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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2024年08月01日
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カテゴリ:神秘体験空間
飲酒をする坊主は信用できない。飲酒をすると、前世がみえなくなると、シュタイナーは述べているし、現代人のほとんどが前世がみえないから、その損失に気づいていないだけで、霊能力を重んじる仏教では飲酒は禁止なはずである。前世をそれほど知りたいとは思わないが、人智学を学んでいる立場上、できるだけ禁酒を心掛けている。これまで付き合いで散々飲んできたし、確かにその場は気持ちがいいが、年齢と共に、次の日に疲労感が残るのは確かだからである。アルコールが害にならないのは、肝臓がせっせと解毒しているお蔭であるが、肝臓にも限界がある。

また、昭和の飲み会といえば、結局は酔ったもの勝ちで、シラフだと、外見や弱点を餌に、絡まれた挙句にツマラナイ話や説教を、壊れたラジカセのように繰り返し聞かされるので、付き合うだけでもかなり迷惑な話で飲んで記憶を無くした方が悪口の遺恨を残さずに済む。迷惑な酒飲みほど本人に自覚がないのが問題である。職場の飲み会ほどつまらなく迷惑なものはなかった。現場のガス抜きのためにやるのだろうが、ガスが抜けるのは上の人たちばかりで不公平だった。喧嘩沙汰になる部署もあったほどである。

令和の若者は我慢せずに嫌いなことをはっきり嫌いと言えるのは素晴らしい。昭和の若者が翌日からの対人関係を考慮してある程度の付き合いとして我慢し犠牲にしてしまうのは長い目でみると結局蟠りが溜まりストレスとなってよくなかった。コロナで飲み会が禁止になるのは良い事だと思う。それに、少子化の時代にあっては、職場よりも、家族が優先される時代なんである。昭和の家庭を顧みない職場一辺倒が、現在の令和の高齢少子化を招いているからである。酒が入って仲良くなっても悪酔いの関係でしかない。酒が入れば判断力が鈍る。酒が入らないとできない会議など本来必要ないものである。

No.18 仏教とお酒|大乗寺 (note.com)

不飲酒戒 -なぜ酒を飲んではいけないのか VIVEKA. For All Buddhist Studies.


人智学的な視点から、仏教の戒律をみると、お釈迦さんが悟りを開くために必要な心得であるのが、つまり霊能者になるための必要事項なのがよくわかる。飲酒は、前世をみえなくし、現世だけが、つまり、今の自分だけが全てだと、いわば競走馬にブリンカーをかけ、視野を狭める働きをするという。

アルコールには、防腐の、殺菌の、いわゆる保存作用があるが、血中でのアルコールは、この保存作用のために、血液を一時的に滞らせるので、血液の新陳代謝を停滞させ、造血作用を怠惰にしてしまうために、男性には白血球への造血作用を麻痺させ、女性には赤血球への造血作用を麻痺させる。だから、男性は感染症に罹りやすくなり、女性は貧血になりやすくなる。賢く、健康な子どもを求めるのなら、禁酒すべきである。

キリストがワインを勧めたのは、当時の人々が、民族霊を通じてルシファーに傾いていたためと、人智学では解き明かされている。当時の人々は、今の動物に近い集合魂の支配下にあり、個人的な自我にまだ目覚めはじめたばかりだったからである。集合魂がルシファーの影響で獣化していた。だから、当時の人々は半分霊能者だったが、高次の聖霊ではなく、ルシファーのような低次の堕天使が見れ、いわば悪魔を教師として従うしかなかった現状にあった。

キリストが降臨したローマ時代は、人智学では、感覚魂から悟性魂への育成段階にあった。個人的な自我を育成し、悟性魂を発達させる時代である。人間には人種や民族の、血を超えていく、新しい自由な愛への個人的なキリストの友愛の血が必要な時代だったのである。だから、キリストは、ユダヤの王と呼ばれた。ユダヤとは、神に従う僕で、人類に新しい契約を、自由な愛を与える神の使徒である。

【シュタイナー】魂の三位一体構造について~感覚魂・悟性魂・意識魂~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)

 

だから、キリストは、ローマ人のような獣化した集合魂から、人々を解放するために、つまり、個人的な自我を目覚めさせるために、キリストの肉であるパンと、血であるワインを振る舞ったわけで、パンは肉体から自己をつくることで、ワインは、個人的自我をつくることで、最後の晩餐とは、人々が、人種や民族を超えて、個人的に自由に交流するのを、キリストが認め、そして、その個人的な自由から、キリストの神に従うのか、それとも、裏切りモノのユダの悪魔に従うのか、は、個人的な人生である、最後の晩餐での振る舞いによるという暗示が隠されているわけなんである。

