名して入団。力士だった父親譲りの体格に恵まれ、入団時の背筋力は200キロ越え、握力も70キロと並外れたパワーを秘めていた。しかし俊足ではなかったことから、すぐにファーストへコンバートされている。ドラフト下位ながら背番号「22」が与えられたのは将来性を期待されてのことだろう。 ルーキーの2002(平成14)年は1軍昇格がなかったが、ウェスタンリーグでは75試合8本塁打と持ち前のパワーを見せた。 2003(平成15)年は星野監督の2年目でリーグ優勝した年で1軍戦力が充実しており、わずか1試合の出場に終わっている。その試合で1打席に立ってプロ初安打を記録した。 しかし翌年以降もウェスタンでは結果を出すも、なかなか1軍に呼ばれないという状況が続く。そんな中で喜田は2004(平成16)年に背番号を「55」に変えている。 実際に2年目以降のウェスタンでの実績を並べてみるとこれで1軍に呼ばれないのか?と不思議に思うほど素晴らしい数字を残している。ファームでは無双の4番バッターだった。 2004年 79試合11本56打点 .290 2005年 86試合21本55打点 2冠王とMVP .303 2006年 82試合14本56打点 2年連続の2冠王 .270 しかしこの4年間で1軍のゲームには合計7試合にしか出ていない。1軍のファーストを見ると、2003年が桧山進次郎、2004年はジョージ・アリアス、2005年~2006年はアンディ・シーツといずれもレギュラーで打線の中核を担う選手が守っており、喜田に出番がないわけだ。ウェスタンでのタイトル獲得は、1軍に上がれなかったことの裏返しの結果なのである。 いくら何でもこれほどファームで力を発揮している選手を5年間で8試合にしか使わないという「飼い殺し」はまずいだろう。 広島に移った年は67試合に起用され、150打数37安打12打点3本塁打を記録している。広島では221試合に出場したが、2010(平成22)年5月17日にオリックスへトレードされ、再び岡田監督と一緒になる。しかしここでもT-岡田の壁に阻まれて1軍は遠かった。同年12月には横浜ベイスターズへトレードされてしまう。 2011(平成13)年、結局横浜での出番はなく戦力外となり、12球団トライアウトを受けたが声がかからず引退した。 プロ通算では239試合409打数102安打46打点9本塁打、打率.249だった。喜田はとてつもない打者になった可能性があり、この結果にはどこか納得できないものがある。 マイク・キンケード 内野手・外野手
2000(平成12)年のシドニー五輪にはアメリカ代表で出場し金メダル獲得。長打はないが広角に打てるほか、投手以外のすべてのポジションが守れるユーティリティプレイヤーとして非常に便利な選手だったようだ。 岡田監督の1年目だった2004(平成16)年にタイガース入り。ホームランでも全力疾走で、ファンからは「キンちゃん走り」と呼ばれ意外な人気ものになっているが出場したのはたった26試合。 打席で向かっていくタイプなのかよけるのが下手なのか、とにかくデッドボールをよくもらう選手だった。基本的にインコースにきてもよけない。故意に当たったとして死球と判定されなかったケースすらある。そもそも4月2日の巨人戦、来日初打席でいきなり上原浩治にぶつけられている。 26試合で12個もの死球を記録している。これは驚異的なハイペースだった。2004年時点の日本記録は1952(昭和27)年に岩本義行が記録した24個(120試合)。2007(平成19)年にオリックスのラロッカがこれを破る28個(136試合)を樹立するが、キンケードのペースを仮に130試合に換算すると60個!になる。これは異常だ。 これだけ死球をもらっては無事でいられるわけがなく、5月11日の巨人戦で左手薬指を骨折して登録抹消。8月に1軍登録されたが、復帰2試合目の守備で負傷しすぐに登録抹消され、結局そのままシーズンを終え、10月17日に退団している。 タイガースでは26試合86打数20安打7打点3本塁打、打率.233という寂しい成績に終わった。 