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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2024年07月30日
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カテゴリ:神秘体験空間
ようやく巷の雑用にも収拾がついてきた。親戚づきあいほど煩わしいものはない。葬式は何度か経験しているが、死者に死をわからせるよりも、死者が生きているうちに、死者に言っておくべき、やっておくべきだった想いのほうが、生者に多く残っているのに改めて気づかされた。亡くなってから、気が付くという不思議さである。いなくなってみて、はじめて死者の存在感がわかる。霊能者なら話は別なのかもしれない。

人智学の輪廻転生論でも、家族や親戚は、同じ人間関係のグループとして、何度も転生しているのがわかっている。以前紹介したペスタロッチの輪廻転生でもわかるだろう。それだけ身近な関係なので、自分がしてきた行為を次の転生で、される身近な存在といえるわけで、いわばブーメランを投げやすく受けやすい相手といえるかもしれない。例えば、前世の人生の半ば35歳辺りで出会う親しく良い関係にあった相手が、次の転生で親になり、はじめに出逢う人間関係と、シュタイナーは述べている。

この輪廻転生の法則からすれば、人生の半ばが最も自分という存在の、いわば自我の完成期であり、自分という山の頂上で出会った人が、自分を最もよく知り、より親しい人物となるわけで、だからこそ、次の転生では、その自分を改めて新しくつくる土台の人間関係となるわけなんである。だから、端的にいえば、前世で自分を良く知っていた人物が親となるわけなんである。

だから、最も自分というカルマを背負ってくれた相手ともいえるかもしれない。だから、親がいなければ、自分という存在もいないわけで、それが現代物質科学では錯誤されて遺伝として捉えられているが、正確にいえば、自分の良き理解者なのである。だから、性格もある程度似て来るし、特に仕草などが前世から持ち越されるのである。現世で自分となるために、前世で親を選んでいる、といえるかもしれない。

カルマを金銭で譬えるのは邪道だが、わかりやすくいえば、人生半ばで、自分という大きな金銭を与えた相手が、今度は、その金銭を返すために、親になって、自分という負債を返す、というようなものかもしれない。また以前に紹介したぺスタロッチの転生でもわかるが、前世の奴隷へのパワハラのカルマを解消するために、パワハラ上司が親ではなく、配偶者になることもある。

だから、簡単にいえば、カルマの負債を返しやすい関係が、親戚といえるかもしれない。いずれにしろ、家族や親戚はカルマの負債を愛で返済する人間関係の基本といえるだろう。だから、家族は愛を育成する土台的な舞台といえるかもしれない。

シンクロニシティというか、丁度、放送大学で民法から家族関係を考える授業を放送していたので、少し紹介してみる。平均寿命の変化から、家族関係を知るために、昭和22年が例として出され、比べると、当時は平均寿命が男女とも50歳代で、人生50年といわれた時代なのがわかる。令和では30年も延びて、80歳代になって、もはや人生100年時代といわれていることになる。それだけ霊魂が、覚醒意識での人生に馴れて、物質界に適合してきたともいえるかもしれない。

家族政策研究(21)|放送大学 (ouj.ac.jp)

放送大学「人生100年時代の家族と法('23)」(テレビ授業科目案内) (youtube.com)


家族のモデルケースを探るために、漫画アニメのサザエさんが昭和44年からの放送なので、当時の平均寿命を調べると、69歳になっている。昭和22年から、20年経って、20歳も寿命が延びているので、1年に1歳寿命が延びてきたといえる。人智学的にいえば、エーテル体が、物質体によく浸透できるようになったといえるかもしれない。エーテル体の肉体の制御が進化してきたといえる。そしてまた、自我が自由な愛へと個性的になってきた、といえるかもしれない。

サザエさん (テレビアニメ) - Wikipedia

第2表 平均寿命の推移 (mhlw.go.jp)

ャラクター紹介【サザエさん一家】 | サザエさん - 公式ホームページ (sazaesan.jp)


サザエさんの家族をモデルに考えてみると、勿論、放送大学の授業では取り上げていないが、昭和44年当時の平均寿命が約70歳なので、磯野波平は禿げているが、白髪ではないので、当時の54歳のルックス代表といえるだろう。令和でいうなら、平均寿命80歳代で、10歳寿命が延びているので、64歳辺りかもしれない。ちなみにサザエが、24歳の設定なので、あの髪形もあるが、幾分老けてみえるので、現代でいえば、10歳増しで、34歳辺りのルックスといえるかもしれない。

