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シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2024年09月03日
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カテゴリ:神秘体験空間
いまや死語となっているネットサーフィンをしていて、面白い記事をみつけた。それは、以下の、「生きているうちに一度は経験したほうがいいこと7選」である。

生きているうちに一度は経験したほうがいいこと7選(えらせん) - エキスパート - Yahoo!ニュース

1.海外旅行
言葉も文化も違う場所に行くことは、自分の価値観を広げてくれます。地図で見ていた場所を実際に歩き、現地の人と交流することで、世界の広さを実感できますよね。また、日本の良さを再認識する機会にも。初めは不安かもしれませんが、その不安を乗り越えた先にある発見や感動は、きっと一生の思い出になります。

2.大恋愛からの大失恋
「恋は盲目」という言葉がありますが、周りが見えなくなるほどの恋愛したことありますか?恋に夢中になり、そして大きな失恋を経験することは、人間として成長する大切な経験です。立ち直れないほど辛いかもしれませんが、自分自身をより理解し、他人の気持ちに寄り添う力が養われます。この経験は、将来一生添い遂げたいと思う人との関係を築くために必要不可欠です。

3.夢への無謀な挑戦
「無理だ」と周りに言われるような大きな夢に挑戦することは、とてもワクワクすること。たとえ結果が思うようにならなくても、その過程で得られる経験、知識、人との出会いは、かけがえのないものになります。また、自分の限界を超えようとする中で、思わぬ才能を発見するかもしれません。限界を勝手に決めてやる前から諦めると、死ぬ前に後悔しますよ。

4.感情が爆発する大喧嘩
普段は抑えている感情を、一度くらい全て吐き出す経験もしておきましょう。本音をぶつけ合うことで、お互いをより深く理解し合えるかも。また、自分の本当の気持ちに気づくきっかけにもなります。ただし、相手を傷つけすぎないよう注意です。

5.言い訳しようのない大失敗
誰にも言い訳できないような大きな失敗をすることは、とても辛い経験です。でも、自分の非認め、謝罪し、そこから立ち直る過程は、人間としての深みを増してくれます。謙虚さや責任感を学び、また周りの人の温かさを感じることもあるはず。失敗から学ぶことで、より賢明な判断ができるようになります。

6.心が震えるほどの真剣勝負
スポーツの試合や仕事のプレゼンなど…。全力を尽くして何かに挑む経験は、一生ものです。勝っても負けても、その過程で得られる達成感や充実感は何物にも代えがたい。また、極限状態で発揮される自分の力を知ることで、自信にもつながります。

7.目の前が真っ暗になる大挫折
大きな挫折を経験すると、希望を失い絶望を味わうかもしれません。しかし、そこから立ち直る過程で成長できるもの。周りの人のサポートの大切さを知ったり、自分の新たな可能性に気づいたりすることもありますよね。挫折を乗り越えた経験は、今後困難に直面したときの大きな支えになります。

              ☆       ☆       ☆

自分の半世紀を越える人生を振り返ると、このサイトの7選は、ほぼ経験できた。海外旅行は米国西海岸旅行をしたし、大失恋といえるほどのものではないが、それなりの失恋は経験し、夢への無謀な挑戦は、いまも続けているし、大喧嘩は、職場のパワハラ上司としたこともあり、大失敗も、仕事でしたことがあり、左遷されたし、真剣勝負はギャンブルとして行っているし、大挫折は、人並みの左遷で味わった。

これら7選をまとめると、いわば価値観を転換させ、生を実感させる経験といえるかもしれない。換言すれば、自己の成長の糧となる経験といえるだろう。死の一歩手前というか、従来の自己のなかの価値観に転換を迫る出来事といえるだろう。自分はモノではなく、生物なんだ、いま自分は生きているんだと、実感させてくれる体験でもある。この7選サイトはまだ他にもあり、面白いので、紹介したい。

ネットサーフィンしていると、よく仕事に悩んでいる人のコメントに遭遇するが、以下の「仕事がデキる人から辞めていくヤバい職場7選」は参考になるかもしれない。

仕事がデキる人から辞めていくヤバい職場7選(えらせん) - エキスパート - Yahoo!ニュース


1.ムダな会議が多すぎる
長時間の会議で疲れ果てて、肝心の仕事ができない...なんて経験ありませんか?デキる人ほど、時間の無駄遣いに敏感です。会議の目的を明確にして、効率的に進める工夫が必要かもしれません。

2.どうでもいい派閥がある
仕事の能力よりもどの派閥に属しているかで評価が変わるなんて、モチベーション下がりますよね。デキる人ほど、公平な評価を求めます。能力や成果で評価される環境じゃないと、優秀な人材はどんどん離れていってしまうんです。

3.ポンコツから出世する
コネや年功序列で昇進が決まるのは、デキる人にとっては耐えられません。「仕事ができるから」ってどんどん仕事を押し付けられるのに、努力が認められない環境ではモチベーションを保つのが難しいです。公平な評価システムがあることが大切です。

