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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2024年08月06日
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カテゴリ:神秘体験空間
平和の祭典とされるオリンピックが連日連夜、メダルだなんだ、誤審が酷いとか、巷を賑わせているが、なんのための競技なのか改めて考えてみる令和のこの頃かもしれない。このブログでも何度も紹介したが、オリンピックは、古代ギリシアの神話を起源とし、そもそも、シュタイナーによれば、哲学者たちの叡智の祭典で、古代インドのヨーガ哲学などの披露の場でもあり、自分の能力が、どこまで神々=天使たちに到達し、それら神々や天使たちと出逢え、天国について対話できたかの、霊能力の優劣を競う平和の祭典だったという。

古代オリンピック - Wikipedia


だから、より現代的に解釈すれば、キリスト教の公会議や、宗教家の教義論、また、ぶっちゃけていえば、安倍晴明で有名になった陰陽師の霊能力の勝負や、もっとコミカルにいえば、アニメ一休さんの頓智合戦みたいなもの、といえるかもしれない。総じてオリンピックをわかりやすく解釈すれば、天国がどういうところなのか、を説明する機会で、それを肉体で、表現する場なのである。

つまり、オリンピックの本来の目的は、天国を表現する場なのだが、実際の巷のオリンピックは、金儲けのための人気商売となっていて、勝者は少数で、敗者が多数なのに、数少ない勝者の選出を巡って、敗者が泣き叫び、審判に文句を言ったり、勝者は得意げにいい気になり、悪態をついたりして、実際は、地獄を表現しているわけなんである。

このような惨状のオリンピックの、天国と地獄を表現するのによい、例えば、次のような、「長い匙」の話を、紹介したい。もし、このまま地獄のオリンピックを人類が続ければ、そのうち、人工知能AIと戦うようになり、シュタイナーが預言しているように、人工知能の総体としてのアーリマンの受肉を、この地に招来してしまう可能性が高いようにみえる。オリンピックが天国の招来ではなく、地獄の招来になっているのは、前回の東京オリンピックをみれば明らかで、だからこそ、天はコロナを招来したのかもしれない。

              ☆       ☆       ☆

長い匙の話|法話 - 臨済宗 大徳寺派 東光寺 (d-tokoji.com)

男はまず「地獄館」の中を見学することにしました。
地獄というからには、赤鬼や青鬼が亡者を痛めつけて苦しめているものだろうと、恐る恐る覗いてみますが……そんなものはいません。
こざっぱりとした洋間に、テーブルがずらりと並んでいて、まわりにはお客さんが腰かけています。さらに、テーブルの上にはたくさんの美味しそうな料理が並べられています。
「はて? 地獄館というわりには、まんざらでもないなあ」
そう思いながら椅子に座っているお客さん達を見て、男は驚きました。
テーブルの回りに座っているお客さん達は、みんな真っ青な顔をして、骨と皮ばかりの、ガリガリに痩せ細った姿をしていたのです。

なんだ? どうしてこの人たちは目の前のごちそうをとって食べないのだろう?
そう思い、よくよく見てみると、
そのお客さん達の体は、右腕以外が椅子に縛りつけられ、自由に動けないようになっています。
さらに、かろうじて自由に動かせる右手には、とても柄の長い、1メートル以上はあろうかという、長い匙(さじ)が縛りつけられているのです。
お客さん達は腹が減ったと、長い匙でごちそうをすくって食べようとしますが…上手くいきません。
匙が長すぎて、食べ物を口に入れられないのです。
すくって口に運ぶが、こぼす。
すくって口に運ぶが、こぼす。
みんな頭にかぶったり、背中にかぶったりで、まったく食べることが出来ません。
しかもお腹がすいてイライラ。
「お前のせいで食べれない」
「貴様は気が利かん、遠慮しろ」
と、お互いに口喧嘩までしています。
目の前にご馳走があって、それが口に入らない。
骨と皮ばかりになっても喧嘩ばかりしている。
「なるほど、これは地獄だ…」
男は地獄の恐ろしさを痛感しました。