しかし、カツオやワカメ、タラちゃんの、子どもたちは、カツオが11歳で、ワカメが9歳で、タラちゃんが3歳の設定なので、現代と比較すると、全般的に少し幼くみえるかもしれない。サザエさんのほのぼのとしたエピソードのせいかもしれないが、家族モデルでよく比較される、クレヨンしんちゃんの、ませた幼稚園児の設定と比べると、しんちゃんのほうが、裸芸を除けば、カツオよりもませてみえ、年上にみえてしまう。ちなみに、しんちゃんの父の野原ひろしは、35歳で、母のみさえは、29歳で、長男がしんちゃんで、5歳なので、24歳に初産という設定になる。

クレヨンしんちゃん (アニメ) - Wikipedia

クレヨンしんちゃん登場人物の年齢設定まとめ | 漫画とアニメ情報局 (manga-manga.site)

クレヨンしんちゃんは、1990年の平成2年からの漫画アニメなので、サザエさんが昭和の二世帯家族のモデルケースで、しんちゃんは、平成の核家族のモデルケースなのがわかる。サザエさんは、昭和の二世帯家族にしては、平均寿命から考えると、波平―フグが、54歳-50歳で、子ども3人で、ワカメが9歳で、フグが41歳の高齢出産で産まれたケースで、すでにやや高齢少子化気味の設定なのがわかる。

もうすでに昭和44年の漫画アニメから高齢少子化の未来が暗示されているのに驚かされる。漫画アニメの世界は、将来の予言でもあり、これは驚くべきことで、年齢をとらないアニメなのに、波平―フグが、二世帯家族という割と子育てに恵まれた環境にありながら、子どもが少ないのは作者の画力不足やキャラ設定の怠慢だけでないのがわかる。

もしかすると、サザエさんの作者長谷川町子氏が子どもを描きたくなかったのか、同時代の漫画アニメの、巨人の星の貧困父子家庭でさえ、明子と飛雄馬の2人を産んでいる設定で、ましてや左門豊作の6人兄弟設定から考えると、サザエさんはあまりにも、そのルックスさながら、高齢少子化漫画アニメになってしまうわけなんである。

スポコン漫画の設定に子沢山環境はドラマ性を生むのも確かだが、子沢山イメージの昭和なのに子どもが少ない磯野家に比べて、クレヨンしんちゃんの野原家は、ひまわりという2人目が産まれて平成の核家族としては何とか少子化は免れたといえるかもしれない。実際、少子化は平成になってなんとか踏みとどまってもいる。



漫画アニメなのに、高齢少子化という設定がもしかすると、リアルな高齢少子化を招いているのかもしれないと、漫画アニメに家族モデルを求めながら浮かび上がってきた、リアル日本の家族形態なんである。おそ松くんのような、子沢山設定も漫画ではいくらでも可能なのに、なぜそのような家族モデルが、生まれなかったのか、不思議でもある。

人間のリアルな世界ではないが、ウルトラ6兄弟や戦隊モノは5人以上で、サイボーグ009などロボットの世界では、多産兄弟なのに、9人兄弟や11人兄弟で1チームをつくるスポ魂アニメだってつくれたはずなのだが、それではあまりにファンタジーすぎるのか、高齢少子化を脱するには、まずは漫画アニメのなかでの家族形態から変化しないといけないのではないか、と思ったわけなんである。

北斗の拳だって一子相伝といいながら、3~5人兄弟の設定だから、そもそも2人以上でないとドラマ性もないのだが、10人兄弟でもいいのに、なぜ中途半端な人数なんだろう。子育てが大変な世界を描きたかったのか? そういえば一時期、子沢山家族が地上波で持て囃されたこともあった。漫画なら100人だって可能なのに、キャラ設定が大変なのだろうか? 大変でも5人くらいは欲しいものである。

おそ松さん - Wikipedia

北斗の拳 - Wikipedia


放送大学の番組から、話がかなり逸れてしまったが、「人生100年時代を乗り切るための標語」として、自助(自分と家族)、共助(地域社会)、公助(国や自治体)が挙げられている。これら3つの標語が高齢少子化のカギとなるだろう。キリストは、特に、自助の、天は、自ら助ける者を助ける、を強調しているが、それは、自我をどれだけ自由な愛へと進化させたか、が問われるわけで、その舞台が、家族となるのがわかる。

