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タイガース非公式サイト2代目

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2024年09月09日
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背番号25(その5)

背番号25の第5回目です

さあ今回は山本和行投手が登場するよ 17年間「25」を背負い続けた左の名ストッパー ドラフト1位で最初のころは先発投手だったんだけどね

山本さんの後もドラフト1位の左投手が着けてるのよ さて誰でしょう? ネタを明かすと すでに背番号「17」で紹介してますよ

今回はこの2名の投手の紹介にします

 

山本 和行  投手

広島県広島市出身で高校は名門広島商業。2年時の1966(昭和41)年に夏の選手権にエースとして出場したが1回戦敗退。同チームの3年生に三村敏之(元広島監督)がいた。

高校3年時には全国大会に縁がなく、卒業後は亜細亜大学に進み2年時からエースになっている。

1971(昭和46)年の春季リーグではリーグ最多タイの9勝を挙げて優勝に貢献しMVP。大学通算では63試合33勝26敗351奪三振、防御率は1.83という素晴らしい数字を残した。


1971年のドラフト会議ではタイガースが1位指名。山本本人は地元広島が第一志望だったが「巨人以外のセリーグの球団を望んでいます」と語っていたことからすんなり入団を決めている。

普段から多くを語らない山本だが、頑固な一面があり、対巨人の意識は非常に高いものがあった。それを物語るようにプロ初登板、1500投球回数、1000奪三振、100セーブ、100勝、600試合登板、700試合登板(プロ最後の登板)など節目の記録を巨人戦に合わせて達成している。

背番号は行方不明になった高山が着けていた「25」をもらうが、引退するまでの17年間着け続けている。

1年目の1972(昭和47)年は村山現役監督が正念場の3年目を迎えていた。山本はルーキーながら28試合に登板しており、そのうち12試合の先発も務めた。成績は3勝5敗ながら投球回数100回、防御率3.42で完封勝利も記録している。

2年目の1973(昭和48)年には金田正泰監督に代わり、選手との対立などの問題もあってチームがまとまらない中で18試合(8先発)0勝1敗に終わる。翌年も32試合(14先発)6勝8敗1セーブという結果で、先発とリリーフの掛け持ち状態が続いている。


1975(昭和50)年、吉田義男が1期目の監督に就任すると、山本のフォークボールに目を付けスパッとリリーフ専門に配置する。吉田監督はリリーバーや代打の適正を見抜く目効きと決断の面で非常に有能だった。

1975年 49試合 4勝6敗 3セーブ  93回2/3 防御率4.79

1976年 67試合 6勝3敗18セーブ 113回2/3 防御率2.92

1977年 58試合 9勝5敗 9セーブ 130回2/3 防御率3.71

この3年間で先発は14試合しかない。それでも投球回数を見ると非常に多く、1977年は先発が4試合しかないのに規定投球回数に到達している。ロングリリーフが当たり前の時代だったことをあらわす数字だろう。

1978(昭和53)年に後藤監督が就任すると、先発投手の絶対数の不足という台所事情から山本を先発へ配置転換。

しかし翌1979(昭和54)年のブレイザー監督になるとリリーバーが主体になり、1980(昭和55)年~1981(昭和56)年の中西監督の時にはまた先発に戻されるが、2年続けて200イニング以上を投げ、15勝、12勝を挙げてエース級の活躍だった。

チーム事情があるにせよ酷な使われ方をされるなかで淡々と仕事をこなし結果でも貢献しているのは素晴らしいことだ。

1982(昭和57)年に安藤統男監督が就任すると、またもやリリーフに配置換えされる。しかしこの3年間の数字がまた立派だった。

1982年 63試合15勝8敗26セーブ 141回2/3 防御率2.41

1983年 45試合 5勝9敗 8セーブ  72回    防御率4.00

1984年 52試合10勝8敗24セーブ  83回2/3 防御率3.55

 ひじや肩の故障が少ない山本が1983年の成績が落ちているのはだれが見ても勤続疲労によるものとわかる。これは同情すべきで1982年と1984年は最優秀救援投手のタイトルを獲得している。こういう隔年現象は投手にありがちなことだ。

 この成績を見たドジャースからオフに声がかかり、山本もメジャー行きに本気になってしまうが、FA制度もポスティングシステムもない時代で球団も手放す気はなく話だけに終わっている。実際にドジャースは住居も決め背番号「25」も用意していたというから驚きだ。


 1985(昭和60)年、吉田監督が2度目の就任。第一次同様、山本をリリーフ専門で使っている。明らかに先発より特性があると見込んでいたのと、当時のタイガースにはフォークで三振が取れるほかの左投手がいなかったこともある。

 4月17日のバックスクリーン3連発をきっかけに「打撃」が注目されるようになったが、優勝するうえで接戦もしぶとくモノにしており、その最後を締めていたのが山本だった。

 8月のロードを5割でしのぎ、いよいよ優勝争いの終盤に差し掛かった9月4日のナゴヤ球場、試合前の練習中に左足アキレス腱断裂により戦線を離脱することになる。全く無念というほかない。