(この地獄は、人智学の、欲界を上手く表現している。欲界は、生前の物質界での物欲の執着心を捨てるとこなのだが、物欲が捨てられずに、その原因が自分にあるのに、他人のせいにしているので、あの世が、この世とアベコベなのに気づかずに、自分が捨てられずにいるので、自分の死に気づかない)

男は次に「極楽館」を見学することにしました。
極楽というからには観音さまか天女さまでもいらっしゃるのだろう、と入って見回してみますが、そんなものはいません。
小ざっぱりした洋間に、テーブルがあって、ごちそうがあって、お客さんが並んで座っている。お客さん達は体を縛られ、右手には長い匙が縛ってある。
「地獄館」とまったく同じです。
しかし、「極楽館」にいるお客さん達の様子は、「地獄館」のお客さん達とは全然違いました。
こちらはみんなふくよかな姿をして、ニコニコ笑いながら幸せそうに「ありがたや、ありがたや」と歌まで歌っています。
「はて、地獄館も極楽館も同じ境遇なのに、どうして客の様子がこんなにも違うのだろう?」
男がようく観察してみると、その理由が分かりました。
「極楽館」のお客さん達は長い匙でごちそうをすくうと、
「どうぞお召し上がりください」と、
向かいの人に食べさせているのです。
自分の長い匙でごちそうをすくい、自分の口ではなく、向かいの人の口に持っていく。すると、いただきますと、向かいの人はおいしそうに食べる。
向こうからも「どうぞ」と言ってこちらの口に運んでくれる。
こちらも「頂戴します」とおいしく食べる。
これなら長い匙でも、こぼさずに食べることが出来るのです。
なるほど…地獄と極楽の違いはこれか。
自分だけが食べることを考える連中が集まると、この世は地獄になる、
まず人に食べさせることを考えれば、この世は極楽になる。
地獄と極楽の違いはここなのだ。
その事に気がついた瞬間、男は布団の上で目を覚ましました。

              ☆       ☆       ☆

この話からもわかるように、この世での食べ物は、タンパク質などの物質的な料理だが、あの世での、食べ物は、愛であり、料理そのものよりも、愛情が注がれているかどうかで、あの世では、精神が、愛からつくられるので、精神には愛が必要なのが、欲界の地獄にいる死者にはわかっていないのを上手く表現している。

そして、天国の住人が、食べ物で栄養をとっているのではなく、愛情で栄養をとっているので、「ふくよかな姿をして、ニコニコ笑いながら幸せそうに『ありがたや、ありがたや』と歌まで歌っている」わけなんである。簡単にいえば、あの世では、料理そのものの価値よりも、料理に辿り着く精神的なプロセスが問題になる。つまり、勝利を奪い取るのではなく、勝利を愛として差し出されるような相応しい人間関係をつくりあげる精神を持つのが、最善の道なのがわかる。

さて、では金メダルの由来は何だろうか? と考えると、オリンピアの由来から、神ゼウスの神殿の、オリーヴの木にあるのがわかる。また、以下のサイトから、太陽神アポロンを讃えるピューティア大祭にも関係するのがわかる。

森の図書室 スポーツ競技勝者の証、木の冠。 |きこりんの森 (kikorin.jp)

『いずれの大祭でも勝者に贈られていたのが、葉のついた枝で作った冠。ピューティア大祭ではアポロンの聖木とされた「月桂樹」の冠が、一方のオリンピュア大祭では「液体の黄金」とされるオリーブオイルを生み出す木こそ、最高の栄誉を表すとして、その枝を使った冠が贈られたそう。』