アメリカに戻るとマイナーリーグや独立リーグで2008(平成20)年までプレーして引退している。 藤川球児 投手 藤川は高知県高知市出身。高知商業高校時代の2年生だった1997(平成9)年の夏、外野手兼控え投手として甲子園に出場。 1回戦ではリリーフ登板し、兄順一と兄弟バッテリーを組んで6イニングを無失点に抑え勝利投手になる。 続く2回戦では、優勝候補と言われた京都の平安高校のエース川口知哉と投げ合い、「球児」という名前も手伝って話題になった。試合では10三振を奪う好投を見せながらも0-5で敗退し悔しさのため大泣きしている。3年生ではエースになったが甲子園には出られなかった。 1998(平成10)年のドラフトでは、タイガースは松坂大輔(横浜高)や二岡智弘(近畿大)の獲得を目指すが難航の末に断念、戦略転換を迫られた中で急遽浮上したのが藤川だった。担当の谷本稔スカウトが強く推しており、チーフスカウトの末永正昭もこれに同調して1位指名に至っている。最初の背番号は「30」。かつてなら歴代監督が着けた偉大な番号だ。 入団時はまだ身体が細く体力的に未完成で、球速も140キロをようやく超える程度だったため、1年目の1999(平成11)年はファームでじっくり育てられる。ウェスタンですら夏場以降の3試合しか登板はなく基礎体力の強化に徹した1年だったようだ。 2年目の2000(平成12)年、野村監督が開幕1軍に抜擢し、すべて敗戦処理のリリーフで19試合に投げた。勝敗等に関係はなく、防御率も4.76だったが、22回2/3で25三振を奪っており片鱗は見せている。また藤川はこの年に高校時代から交際していた女性と結婚している。 3年目は右肩の故障により1軍登録されることはなく、ウェスタンで14試合4勝3敗、防御率3.58に終わっており、結婚したばかりでプロでの実績もなく、藤川にとって一番厳しい時期だった。 4年目の2002(平成14)年、星野監督が就任したこの年に藤川は背番号を「92」に変更している。名前の「球児」に掛けたものだったが、一部では失笑を買うものでもあった。しかし高卒は4年目で結果を残さないと次の年には大卒の即戦力が入ってくる。この年に賭ける思いがあったのだろう。 星野監督は中日の監督のころ自軍の2軍選手を見るためファームの試合のビデオをよく見ており、相手チームだった藤川についても「いいものを持っている」と評価していた。タイガースの監督に就任し「高卒4年目ならもう結果が必要だろう」として7月に1軍に上げる。 先発して打者一巡目は三振もしっかりとれるし抑えるが、二巡目以降になると捕まるというパターンを7~8試合繰り返している。 それでも星野監督は「消化試合になる前に勝たせたい」としてあきらめず、9度目の登板となった9月11日のヤクルト戦で、初回真中にソロホームランを浴びるが、8回1安打1失点でプロ初勝利を手にすることができた。星野監督に褒められウィニングボールを渡された藤川は泣いていた。ただしこの年は12試合1勝5敗に終わっている。 5年目の2003(平成15)年は18年ぶりのリーグ優勝を飾った年だ。藤川は開幕1軍を逃し、登録された4月11日の巨人戦の9回7-1から2点を返された場面でリリーフし、仁志にタイムリー、後藤に同点3ランを浴びてしまう。 その後も結果は出ず、5月25日のヤクルト戦でのシーズン初先発も4回4失点KOに終わってファーム行き。再登録されたのは9月14日、翌15日にタイガースは優勝を決めており、藤川は貢献することができなかった。 19日の巨人戦でようやく1勝を挙げたが、結局日本シリーズも登板機会はなく、当時の藤川は「戦力外」も頭をよぎっていたという。 日本シリーズが終了した日に岡田彰布の監督就任が発表され、すぐに行われた編成会議では「藤川は広島やヤクルトからトレードの打診がある」「スタミナがなく肩・肘に不安がある」という資料が岡田の目に留まる。編成サイドは戦力外・トレードを提案したようだ。 しかし岡田は星野から「いいものを持っている。