 山本を欠いてリリーバーの福間、中西が奮起し、調子を上げた打線に引っ張られて9月は13勝5敗1分で広島と巨人を振り切って、19年ぶりの優勝ができたのは本当に良かった。
 祝勝会にも入り(左から2人目)喜びを共にしている。


 日本シリーズにも登板できなかった山本だが、日本一が決まるとチームメイトに胴上げされて感慨に浸ることができた。


 1986(昭和61)年にはアキレス腱断裂から復活して11勝3敗15セーブ、防御率1.67の好成績を挙げる。

 しかし1987(昭和62)年になると急にボールのキレがなくなって防御率4点台に急降下してしまう。


さらに1988(昭和63)年には0セーブ、4試合に先発しているがこちらも結果は芳しくなく0勝3敗、防御率は屈辱的な6点台になって現役を退いている。

月間タイガースの本間勝さんのコラムでは、投球に対する山本独自の考えについて次のように回想している。

『一塁が空いているなら、自分がいやだと思うバッターは歩かせていい』それが逆転となる走者であってもいいという。すべてが計算通り。理詰めで攻めていくピッチングは、きっちりした性格そのまま。見ていて気持ちいいし、圧巻だった。』

引退後は古里の球団で愛着のある広島カープで4年間投手コーチも務めている。

山本の通算成績は700試合116勝106敗130セーブ、1817回2/3、451四球1252奪三振、自責点739防御率3.66だった。

猪俣 隆 投手

  猪俣については背番号「17-4」で紹介済みだが再掲する。ルーキーから2年間が「17」。引退した山本から「25」を譲られ3年目から9年間着けている。

 新潟県長岡市出身で東京の堀越高校に進む。高校時代は予選ベスト4が最高だったが法政大に進学して大きく進化する。

大学1年の春新人戦でいきなりノーヒットノーランを達成して驚かせ、大学4年間で4度の優勝を経験している。リーグ戦通算で43試合に登板し、20勝7敗、防御率1.87、180奪三振の好成績を挙げ、2年続けて日米大学野球の代表入りするなど、文句なしのドラフト1位候補になった。

1986(昭和61)年のドラフト会議でタイガースに1位指名されて入団し、源五郎丸が着けていた「17」を継承する。


186センチの長身から投げ下ろすストレートも好かったが、得意球は揺れながら落ちる落差の大きなナックルで、三振を奪うウィニングショットに使っていた。

1年目の1987(昭和62)年はルーキーながら即戦力のローテーション投手として期待されて22試合のうち14試合が先発だった。しかし内容的には5勝7敗とパッとせず、2年目の1988(昭和63)年には右けい肩腕症候群を発症して一度も一軍登録されずに終わっている。

源五郎丸が壊れてしまったことに続き猪俣の故障もあって「17」は縁起が悪い番号という印象になってきたため、1989(平成元)年に引退した山本和行の背番号「25」を引き継いだうえでブルペンに配置換えして気分一新を図っている。この年は一軍で54試合に登板して4勝6敗3セーブの数字を残す。


 しかしその後も故障が多く1990(平成2)年は先発に戻り23試合5勝11敗。1991(平成3)年が27試合9勝13敗、1992(平成4)年は14試合5勝5敗と、どうしても勝ち越せない。

 1992(平成4)年がキャリアハイで、27試合すべて先発して11勝12敗とプロ生活で唯一の二けた勝利を挙げたものの、やはり負け越している。

 1994(平成6)年以降も故障に悩まされ続け、1997(平成9)年には一度も一軍と登録がないまま10月に戦力外通告、自由契約選手となってしまった。

 ここで中日が救いの手を差し伸べて入団するが、在籍2年間で1度も一軍での登板機会はなく、1999(平成11)年を最後にプロ生活を終えている。

 先発タイプで、立ち上がりのエンジンのかかりが悪いのが欠点。これさえ上手く切り抜ければすいすい完投してしまう力があった投手だが故障には勝てなかった。

 通算成績は191試合43勝63敗3セーブ623奪三振、807回1/3で自責点330、防御率3.68である。
 
​​引退後は寿司職人に。写真もあった。

​​

まとめ

山本さんは優勝した1985年に欠かせないメンバーの一人だった アキレス腱のけがは不本意だし悔しかったとおもうよ

スピードはないけどキレのあるストレートに加え まったく同じフォームから投げる途中で握り替えるフォークを駆使して三振が取れるから抑え向きだったのね

バッティングでもエピソードがあって、先発した試合で自分で満塁ホームラン打って、同じ試合で満塁ホームランを打たれたことがあるそうよ(1981年6月23日 対広島)

猪俣さんは「勝ち越せない男」 こういう投手ってプロ野球にはしばしばいるよね それがまたケガのせいで満足に投げたシーズンが無いのよ

ストレートに力があるし 絶対的決め球のナックルを持ってて三振が取れる投手だったようだけど 故障に泣いたんだね 

25の6に続く
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Last updated  2024年09月09日 16時00分09秒
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