ピューティア大祭 - Wikipedia

ゲッケイジュ - Wikipedia


アポロンが太陽神で、オリーブオイルが香油を意味し、注がれた者の意味から、メシアのイエスキリストが浮かび上がるだろう。月桂樹が、切られても直ぐに再生する植物を意味し、それは死んでも直ぐに再生する不滅の霊魂をもつ、エーテル体を表わすのが、神秘学からわかる。つまり、オリンピアとは、キリストのことで、オリンピックとは、キリストを目指す大会なんである。勿論、紀元前の古代オリンピックでは、キリスト降臨は、まだ予定の出来事で、預言でしかなかったが、秘儀参入者により明かされていて、そのまま、キリスト降臨の、秘儀参入の場となっていたのがわかる。当時はまだ、この世の時間で、いつキリストが降臨するのかが明かされていないだけであった。

つまり、人智学で読み解くと、古代オリンピックは、秘儀参入の、太陽霊キリスト降臨を提供する場だったのである。それは古代ギリシアの、健全な精神には、健全な肉体が宿る、という箴言を、輪廻転生を実現する場でもあった。

しかし、このオリンピックの精神から、輪廻転生の思想が奪われ、ローマ帝国の、「健全な肉体には、健全な精神が宿る」の神殿を穢したルシファーの肉体表現の場になってしまい、かつての古代ギリシア哲学の「健全な精神にこそ、健全な肉体が宿る」から腐敗堕落してしまったが、裏切りのユダの転生アウグスティヌスによりローマ帝国と共に、キリスト教化されて、キリスト教徒により、ローマ帝国と共に唯物化されたオリンピックの精神も、一緒に滅ぼされるわけなんである。

さて、このようなオリンピアの、キリストの太陽霊の精神を、人智学的に解釈すれば、天国という永遠に平和な至福の時間を、どう物質的な空間で説明し、表現するか?が問題となる。しかも、ややこしいのは、前回も紹介したように、この世とあの世がアベコベの関係にあり、この世での空間が、あの世では、時間に置き換わってしまうところにある。

あの世の時間を、この世の空間で示すのはほぼ不可能なので、あの世とこの世を結び付けるエーテルの物質光で記述するしかないが、アインシュタインは相対論で、光の振る舞い(曲率)を物理の原理(質量と空間の等価原理)に用いて、光速度を時間に特殊化して換算し、空間を時空に一般化して数式化したが、その数式化は、ローレンツ変換と呼ばれ、ローレンツによる空間の回転の不変性から、エーテルの空間での振る舞いを、時空化し、エーテルをいわば数式化したわけなんである。

アインシュタインは、エーテルが嫌いで、エーテルを否定したらしいが、ローレンツは、ローレンツ変換により、エーテルの物質化を、つまり、時間を空間に貼り付けることで、数式化し、時間を定数から、変数に変換することで、曲率を導入し、位相幾何学から、現代のファイバーバンドル理論の原型となっている。

ファイバー束 - Wikipedia


そして、ややこしいのは、覚醒意識では、物質界では、必ず時間が過去から未来に流れるように感じているが、あの世では、時間は並行宇宙のように同時に存在しているところにある。時間が空間のように、近い、遠いというように存在し、ただし、空間とは、アベコベのネガとポジの鏡像関係にある、のを、人智学では解き明かしている。ローレンツ変換では、時間に虚数iを掛けて、自乗して負となるようにしている。

そして、人智学からわかっているが、睡眠中に、人間の自我とアストラル体は、あの世に行くのに、覚醒意識を潜在意識に変換しないといけないために、一日の時間を遡って起きる前までの経験を、道徳的に評価するために、追体験しないといけないが、この記憶の追体験は、現代の脳科学でも、記憶の整理としてわかっている。

そもそも記憶の追体験は、道徳的な順序を、時間に付随するために、エーテル体が物質体をつなぐのに必要なので、記憶のためではない。だから、不道徳行為ばかりすると、例えば嘘をついたり、他人を欺いたりすると、時間感覚がアヤフヤになって、エーテル体が萎んで、脳から飛び出して、前頭葉が委縮し退化して、記憶の整理がつかずに、サル化し、痴呆症に罹ってしまうわけなんである。