使い方によっては化ける」という話を伝えられており、2軍監督として見ていた目から「短いイニングならいけるやろ」というアイデアを持っていたため、フロントの提案を却下する。藤川のリリーバー、ストッパーとしての道が拓けた瞬間だった。 2004(平成16)年、藤川は1軍の結縄キャンプに抜擢されるが、右肩痛を発症してリタイア。ファームに行ってリハビリしながら悩み、苦しんでいた時、二軍投手コーチに就任したばかりの山口高志が声をかける。 山口は「肩が痛くなるんはフォームに問題がある」と指摘し、やや横振りだった藤川に「まっすぐ叩きつけるように投げてみろ」とアドバイスを送り、山口自身が高校時代に教わり、豪速球を生み出した自らのフォームを伝授してくれた。実際にそのフォームで投げ込んでみても肩の痛みがない。藤川は夏場まで黙々と練習を続けてフォームを固めていった。 7月27日に1軍に上がると28日の中日戦のリリーフで3者連続三振。球速は元のフォームから10キロ以上も速くなり150キロを超えた。「火の玉ストレート」の誕生だった。これで1軍に定着し26試合で2勝0敗、31回を投げ35奪三振 自責点9で防御率2.61という数字を残した。 2005(平成17)年、キンケードが1年で解雇されて空いた背番号「22」を受け継ぐ。藤川は「佐々木主浩さんや高津臣吾さんが付けていた番号で光栄です」と語っており、もう「田淵の番号」ではなくなった。 この年岡田監督は ウィリアムス~藤川~久保田の順を固定したため「JFK」が誕生し、順序が入れ替わっても呼び名は変わっていない。 藤川はセットアッパーとして能力をいかんなく発揮し、リーグ最多の80試合に登板して7勝1敗1セーブ46ホールド。92回1/3で132奪三振は驚異的な数字で、防御率も1.36。最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。 2006(平成18)年もセットアッパーでスタートしたが、6月に久保田が故障で離脱するとストッパーに配置転換される。38試合連続無失点、47回2/3連続無失点と日本記録を塗り替えるなど、「藤川が出てきたら点を取るのは不可能」とあきらめさせる快投を演じている。 この年の成績はすさまじく、63試合登板5勝0敗17セーブ30ホールド、79回1/3で122奪三振、自責点は6で防御率は0.68という信じられない数字を叩き出している。オールスターでは全球ストレートの予告でカブレラを三振に取るなど無敵ぶりを見せつけた。 長くなってきたのでこの辺りからは端的にしていくが、2005年の大ブレイクに始まり2012(平成24)年まで不動のストッパーとして君臨する。 この8年間の防御率は2010(平成22)年の2.01以外はすべて1点台以下。2008(平成20)年は自己最高の0.67を記録しており、この年のWHIPは0.69と素晴らしい成績だった。 こうした実績を積み重ね、長年心の中で温めてきたメジャー挑戦が実現したのが2012(平成24)年オフのことだ。この年の7月に藤川は33歳を迎えることもあり、周囲からは「時期を失したのではないか。今からでは大きな活躍は期待できない」という声も聞こえたが意志はゆるがず、12月2日にシカゴ・カブスと2年契約を締結している。 カブスでは1年目の2013(平成25)年は12試合投げたところで5月にリタイア、6月にトミー・ジョン手術を受けシーズンを棒に振る。 2015(平成27)年はテキサス・レンジャースと契約できたが故障者リスト入りのまま開幕。5月にようやく2試合に登板するも3失点で見切りを着けられて自由契約となり帰国した。 日本に戻ると高知アイランドリーグのファイティングドッグスに入団。当初タイガースへの復帰が期待されたが、故障の状況から球団フロントが受け入れに及び腰だったと言われている。 登板機会がないままシーズンが終わり契約が満了すると、ヤクルトや中日が触手を伸ばしたため、慌てたタイガースは金本監督が直接交渉にあたって復帰にこぎつけている。藤川はふたたび背番号「22」を着けた。 2016(平成28)年、当初は先発として復帰したがうまくいかず5試合で断念。