4.給料は変わらず責任だけ増える
責任が増えるのはキャリアアップの証。でも、それに見合った待遇がないのは問題です。デキる人ほど、自分の価値をよく理解しています。適切な評価と報酬がないと、より良い環境を求めて転職してしまうかもしれません。

5.ミスに対して異常にうるさい
もちろん、ミスは減らすべきです。でも、ミスを過度に責めると、チャレンジする気持ちがなくなってしまいます。デキる人ほど、新しいことに挑戦したいと思っています。ミスを恐れずチャレンジできる環境が大切です。

6.プライベートにシワが寄りがち
仕事とプライベートのバランスって大切ですよね。常に仕事のことで頭がいっぱいだと、新しいアイデアも生まれません。デキる人ほど、オフの時間を大切にします。ワークライフバランスが取れる環境が必要です。

7.遅刻は許されないのに残業は当たり前
これって、なんだか矛盾してませんか?時間にシビアなのはいいことですが、それなら定時で帰ることにも理解を示すべきです。デキる人ほど、効率よく仕事をこなします。残業が当たり前の環境では、その能力を十分に発揮できません。

このような職場、特にポンコツがトップの部署も経験したが、このような職場の一番の問題は、自分が常に正しいというポンコツ独裁者が至る所にいるのが挙げられる。自分の発言が周囲にどう影響するのかさえも、考えられない馬鹿なんで、このような独裁者が権力を握ると、周囲の調整能力が問われ、お馬鹿な独裁者は、調整能力についても自分の意向がわずかに抑制されるので、邪魔なものと否定し、全体として調整能力が欠けてしまい、独裁者の独断で決まってしまうので、無駄な会議が増えて、独裁者の我儘に振り回されて、ブルシットジョブが蔓延し、仕事のデキる人は、馬鹿馬鹿しくて、職場を辞めてしまう。

一番の問題は、ポンコツは自分をデキると思い込んでいるので、つまり周囲の環境が見渡せてないから、周囲の人間の長所と短所すら把握できないから、ポンコツなんである。私見だが、仕事がデキる人とは周囲の環境の細やかな違いが瞬時に把握デキる人で、なぜそうなったかが、理論的に探求できる人で、自分の欠点と、自分ができない部分をしっかりと把握している人のことなのである。

常に問題点を把握して、どのような経緯で、どの人が対処するのか、常に観察できる人なのである。だから、予め問題点への先見力が磨かれるので、大事になる前に、小事で処理できる。問題が明るみになる前に事前に処理するので、後で騒いだりは決してしない。大事になって騒いで説教沙汰にするのがポンコツの為せる業で、このようなポンコツは無責任なので、他者に責任を擦り付けるのを得意とし、だから常に権力者の太鼓持ちをしているのだが、周囲はそのゴマすりを知っているので、嫌われ者なのである。

逆に、この7選の反面をみれば、例えば、必要な会議しかやらない、派閥がない、ポンコツは干される、給料は成果や責任に見合い増える、ミスは指摘されるが、次の教訓として対処される、プライベートは尊重される、遅刻は予め理由を連絡し、残業は理由がない限り、できない、という感じになるかもしれないが、理想的な職場であるのがわかるだろう。

このような職場について、前回、ブルシットジョブを紹介したが、このような無駄な仕事を行う職場をなくしていかないと、人類は人間関係を破壊して戦争に向かい、人災を多発させ、地球の環境を破壊して、天災を多発させていくのは自明の理だろう。

現世で生きるためには、ある程度の経済力が必要で、生活を安定させるには仕事をしなければならないが、仕事は、自己開発や、自己発見の場も兼ねていることを教えてくれる記事でもある。

つまり、これら2つの7選から、生きるとは、生物の使命といえるものかもしれない。生物の生きる目的とは何なのか?改めて考えさせる記事でもある。

生物は生物から発生する、と生物の原則を示したのは、フランチェスコ・レディだが、現代の物質科学は、唯物論に洗脳されているために、物質から生物を生み出すために、自然発生説を実験により検証しようとしているのだから、もはや宗教よりも宗教らしい物質教といえる。

フランチェスコ・レディ - Wikipedia

物質科学ではアリストテレスの自然発生説を唯物論で曲解し、否定していながら、リン酸の物資から、生命を生み出そうと物質と格闘する姿は悪魔に唆され、哀れと言うほかはない。それもこれも、生命が、誕生から、死までの一回きりの存在と思い込んでいるからにすぎない。死んだら無になる、という思い込みの為せる業である。では物質的に、無とは何なのか、生命の研究のために、物質科学は答えを出さないとおかしい。

生命の起源 - Wikipedia


つまり、物質的に無とは、物質そのものの否定であり、物質科学による物質科学の否定で、それが物質科学の、死が無である、という見解にあるから、自己矛盾なんである。それゆえに、物質科学は、非物質なる物質を、例えば、物質波などを考案しようとしているのだから、非常に滑稽なんである。