人智学では、この世は、あの世の影絵で、真の天国を映す、仮の世界と考えている。この世は、いわばホログラムのようなもので、ホログラムをどう映すかは、個人の自我の経験の問題に帰され、天国の精神をピュアな敬虔のまま、そのまま映せば、善人になるし、自我のエゴのまま雑念の混じったもので、混濁させて、映せば、悪人になる、というわけなんである。

パラレルワールド - Wikipedia

睡眠障害と記憶力低下の関係 | 阪野クリニック (banno-clinic.biz)

ホログラフィー - Wikipedia



だから、自我とアストラル体が、いわば自分という細胞の核と細胞膜を含む内部(上の図では、ビームスプレッターと鏡の役割)とで、エーテル体が、ホログラムを映す光の映写機で、自分という細胞を、物質的構造物の、肉体に伝える情報伝達の役割を担い、精神を、肉体につなげている糊のような、時間を空間に変換している、いわばタイムマシンに、エーテル体がなっているという模式図が思い浮かぶ。

なかなかこの原理を理解するのは困難なんで、簡略していえば、霊魂の輪廻転生は、人間が、タイムマシンで、旅行している、のと同じなのである。時間順に記録された虚空記録から、ホログラムを抜き出してきて、自分に焦点をあわせた光のエーテル体で、物質界をスクリーンとして、再生しているのと同じでもある。

しかし、タイムマシンとなっている、エーテル体は、太陽光と連動しているので、その進行の、進化のモラルに従わないと、未来に進めずに、過去に逆向きし、宇宙の進化から逸脱してしまい、低次元に落ち込んでしまう。これを、キリストはゲヘナの、霊魂の墓場と呼んでいる。レコードはあるが、古すぎて再生ツールが見つからない状態といえるかもしれない。つまり、再生不能の記録で、霊魂のゴミなんで、ゲヘナなんである。

ゲヘナ - Wikipedia


さて、思想界のオリンピックが開かれれば、日本のオリンピア代表といえば、空海さんが真っ先に思い浮かぶ。その空海さんが、生誕1250年記念ということで、先日地上波で、その特集をしていたのをみたが、お釈迦さんが末法の世を嘆いたかの如く、密教も摩訶不思議の哲学の成れの果ての墓場のゲヘナの様相を呈していたのに、オリンピアの精神腐敗を見るのと同じで、なんでも金儲けの商業主義で、呆れ果ててしまった。精神的なプロセスを軽んじているのに気づかないのだろうか?

自分も霊能者ではないから、巷の日本の現世仏教なるものを、人智学徒の知識でしかないので、無知の知からも、あまり批難もできないのだが、現世の悟性魂から、論理的に考えても、空海さんが天国の精神として、いまも生きているわけだから、この生き仏を、仏教では如来というらしいが、単なる曼荼羅の公開だけで済ますのは、いかにも味気ないものではないだろうか? 

曼荼羅が、あの世を現わしているもの、なのを、空海さんの、お弟子さんたちが霊能力でもって知らないわけがなかろう。曼荼羅は天国を表わすものだからである。わざわざ紹介するまでもないが、空海さんがやったことは、霊能力がないものにも、あの世をわかりやすく教え悟らせることだからである。

目が見えない者の、代わりの目となるのを、真言信徒に求めたわけで、真言信徒のなかに、どれだけ、曼荼羅が理解できるか、どうも仏を彫って魂入れずのような、論語読みの論語知らずの、お経読みのお経知らずの、破戒坊主ばかりなのを危惧する令和のこの頃なんである。空海さんの権威で飯を食っていこうと考える地獄堕ちにはならぬのを願うばかりである。仏陀に出逢えば仏陀を殺せ、ですらない。

生誕1250年記念特別展「空海 KŪKAI-密教のルーツとマンダラ世界」/2024413日(土)~69日(日)/奈良国立博物館 (kukai1250.jp)


