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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号25(その3) 振り返ると球団創設から昭和25年までの約15年間に初代森監督を含め6人が「25」を着けたんだけど 戦争による中断や応召で抜けてるところもあるから一人平均2年くらいの計算になるかな ここまでは長く着けた人がいないね 今回2人目に山本哲也さんを紹介するんだけどこの人が昭和30年代の正捕手として8年間着けます でもまだ10年以上の人は出てこないんだなあ 日下 章 外野手 兵庫県尼崎市出身で甲陽中学、関西大学に進んで左打ちの強打者として4番を務め通算4本塁打の記録が残っている。 1951(昭和26)年タイガースへ入団、背番号「25」を着ける。6年間在籍しているが100試合以上出場しているのは1954(昭和29)年だけで、この年であっても182打席なので、1試合平均2打席立っていない。常時1軍にはいるが、あくまで控え選手で代打や守備要員だったようだ。 1956(昭和31)年のシーズンを最後に解雇されている。藤村排斥事件にかかわったのが原因という説もあるが真相は不明である。 通算成績は6年で346試合477打数116安打36打点8本塁打39盗塁30四球60三振、打率.246だった。 引退後は、父親が県会議員だったことから日下も政界に転じ、尼崎市議に当選し最後は尼崎市議会議長も務めた。2004(平成12)年1月10日、76歳で死去されている。 熊本県熊本市出身で高校は強豪熊本工業。同学年にエース山部儒也(よしや)がおり、同校出身の後藤次男の勧めで獲得に動いた青木スカウトがバッテリーとして入団させている。言わば「山部のついでに獲得した選手」の扱いだった。 1953(昭和28)年にタイガースに入団したときの背番号は「39」で4年間着けている。「25」に変更したのは1957(昭和32)年でそこから引退まで8年間着けた。 入団から4年間は2軍にいるほうが長く、徳網茂(タイガース背番号史 13の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))や石垣一夫の後塵を拝している。 背番号を「25」に変えた1957年が転機で93試合に出場している。エースの小山正明との相性が良かったのも評価されてレギュラー捕手へと近づいた。 山本はリードとキャッチングは優れていたが、打者としては非力で打率も低かった。しかし昭和30年代のタイガースは鉄壁の内野陣や小山・村山に代表される守りのチームだったため山本の存在も貴重だった。 規定打席に到達したシーズンは1度もないが、1958(昭和33)年も87試合、以降も122試合、99試合、107試合、98試合とレギュラー捕手であり続けた。 1959(昭和34)年の「天覧試合」でも捕手を務めており、捕手として目の前で放たれた長嶋のホームランの判定にクレームをつけていない。小山は「山本が抗議しなかったんだからホームランだったんだろう」と振り返っている。 また1963(昭和38)年には、村山がストライクボールの判定に激高して審判に詰め寄った「涙の抗議事件」で、必死に村山を抱きとめて抑えている姿も印象的だ。(タイガース背番号史 11の3(村山実伝説) | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))を参照。
月間タイガースのコラム「本間勝交遊録」で本間さんが当時の山本について述懐しているが、バックネットすれすれのファウルフライを取る名人だった。 「バックネットぎりぎりに上がったファウルフライを追いかけるのは各捕手だれも同じだが、バックネット直前まできてからが山本さんの真骨頂。ポーンと跳び上がってネットに足をかけるや、その勢いで一歩、二歩とよじ登ると、見事にボールをミットにおさめていた。打球が落下してくる場所を見極め、まるで軽業師のような身のこなしは人間業とは思えない。これを見て付いたニックネームが『モンキー山本』まさに、ピッタリ。」 藤本敦士よりずっと以前に元祖「モンキー」がいたわけだが、藤本は「顔」で山本は「身のこなし」がニックネームのもとになっているという違いがある。 1964(昭和39)年を最後に引退。そのままタイガースに残り、2軍バッテリーコーチ、1軍ブルペンコーチなどを歴任、新人の江夏のフォームを改良し、翌年のシーズン401奪三振を達成させたのは有名で、江夏も「江夏豊という投手は、山本さんに育てられたと言っても過言ではない。」と著書に記しているほどだ。 その後フロントに入り、スコアラーやスカウトも務め、最後は業務部次長記録担当で定年まで全うしている。 通算成績は12年854試合1655打数341安打109打点12本塁打29盗塁62四球224三振、打率.206である。 2019年10月13日、85歳で死去。
土屋 正孝 内野手 長野県松本市出身で高校は松本深志高校。高校時代は制球力に定評のある投手だったが、ほかに捕手や内野手もできる万能型の選手。1954(昭和29)年、投手として読売に入団している。 読売では即内野手にコンバートされおもにセカンドを守った。1年目こそ7試合の出場に追わったが、2年目の1956(昭和31)年以降5年間は100試合以上に出場しレギュラーとして活躍している。 1960(昭和35)年のシーズンが終わり、川上哲治が監督に就任すると土居章助とのトレードで国鉄スワローズへ移籍させられてしまう。120試合に出て規定打席もクリアしているにもかかわらずだ。このトレードについては本人が自著「なぜぼくは巨人を追われたか」(ベースボールマガジン社1986年)で書いている。 1961(昭和36)年、国鉄に移って発奮した土屋は全130試合に出場して132安打を放ち、生涯最高の打率.269を記録するなどの大活躍で、国鉄球団史上初のÅクラス3位に躍進する原動力となった。 1962(昭和37)年~1963(昭和38)年も100試合以上に出場してレギュラーを維持している。 ところが1964(昭和39)年オフ、国鉄はサンケイに身売りすることが決まり、60試合の出場にとどまっていた土屋は、経営立て直し策の一環として「高給のわりに貢献度の少ない選手」の第1号に選ばれてしまい、タイガースへトレードされて、引退した山本から背番号「25」を引き継ぐ。 1965(昭和40)年、タイガースでは有力な選手になれず、主に代打や守備要員として52試合しか出場できなかったため同年オフに現役を退いた。 通算成績は11年1097試合3452打数826安打299打点54本塁打154盗塁287四球527三振、打率.239の数字が残る。 プロ入り2年目でレギュラーになるなど野球センスは抜群で、特に守備は軽快。つねに打球の来る場所を想定して守備についており「眠狂四郎」のニックネームでも親しまれた。 1959(昭和34)年と1961(昭和36)年の2度、セカンドでベストナインに輝いた実績を持つ。
まとめ 今回は日下さんが6年 山本さんが8年と 背番号「25」にも落ち着きがでてきたかなとおもったら 3人目の土屋さんでまた1年に戻っちゃいました 日下さんはレギュラーまでは届かなかった感じだけどセンスはいいものを持っていたようね 山本さんは打力はないけど投手を生かすキャッチャーで 昭和の時代はこういうタイプの捕手が多かったみたい だから引退後にはバッテリーコーチとしても成功してるのよね 土屋さんは言っちゃ悪いけど「出がらしのお茶」みたいなもので 他球団で力を出し切った選手が晩年にくるっていうパターンよ タイガースではよくあるわ さて次回第4回は2人の選手だよ 最初が「ふ」の付く人 次に「た」が付く人 誰だか予想してみてください 25の4に続く
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