その番組でも、「幸福な家族には法律は不要、不幸な家族には法律が必要」と紹介していたが、何が幸福かといえば、結局のところ、自分という存在が、自由な愛を行うことで、万人に認められることではないかと思われる。それはつまり、宇宙の、自由な愛への進化と連動し、絶えず変化し続けることではないか、と思われる。自分を愛で形作りながら、常に愛を自由へと解消していく、生と死の繰り返し、のように思われる。

所詮、法律とは、自分と他者とに境界を設けるものにすぎない。法律は最低限度の物質的な視野にすぎない。自分という枠を当てはめる肉体であって、地上の土地なのである。自分という枠の法律の設定よりも、自分から生まれる行為の、幸福な道を探るべきである。

自分の生き方が万人に認められるのが幸福の道である。それにはまず自分の生き方を真剣に考える必要がある。自分を良く知る必要がある。古代ギリシア時代での哲学は、汝自身を知れ、だった。汝の自身の生き方を通じて、宇宙の進化を知れだった。というのも、人間は、宇宙の大宇宙に対して、照応する小宇宙だからである。

孔子は、「まだ生を知らない、ましてや死を知り得ようか」という名言を残しているが、それはまだ、孔子の時代には、現代のように、個人の自我がなく、動物のような集合自我の、民族のなかでの死しかなかったためである。現代人のように、エーテルが肉体のなかにあまり浸透していなかったから、個人という意識も希薄だったので、いわば自己犠牲という概念もなく、それは当たり前だった。

動物の世界では、種の存続のために、弱者がその手足となって犠牲となる。動物の擬態は、エーテルの肉体からの撤収ともいえる。エーテルが撤収した部位は単なる物質と化し、腫瘍となるように、動物種の一部は、化石となる。だから、動物には、種が存続する限り、死がない。現代の特に、仏教の葬式の概念も、この集合自我を基にした、死の概念しかないのに、気づかされた。先祖の墓に入ることに、その名残りを感じた。そこに個人的な死はなく、動物種のような祖先の繁栄と寺の維持しかない。

勿論、故人を偲んで親族が集会を開くのは遺族にとって、現世を生きる糧となるので、大変意味をもつ。しかし、いつまでも、親族のなかの一員という意識では、個人的な生に目覚めることはないだろう。動物と人間は進化目的が異なるからである。人間には、個人的に生きる権利の、基本的人権がある。

象や馬を、人間は個体のようにみているが、勿論、群れから切り離されて、人間に家畜化された動物には、人間により個人的な自我が教化されるので、個人的な意識により死が生まれるが、群れのなかの動物は、種という大きなエーテル体のなかの一部が肉体となっているので、エーテルが撤収し、肉体が切り離されて、物質化され、それが固体の死のような自己犠牲にみえるだけである。いわば、人間の手足の爪を切るのと同じである。だから、動物には、人間のような、個人的な生もない。

人間だけが、個人的に生きれるわけで、その個人も、現世の物質界で、物質体という肉体を制御しながら生きる間だけなんである。家族から与えられた愛を基盤に、愛から自己をつくり、そしてその自己から周囲を幸せにするのが、現世での個人の人生なのである。個人として生きれるのは、この人生のこの瞬間の生でしかない。これら周囲から与えられた愛からなる自己の存在は、この人生でのみ意味をもち、この人生でしか働き得ない自己なのである。だから、自分を生き切るのが、現世での自分の役割である。

カルマとして与えられた自分の役割を全うして、自分に徹するのが、現世での最高の自分に与えられた幸福なのである。自分で居られるのは、この人生でしかない。この人生を終えた時に、自分はもはや自分ではなくなるからで、自分を超える新しい自分を次の転生につなげていくには、死後に、どれだけ自分を捨て去れるか、自分を諦められるか、にある。それには今一生懸命に自分に正直に自分を生きるしかない。

自分とは何か旅に出る必要はなく、既に自分の人生そのものがその旅なのである。

自分の人生は楽しかったなと思えるかどうか、それは死後の自分を捨てたときの、楽しみだからである。

自分の生と死をみつけるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

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ソロヴィヨフのような人物からわかるように、東欧は、西欧や中欧とは、全く異なっている!