地上波で紹介していた、司馬遼太郎氏の解釈では、空海さんは、物質界で、ゼロを説いた人物とされていたが、権力には癒着しない、孤高の、なかなか洞察力に鋭い司馬史観ならではのものだが、それでは、まだ物質界が仮の世界であるだけでしかなく、肝心要な、カルマの法や、輪廻転生の思想が、密教の奥義として説かれていないことになる。現世を無に帰しただけなんである。無からの創造を語っていない、死者による大自然をつくる精神の奥義が読み解かれていない。来るべき、次の転生を、今生から生み出す創造がなされない。

シュタイナーは、大自然が美しいのは、生者の精神が、死者の営みによる愛の贈り物でつくられているのを、感じるからである、と述べている。死者は死んではいない、大自然のなかの、美の営みのなかに生きているのである。だから、芸術や音楽のなかの美には、死者の創造の愛が隠されて、秘められている。それを読み解くのが、密教の醍醐味なんである。

しかし、現代人は、死者を墓場に埋めて、金銭の取引きに飽き暮れ、たそがれている。死者を死んだものとして、再生しないでいる。前回も紹介したように、死者は、生者の心のなかに生きているのである。密教はそれを解き明かしている。だから、密教は、誰もが、親族の霊媒師となれるのを説いている。詐欺の霊媒師やイタコに頼まなくても、夜寝入るときに、生前の親族を想い浮かべればいいだけである。

ただし、あの世とこの世はアベコベで、鏡の世界なので、寝起きの夢のなかで、出逢う親族は、親族ではなく、自分の想いで、つまり、親族と、自分が入れかわって現れるので、また、親族が語るのは、語る前に、その応えが想い浮かぶという、時間の関係が、逆転する、ややこしさがある。

つまり、詐欺の霊媒師やイタコが演じるのは、自分の親族への想いをそのまま形にして演じているだけである。ホンモノの霊能者なら、それらを逆転して解釈して、伝えられると思われる。これには密教などの修行が必要なので、口伝では不可能なんである。言葉は、物質界の現世でしか通用しないものなので、つまり、空間を伝える情報を、時間に換算し、また逆転しないといけない。数学的にいえば、メビウスの輪や、クラインの壺のように、位相変換しないといけないわけなんである。

だから、空間表現の言語では不可能で、位相を表現するなんらかの波動的な表現に象徴化した、シンボルが必要で、真言では、マントラの幾何学を、空海さんがつくったわけなんだろう。だから、そう簡単には、曼荼羅は解き明かせないようにみえる。それはしかも象徴図なんで、胎蔵界と金剛界の二つがあるが、恐らく、太陽霊と月霊の、人智学でいう黄金伝説と、神殿伝説の2つを意味するものだろう。

いずれにしろ、2つが、この世に平和をもたらすべく活動しているのを表現しているのだろう。私には、先の、長い匙の話のほうがわかりやすくてよいが。早い話、悪の原理の世界と善の原理の世界を説いている。曼荼羅の仏とは、天使のことであるだろう。人間は仏の天使となるべく、現世で、死者とつながるように努力せよ、というのが、空海さんの、真言の要約だろう。

TVでもよく紹介しているが、空海さんのミイラが、今でも高野山の奥にあり、お弟子たちが愛情を注いでいるが、それは空海さんの一つの象徴にすぎず、全国各地や世界に、弘法大師としての精神は今でも生きて、人々をあまねく分け隔てなく見守っているので、真言信徒だけが特別な存在ではない。いつでも、夢のなかの、あの世で逢っているわけだが、それに気づいていないだけの話なんである。密教を学んで霊能力を開眼すれば、弘法大師の存在に気づくわけである。

人智学では、あの世の天国の教えが、この世にどれぐらい反映し、平和をもたらしているか、死者が、生前に、あの世の教えに帰依し、この世の平和にどれだけ貢献したか、を思い浮かべ、感謝するのが、地上で絆をつくった死者の供養になる、のを解き明かしている。

言い換えると、平和の設計図が、あの世にあり、設計図通りに、この世がつくられているかどうか、人間は、その確認作業のために、この世に生まれてくる、ともいえるかもしれない。宗教では、平和の設計図を、天国や、叡智や、知恵と呼んでいるわけなんである。

だから、宗教家は、あの世から、叡智を、この世にもたらすためには、叡智を読み解けないといけないので、霊能者でないと、その任を負えない。つまり、平和の設計図をどれだけ理解し、体現し得るかを、この世で、実際に明らかにしないと、宗教家足り得ないわけなんである。しかし、この世は、平和どころか、益々地獄に近づいているようにみえるのは、私だけだろうか?