実際にローマ帝国は、キリストを裏切ったユダが転生したアウグスティヌスにより、キリスト教国化されて、キリスト教徒により滅ぼされたわけなんである。全てキリストの進化計画通りである。

つまり、人類に自由を与えたルシファーから、人類を個人的に解放し、救うために、キリストは太陽からやってきたというわけなんである。だから、当時の人々にとっては、ルシファーから解放されるためには、ワインというアルコールは、毒ではなく、クスリとなったわけなんである。現代風にいえば、幽霊や怪物や妖怪などの幻想をみないための、ドーパミン過多による統合失調症を緩和させるクスリだったわけである。

統合失調症について | メディカルノート (medicalnote.jp)

現代でも統合失調症に対してドーパミンを抑制する抗精神病薬を投与するように、アルコールを摂取したわけなんである。しかし、パラケルススの箴言の、「全てのモノは毒であり、服用量によりクスリとなる」のように、抗精神病薬も飲み過ぎると、今度はドーパミンが不足して、パーキンソン病になってしまうのと同じで、アルコールを摂取しすぎると、宇宙の進化から切り離されて、ルシファーではなく、今度はアーリマンの餌食になってしまうわけなんである。

抗精神病薬を飲み過ぎてパーキンソン病になってしまうのと同じように、現代人に認知症が多発しているのも、アルコール摂取過多の一因といえるだろう。というのも、認知症とは、大自然のなかに、神から発した霊性を認識できなくなる状態で、脳の新陳代謝が滞っているわけで、シュタイナーが預言しているように、現代は、再び、前世をみるための準備段階にあるので、飲酒やアルコールが厳禁なのはいうまでもない。若者のアルコール離れは、指導霊の指導が行き届いているようにみえる。

さて、仏教には、霊能者になるために、禁酒の他にも、不殺生(殺さない)、不偸盗(盗まない)、不邪淫(不倫しない)、不妄語(嘘をつかない)の戒律がある。不殺生には、広義に、肉食も厳禁になっている。だから、肉食する霊能者はニセモノなんである。

シュタイナーは、肉食すると、その肉をそのまま転用し、自我が自分で肉体をつくらなくなってしまい、本来の自分でつくり出す能力が衰えてしまうので、いわば、麻薬のように依存心が生まれてしまい、自我が怠惰になる分、その怠惰な力が余って、欲望や攻撃力、破壊力にまわる、というようなことを述べている。この原理から、本来肉食でない草食性の牛の、狂牛病を解き明かしている。現代科学では、狂牛病の病因をプリオンたんぱく質の異性型に物証しているが、なぜできたのかを解き明かしていない。

生体には恒常性があり、生成力も有り余ってしまうと、今度は破壊力に回ってしまい、過ぎたるは猶及ばざるが如し、で、何事もバランスが重要で、適材適所なんである。不殺生とは、自分の領分、与えられた使命を全うし、足るを知ることなのかもしれない。

宇宙全体のなかの自分の領域を知るのが、霊能力なので、殺生すると、自分の領分から逸脱するので、霊能者にとっては霊能を失うことになるのだろう。つまり、個人は、宇宙全体とバランスすることで、均衡を保ち、自分でいられるわけなんだろう。だから殺生すると、自分を無くし、自分が自分でなくなることになる。霊的な痴呆症といえるかもしれない。

このように仏教の戒律には、霊能力を失わせる行為が説かれているので、厳禁となっているわけである。仏教徒は、死者と仏教を語り合うための霊能力の学徒なので、戒律を破れば、死者と語り合う霊能力を失うので、破門は免れない。だから、日本の巷に蔓延る坊主はほとんどが破戒坊主で、神や仏を信じていないから、金儲けに現を抜かすことができるのだろう。本当に日本の坊主は罪深い存在といえるだろう。地獄に堕ちてから気づいても遅いだろう。

人智学では、死者は死んではいないし、ただ肉体などの眼にみえる、光の反射体をもたないだけである。だからいつでも精神によって、心の会話ができる、と説いている。よく死者は生者の心の中に生きる、といわれるが、本当にそうなのである。そして、死者とは、睡眠中に出逢っているが、睡眠中の潜在意識を、起きているときの覚醒意識では認識できないので、出逢っている認識がないだけなのである。