では、人智学の目的とは何か? 人智学により育成すべきものを振り返り、比べてみる。その目的と方向性とは何か。人智学的な知識から、この世界には、意味と目的があるのを認識し、そしてまた、この世界は悪と退廃のみに満たされているのではない、と認識することこそ、我々人智学徒の望みであり、目標である。

つまり、霊的な直感的知識を通じて、この世界には意味がある、のを実感するのが、人智学の目的である。

このような実感により、我々人智学徒は、キリストを実体験するための準備をしている。これら全てを、勿論、贈り物として、恩寵として、受容し、生きているキリストを包括的に理解するのを望んでいる。

人智学徒は、キリストの、「私はいつも、世の終わりに至るまで、貴方がたと共にいる。」という言葉の重さを実感している。キリストは、実際に休む事なく、我々人類への約束全てを遂行している。

キリストは、福音書を通じてのみ語っているわけではない。キリストは、いまも、我々人類の魂の内側から、善への意志として、語りかけている。この事実こそが、キリストが「私はいつも、世の終わりに至るまでも、貴方がたと共にいる。」という言葉の意味である。

実際、キリストは、いまも生き、常に人類の善の意志として見出せる。我々人類の進化は、キリストの使徒として生き、キリストを、我々の心の中に受け入れることにある。

「私ではなく、私の中のキリスト!」

聖パウロの言葉のなかでも、この言葉が、最も意味深い。「私ではなく、私の中のキリスト。」 この言葉から、人類は、善の意志を実体験する。人類がどこに向かうとも、常に善は、この世の意味と目的を啓示する。

ファウストは、次のような言葉を、自らの哲学で翻訳し、同じ真理を表出した。

崇高な霊よ、汝は、私が祈り望んだものすべてを与えてくれた。
汝が火中において、汝の相貌を、私に見せてくれたのも、無駄ではなかった。
汝は、私に大自然を大いなる世界として与え、それを感じ楽しむ力をも授けてくれた。
汝は、ただ冷たく困惑した知を産むばかりでなく、
素晴らしいことに、自然の最も深い胸に抱かれて、
私を、友人の胸のうちにあるかのように、眺める。
汝は、生きたものたちの序列を導いて、私の前を通らせ、
風と水と静かな森の中にいる、私の兄弟たちを私に教えてくれる。
森に嵐が咆吼し逆巻くとき、樅の巨木は隣の大枝を押し倒し、
隣の幹たちをうちひしぎ砕き倒れるとき、うつろな雷鳴が丘に満ちる。
そのとき、汝は私を安全な洞窟に導いて、私に私自身の自己を見せてくれる、
そして私の胸の中で深い神秘の奇蹟が展開する。

これらの言葉は、霊的な、外界と内界についての理解や、霊的な、宇宙の目的への理解や、霊的な、死の意味の理解を、暗示している。死が、ある生から、また別の生への通路にすぎない、のを実体験するのを、示唆している。

いまも生きるキリストを実感したいために、我々人智学徒は、死や復活を通して、キリストを追いかける。そして、東欧の知識人が考える、民族的な、集合魂による再生を、我々人類の出発点とは見なさない。

西欧や中欧の人々は、キリストに従い、キリストの霊感を、各個人に流れ込ませ、キリストを個人の自由な愛への想像力のなかに招き入れる。そして、各個人が、死に至るまで、キリストを追いかける。

Ex Deo Nascimur 「神から生まれた」と唱えるだけでなく、In Christo Morimur 「キリストのなかで死ぬ」と唱え、キリストの善意に従う。

この世界をくまなく調べ、この世界そのものが聖書であり、この世界を通じて、神が、自我のなかから神性を表出するのを知る。神の自我の、霊性の織り成す力を経験し、それを理解しようとする。

だから、西欧の人々は、東欧の知識人の、「もし、神がこの世界に生まれるなら、神の自己同一性を確立する文書を必要とする」には賛同できない。そうではなく、むしろ、神を、自然の至るところに、そして人々の魂の中に、善意として、自由な愛として、見つけるべきなのである。

だから、このポスト・アトランティス時代の第5文化期は、人智学グループのなかで発達育成すべき、友愛からなる善意を必要とする。それは、いま、我々人類の頭上で、まだ羽ばたいている、高次のヒエラルキーの天使たちにより、卵のように大切に育成されている。

地上へと降臨させるために、霊的オーラを意識的に、地上で育成する必要がある。それは、来るべき、第6文化期に転生し、生きるとき、人々の魂に流れ込むものだからである。





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Last updated  2024年07月31日 10時42分50秒
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