結局セットアッパーやクローザーで晩年の5年間を過ごした。 2020(令和2)年9月1日に引退会見。11月15日の巨人戦が引退試合となった。 タイガースでの通算成績は782試合60勝38敗243セーブ163ホールド、935回1/3を投げて1220奪三振、自責点216防御率2.08である。 獲得タイトルは最優秀救援投手2回(2007年、2011年) 最優秀中継ぎ投手2回(2005年、2006年) 250セーブには足りなかったが、2022年に総合的に入会条件に匹敵するという評価により特別枠で名球会入りしている。 藤川がメジャーへ行った後のタイガースの守護神の役目を担ったのは韓国の剛速球投手オ・スンファンだった。 スンファンもアマチュア時代は苦労している。もともと少年野球から投手だったが高校で肘を壊して外野手に転向し、大学では投手に戻ったがトミー・ジョン手術を受けて大半の期間は投げられない状態だった。 それでも素質を見込んでサムスン・ライオンズが指名しプロ入り。リハビリのために大学時代に投げていないのが幸いして肩肘は消耗しておらず、すぐに実践で結果を出している。 1年目の2005(平成17)年は61試合10勝1敗16セーブ11ホールド。99回で115三振、防御率も1.18と素晴らしく、最優秀新人賞を獲得している。 2013(平成25)年までの韓国における9年間で28勝13敗277セーブ16ホールドの実績を積んだ。ストレートは常時155キロ前後で伸びがある上に重く、「石直球」と呼ばれるほど威力があった。 これほどの投手だけにメジャー志向は当然持っていたが、日本の野球を経験することでワンクッション置きたいとFA権を行使してタイガースへ移籍する。契約期間は2年だった。 2014(平成26)年、藤川が抜けた後を埋める形でストッパーを担うが、キャンプの段階で二段モーションを指摘される。右足を上げたあと下ろすときに一度つま先がチョンと地面につくのが違反投法というのである。 この問題に結論が出るまで思わぬ時間がかかって開幕が迫ってきたが、前年のWBCでも同じフォームで投げて何らの指摘もなかったということで決着がつき無事OKとなった。 この年は64試合で39セーブを挙げて最優秀救援投手。66回1/3で81奪三振も立派で、防御率は1.76だった。 2015(平成27)年になると他球団も研究し、個々のバッターもなれてきたのか被安打が3割ほど増え、逆に奪三振は2割ほど減った。そのためか防御率が2.73と悪くなっている。その代わり投球には老獪さも加わってきて前年を超える41セーブを挙げており2年連続タイトルに輝いている。 予定通り2016(平成28)にメジャー進出。セントルイスカージナルスを皮切りにトロント・ブルージェイズ、コロラド・ロッキーズに在籍。4年間で232試合16勝13敗42セーブ42ホールドという数字を残している。 2020(令和2)年、サムスンに復帰し、41歳になる2023(令和5)年までプレーして引退した。引退年にも30セーブを挙げているのはすごい。 また2021(令和3)年の東京オリンピックにも韓国代表チームの現役投手として来日している。 韓国では通算400セーブを達成。日本とアメリカの分を合わせると通算522セーブという途方もない数字を残した。 まとめ 今回は4人が対象で長くなってごめんね 藤川さんが付けて アメリカに行ってる間はスンファン投手 2016年が空き番になって 2017年から再び藤川さんが着けるのね そして2020年に藤川さんが引退したあとは2024年まで4年間空位となってるよ 次はだれが着けるんだろうね 田淵さんと藤川さんという2人の大物選手が着けただけに 取扱いが難しい番号になっちゃったかな? これで「22」が終わりました 読んでくれたみなさんお疲れ様 次回から「23」ですが 永久欠番ってことはご存じよね 若い人で知らない人が意外に多いのよ・・・ 背番号23へ続く
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