更にヤヤコシイことに、あの世と、この世は、鏡の世界のように、正反対のアベコベの関係にあるので、覚醒意識の感覚とは真逆になるので、潜在意識を認識するのは不可能で、例えば、話し手と聞き手の関係も反対になるという。だから、死者に問いかけた瞬間に、時空が逆転し、空間が時間になって、自分が死者への問いかけを答えているアベコベの話となるという。だから死者に問いかけると、眠くなって、寝てしまい、起きると、自分がその答えを話すような感じになるという。

ちなみに、先日、安倍晴明をTVでやっていたが、当時の陰陽師が霊能者だったのを現代では理解不能なので、晴明が操る式神をスパイとしていた、現代特有の唯物的発想には笑ってしまった。スパイが鬼の面を被っている、としている。昔の絵が遠近法で書かれていないのを理解できないようで、つまり、古代人が空間感覚に乏しかったのを理解できていない。空間感覚に乏しいとは逆に時間感覚に優れていたわけである。だから陰陽師は暦を司ったのである。恐らく、式神とは時間を司る霊だろう。だから古代では時間を干支で示したのである。

遠近法というのは人類に数学的才能が生まれてからできる画法なのである。だから、遠近法で書かれた絵に、天使はでてこない。確かに、現代人にも絵が下手なのはいるが、そのような下手な絵をわざわざ残すだろうか? 当時最も巧いとされた絵が残っているはずである。だから現代人の感覚では捉えられない霊的な存在なのである。絵を、物質的な空間を表わすものと決めつけている発想が貧弱である。だから空海さんの曼陀羅図が読み解けないのである。人間の心のなかの図とは考えられないのである。

つまり、死者は、自分の外にいるのではなく、自分のなかにいるようになるので、心の中にいる、ということになる。このような死者とのやりとりは、古代ではよくやられていたことで、お馴染みなので、それらが後の神話になり、神話から死者や神々との対話の哲学になり、そして宗教などになっているわけなんである。だから、宗教とは、死者との会話の、あの世とこの世の外交史ともいえるわけなんである。

しかし、カリユガの時代になって、人類が霊能力を失っていき、坊主も生臭になってしまい、金儲けに奔走するようになって、唯物論にどんどん洗脳されてしまい、死者のことなど忘れさられ、死者のことなど無視している現状が、お釈迦さんが説いた末法の世なわけである。お経の意味を理解せずに、お経を諳んじても意味がないのは、この世でもあの世でも同じである。唯物論は、まだこの世の意味を解き明かしているだけマシだが、お経はもはやこの世でも、あの世でも意味がない。

死者が生前行った道徳的行為や愛情表現を通じて会話するのが、ホンモノの宗教である。あの時は、助けてもらってありがとうという感謝の気持ちが、死者との会話になるのである。あの時の死者の行為は素晴らしいかったね、本当にありがとうございました、と常に死者に感謝できるのが、死者との心の中での会話となるのである。

人智学によると、死者が読む本は、生前につながった生者の精神であるという。つまり、死者は、生者の心のなかを見ているという。だから、生者の心のなかが物欲ばかりだと、死者は貧困になるという。この世での食料は、物質的な富だが、あの世での食料は、精神的な富なのである。だから、生前、親は物質的な富を子どもに与えて保護したが、死者になると、今度は、子から、精神的な富を与えてもらわないと、物欲のままで、いつまでも欲界にいることになり、成仏できないわけなんである。

だから、親孝行は、死んでからでは遅いということはなく、死んでからでもできる親孝行があり、むしろこの世とあの世を超えた自由な愛の交流といえるかもしれない。

人智学は、死者と生者との交流を図る翻訳書といえるかもしれない。

人智学により、この世とあの世の均衡を図るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

              ★       ★       ★

東欧のように、死んだ集合魂の生に執着したり、古き慣習の単なる残存である血縁関係からなる共同体に依存するのは、我々人智学徒の道ではない。人智学徒は、個人的な自我にとって、リアルな生による人間関係の絆を、幼子を抱きしめ、友愛によって育成するように努力すべきである。

人智学グループの共同体は、かくあるべきである。血縁関係を探しだし、人種や民族を同じくする人々のみを呼び集め、共同体をつくり、集合魂を育成するのは、人智学のやり方ではない。