アーリマンに統治され支配されたオリンピックを自由な愛の平和の祭典に、生者と死者が再びつながる、この世とあの世の精神的な祭典にするために、シュタイナーの来るべき時代への預言を、再度紹介する。

             ★        ★        ★

 来るべきオリフィエルの時代
 天使長(時代霊)交代のとき

 あるHPから転載し改訳

 ミカエルの輝かしい統冶の、次には、暗く、恐るべき唯物論の時代がやってくる。その時代は、(シュタイナーの霊視によれば)約2400年頃にはじまる。今日(1920年代)においても既に、ミカエルと時を同じくして、アーリマンという太陽悪魔が暗黒の力を明らかにしはじめている。

 アーリマンは、単なる金銭=金融経済の悪魔ではなく、低次全ての、暗黒=物質力の支配者なのである。アーリマンの群れは、人間の霊魂を攻撃するのではなく、人間の物質体をいわば貪り喰い、破壊する。

 この暗黒の時代がやってくると、兄弟間に争いが起こり、戦争が起こる。精神力に乏しく、貧弱な人間の肉体は衰弱し、恐ろしい病気と災難の犠牲になる。そのように、憎悪の罪の徴候(シルシ)が、人間の肉体に非常にはっきりと現れてくる。

 そのような暗黒の時代に、オリフィエルは、人間の霊魂=精神を震撼させ、叱咤激励し、自らの本当の、地上での使命に気づかせる為にやって来る。

 ミカエルの指導下で、霊=精神的な生活に参画した人は、ミカエルに従い、ミカエルから愛の実践学ぶ。この霊=精神的な修行が、来るべき暗黒(唯物論全盛)時代での、オリフィエルによる統治下での、高次の霊たちに仕える準備となるのである。

 霊=精神的な生活に、自らを捧げたい人には、愛の実践が要請される。霊=精神的生活を探求する人は、喜んで自己を愛の実践に捧げられないといけない。

 しかし、暗闇=物質力が凶暴さを最も発揮する時は、同時に、霊=精神力が最も光輝く時でもある。

 (老子の大道廃れて仁義あり)

 オリフィエルは、過去に何度もリーダーシップを発揮した。近い昔でいえば、それはキリストが、この地上に現れたローマ帝国の時代である。その時代は、最悪の堕落と頽廃が、この地上全てを支配した時代だった。その時代に、人類の精神を揺り動かし、進化させるために、恐るべき犠牲が払われた。オリフィエルは、怒りの大天使と呼ばれてきた。オリフィエルは、人類を強引に浄化させるのである。

 キリストが神殿で両替商を鞭打つ話は、深い意味を持っている。人類史の、暗黒時代に、キリストは人類を救済するために現れた。オリフィエルの統治は(AC)104年後に終わり、アナエルの統治に代わった。それからはザカリエル、次にラファエルの統治が続いた。ラファエルは、ルネッサンスの時代を統治した。

 16世紀から1879年までは、ガブリエルが統治した。それからミカエルがリーダーシップを引き受けた。2400年頃オリフィエルの順番が再びやってくる。

 そして、まさに、「時が満ちた!」と暗闇のなかに、霊光が燦然と輝くであろう。キリストが、再び地上に現れる。しかし、その時、キリストは違った姿(エーテル体)で現れる。人類の使命は、キリストを受け入れ、キリストに仕えることなのである。

(シュタイナー講演「ミカエル・光を放つ太陽」1905年12月ミュンヘン 友正剛訳を改訳)





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Last updated  2024年08月07日 12時33分36秒
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