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タイガース非公式サイト2代目

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ヒロくん2010@ Re:タイガース背番号史 27-2(11/18) おはようございます😃 快晴の青空が広がっ…
ヒロくん2010@ Re:タイガース背番号史 27-1(11/17) おはようございます😃 少し雲はありますが…
マリー@ Re:大山さん 国内FA権行使!T×Gの争奪戦か(11/14) 大山さんが出ていくのは困ります。まして…
ヒロくん2010@ Re:タイガース背番号史 26-7(11/09) おはようございます😃 朝から快晴の青空が…

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2024年11月18日
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背番号27(その2)

背番号27の第2回目です

今回は手抜きじゃないけど3名のうち2名は再登場 残り1名はわずか1年2試合出場で退団してるので ほぼコピペで終わっちゃいました

以前のを読んでない方にはちょうどいい機会かもね 読んだことがある人も「またか」なんて言わないで目を通して頂戴よね

高山泰夫 外野手・内野手(再再掲)

​ 高山は背番号「8」「25」で紹介済みだが全文を再掲する。

 岐阜県出身で旧制岐阜商業(現県岐阜商)では1939(昭和14)年の選抜大会に補欠で出場し準優勝を経験する。

翌1940(昭和15)年にも選抜大会に出ている。この時も控え選手だったがで3打数3安打を記録してチームの優勝に貢献しいる。なかでも決勝戦では同点の8回に代打で登場して決勝点をたたき出しており、一躍優勝の立役者となって当時の「美技賞」を獲得している。

さらに1941(昭和16)年の選抜にも出場。この年はファーストのレギュラーでベスト4まで進んだが連続優勝は逃した。

 1942(昭和17)年にタイガース入団、背番号25。この年は18試合に出ているが20打数2安打で打率.100で終わっている。

 1943(昭和18)年はわずか9試合という数字しか残っていないが、シーズン中に軍の招集にあい、終戦まで戻れなかった。

 1946(昭和21)年にタイガースへ復帰。41試合で77打数21安打9打点1本塁打、打率.273という成績を残す。

タイガースに戻ってくると背番号「25」はすでに松本太が着けていた。仕方なく空いていた「8」でプレーしていたが、同年山口政信が復帰してくると戦前から着けていた「8」を希望したため譲り、高山はまた空いていた「27」へ変更するという「背番号の玉突き」があった。

 事情は定かではないが、1947(昭和22)年は出場がなくそのまま退団している。引退後は社会人東洋産業。

 通算成績は68試合108打数25安打13打点2本塁打2盗塁14四球21三振、打率.231だった。

東野真弓(とうのまゆみ) 捕手

 京都府出身で旧制同志社中学。

1948(昭和23)年に大阪タイガースへ入団している。前年で退団した高山が着けていた「27」を受け継いだが、わずか2試合に出場しただけでシーズン中に突如退団してしまう。当時は土井垣武が正捕手として君臨しており、出番がないことであきらめたのかもしれない。

 退団後は社会人野球に転身して全福島日東紡に入り大生相互銀行や電電東京など移籍しながら活躍した。

 プロでの成績は1年2試合1打数0安打0打点、打率.000である。

白坂長栄(しらさかちょうえい) 内野手(再掲)

白坂は背番号「17」で紹介済みだが全文を再掲する。なお1948(昭和23)年11月の入団だったためその年の途中で退団した東野の着けていた「27」を1ヶ月だけつけたのでここに記録が残る。

背番号「17」は、渡辺が大陽に移籍した翌年の1948(昭和23)年は1年間空き番となった。1949(昭和24)年には復帰した門前が再び着けたが1年で広島に移籍。1950(昭和25)年から受け継いだのが白坂長栄である。

白坂は岩手県一戸町の出身。旧制福岡中学から先代鉄道局に進み遊撃手としてプレーし、応召されたのち盛岡管理局に復帰して社会人として活躍する。

1947(昭和22)年には全国鉄道大会で優勝、都市対抗にも出場し名前を知られるようになる。

1948(昭和23)年、タイガースの若林忠志監督が札幌遠征の途中に盛岡へ立ち寄って熱心に説得し、シーズン途中での入団が決まる。この年に着けた背番号は「27」だった。ただしこの年は1試合しか一軍での出場はない。

1949(昭和24)年、背番号を「26」に変え、遊撃手として73試合182打数39安打12打点の成績を残す。なお、この年には投手として8試合の登板記録があるが0勝2敗だった。

3年目の1950(昭和25)年に、前出の渡部の移籍後1年間空き番だった背番号「17」を引き継いで139試合に出場しており、この年から3年間ショートのレギュラー選手になっている。


1953(昭和28)年に吉田義男が入団してきたためセカンドにコンバートされるが、ここでも守備については一流で、吉田との二遊間コンビは息もあっており鉄壁と言われるほどだった。

1950年から1957(昭和32)年まで8年連続100試合以上に出場しており、打撃より守備でチームを支えている。ただし、飛ぶボールが採用された1950年には生涯唯一の二けた18本塁打を記録したことがある。

1958(昭和33)年には背番号を「1」に変えている。この年はのちに名手と呼ばれる鎌田実がショートからセカンドにコンバートされてくると、これに譲る形で出場が急激に減って、翌1959(昭和34)年は一軍の試合に出ることなく引退している。

引退後はタイガースでスコアラーを務めたのち二軍監督も歴任した。

まとめ

はい 今回はまとめようもありません 再掲の2名は別にして東野さんなんだけど まあ土井垣さんがいたからね レギュラーどころじゃなく出番が見込めないからかな すんなりやめちゃってるし 何らかの記述等も写真も見つからないよ 
 今回はこれまで!

背番号27―3につづく

 

 


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Last updated  2024年11月18日 16時51分20秒
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