((ちなみに、シュタイナーは、人智学とは真逆の発想の、シオニズムに大反対したために、シオニストに生命を狙われ、殺された。殺されたといっても、肉体を失っただけなので、真の神秘学者は、肉体を失ってからが、本番といえる。宗教家も、死んでからが本番である。キリストも死んでからキリスト教を布教したわけである。

ミカドのスパイべラスコによると、シオニズムはナチスに利用されたという。元MI6のジョンコールマンの偽ユダヤ人による陰謀論の、三百人委員会で、この話は有名である。三百人委員会とは、オカルトでいう、月に基地をもつ黒色同胞団である。

月に基地といっても、物質界の話ではないから、衛星の月ではなく、黄泉の月領域で、陰謀論にならざるを得ない。悪の宇宙人の地獄の話である。))

人智学の目標は、兄弟姉妹になるのを決意する、アカの他人同士を呼び集めることにある。それら、何の血縁関係もない人たちの頭上に、人智学の霊的な精神を育成し、個人的な自我の発達に努め、霊我を天使のように羽ばたかせることである。そして、友愛の善良な霊性の聖霊たちが、人智学グループの頭上を羽ばたいている、のが感じられるようになるだろう。

我々人智学グループの幕開けに際し、この目標は、我々自身の、個人的な自我のなかに受け入れるべき、聖霊たちの思考の賜物である。この目的によって、人智学徒は、創設に際し、このグループを聖別する。霊我とは、純粋な精神による霊的な共同体と共に芽生える生命なのである! 

我々人智学徒は、頭上に、霊的な共同体を追い求める。そして我々人智学徒は、人間の内に生きるキリストを追い求める。このキリストはいかなる文書も必要とせず、まず証明される必要もない。というのも、我々は遅かれ早かれ、いずれにしろ、自身の善意を発達させて、内面でキリストを経験するからである。

グループの創設に際し、次のことを、聖別式の紋章=モットーとみなしたい。

「我々人類の上なる共同体の王冠に、内なるキリストを掲げよ!」

もし数人、いや多くの人々が、この紋章において、キリストの名のもとに統合するなら、キリストが正しく、リアルに、その人たちの自我の内に生きているのを、実体験するだろう。この意味において、キリストを兄弟姉妹と認識できる者全てが、キリストの血を分かち合う兄弟姉妹なのである。

キリストが、裏切り者ユダを弟子と認め、赦したように、キリストの名の下に集う人々を、キリストは、最後の晩餐のように、キリストの兄弟姉妹の弟子と認めるだろう。

もし、この聖別の言葉を受け取り、互いに調和して、この世での仕事を遂行できたなら、人智学運動による、ホンモノの霊性が、この地を遍く進化させるだろう。

このような困難な時期にも関わらず、遠方から来た友人たちが、当地にグループを創設した人々と交流している。このような地での交流は、常態化すべき良い習慣である。というのも、他のグループで働く人々のために、聖別の言葉を運び、伝承できるからである。

この聖別の言葉から、人智学運動による、真の霊性に調和して共働するグループに参画する末端の人々までに絶えず思いやりをもって働くように誓い合おう。そうすれば、不可視の、霊的な共同体は、この聖別の言葉通りに、キリストの王国を築くために、成長し繁栄するだろう。

この地での、天国建国の姿勢が、我々人智学の仕事と結び付き、益々広まるなら、人類の進化のために、人智学から解き明かされる霊的な課題を、人類は克服できるだろう。

そのとき、我々人類は、人間の進化と人間の知識を導く叡智である、偉大な師たちの、聖白色同胞団が、我々人類と共にあると、信じられるだろう。この当地の人々が、人智学の目標のために、どれほど働くか、その度合に応じて、霊界から、我々人智学の仕事を導く偉大な師たちが、この地での労働の真っ只中に、協働している、ということを、その叡智を通して、十分よく知るようになる。

このグループの協働に、このグループ内部で、友愛によって遂行される仕事を導き指示する、叡智の師たちの力と恩寵と愛を降臨させ、地に巡らせ、高次のヒエラルキーに直接師事する叡智の師たちの恩寵と力と愛を結集し、地に天国を降臨させよう!

人々の中にある善の霊性が、叡智の偉大な師たちが、この人智学グループと共にあるように。人智学運動の真の霊性が、地に巡り、働き、キリストの天国を招来しますように!





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Last updated  2024年08月02日 13時56分43秒
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