では、時空間は物質なのだろうか?という、これまた、死が無である、問題に遭遇する。時空間が物質でない、無なので、真空のエネルギーという概念を持ち出す。そうすると、死が無なために、無の真空のエネルギーから、生命が生まれると、物質的に考えるしかなくなる。要するに、物質とは正反対の、非物質性を物質で検証しようとしているわけで、死が無である、論理の堂々巡りをしているわけなんである。

ダークエネルギー - Wikipedia

真空のエネルギー | 天文学辞典 (astro-dic.jp)

だから、物質科学は、悪魔により、地上の物質界を堂々巡りさせられている論理に、自ら陥っているわけなんである。というのも、物質科学では、エネルギーを物質に変換しないと検証できないからである。目にみえないもの、観測できないものは、無とするしかないからである。数学的には、無限大の、特異点を扱う羽目に陥るので、論理の堂々巡りに陥らないように、予め、観測データから、物質性を見積もり、担保しておく手法が、場の量子論の繰り込み理論である。

繰り込み - Wikipedia

繰り込み理論を、生命論に発展させると、リン酸物質の、DNAの遺伝子情報理論になるわけで、遺伝子という情報学を持ち出して、死が無になるのを回避して、親から子へと物質性がDNAにより受け継がれることで、無限大の死を回避しているわけなんである。そして、生命がエネルギーから生まれるのではなく、DNAによる遺伝性に帰して、巧みに非物質性に言及せずに誤魔化し、還元しているわけなんである。

このように、物質科学では、死の無の論理の堂々巡り、いわゆる将棋の千日手にならないように、無に言及せずに、無を回避し、無をなきものにするわけなんである。

このような死の無からもわかるが、物質科学からも、DNAを持ち出さずに、また別の事実、つまり生命が霊という無限大のエネルギーから生まれる、のが想定できるわけで、一回の誕生から死までの生命環に拘らなければ、生命が霊から無限大に生まれ、カルマと輪廻転生を繰り返すことが考えられるわけなんである。つまり、このような知性の行きつく先が、人智学が説いている、仏教でも説かれているが、霊的な真実なんである。

DNAは、一回の生に拘るあまりに、親から子への遺伝として、死の無を回避するが、そのDNAの存在自体が、何世代もの生命が生まれては死んでまた生まれては死んでの繰り返しを、物質的に肯定し、つまり、カルマと輪廻転生を物証する、非物質的存在なのである。そして、その観測が、量子力学により補完されるわけなんである。恐らく、量子コンピュータが発展すれば、カルマと輪廻転生が、DNA変異により証明されるかもしれない。

さて、現代科学が否定している、アリストテレスの自然発生説を、人智学により解き明かすと、それは、自我発生説なのがわかる。簡単にいえば、生命体は、自我により生まれるというもので、現代科学的にいうなら、「我ある」という自意識により、生命は生まれ、変化する、という意味になるだろう。この「我ある」から、エヘイエ、アシェル、エヘイエが、「我は我から生まれる」、という意味で、霊的真実を説いているのがわかる。つまり、我とは、神の意識であり、人間は、この神の、「我ある」意識から生まれたわけなんである。

高次の宇宙人が、地球人に教えたいのが、この神の「我ある」意識で、この意識が無限大で、あらゆる能力をもち、不可能を可能にする自由を秘めている、最高位の生命体の徳目なのである。そして、地球人は、この最高位の徳目を、つまり、愛を用いて、地球を作り変える使命を帯びている、ということなんである。

そして、この徳目は、お釈迦様がこの地に生まれた時に唱えた、「天上天下唯我独尊」でもある。宇宙は「我ある」意識の集合体からなっている、という真実なのである。我ある、というのを肯定するのが善意識で、我ある、のを否定するのが、悪意識である。悪魔は、人間に、肉体を与え、この「我ある」、意識を囲い込んで、制限している、のが、キリスト教が説く、原罪なんである。

本来は、肉体がなくても、「我ある」意識は存在するのに、肉体しかみえないことで、「我ある」意識をなきものと、自らで否定しているわけなんである。死を無だと思い込んでいるので、太陽霊キリストが降臨して、「死は無」ではないと、死んで、弟子たちに、肉体を失ったが、「我ある」意識を通じて、再生してみせたわけなんである。そして、「我ある」意識を説きなさいと、弟子たちに命じて、新訳聖書が生まれたわけなんである。

このように、人智学は、人生の謎への答えを解き明かしている。「我ある」の自意識を発展させ、互いの自意識を多様的に組み合わせ、バランスをとりながら、発展させるのが、人生の課題である。DNAは、我ある意識を記述し、いわば自分史を記録した媒体でしかない。自意識をどのように発展し、どのような能力を獲得するのかは、当人に委ねられている。善に活用すること、あるいはまた悪に陥ることも、当人の自由の意志に帰するのが、「我ある」意識の特徴でもある。だから、我々は皆、キリストが言ったように、神の子なのである。

人間が神の子であるのは、今日、自分が為したことが、明日の自分をつくることからもわかる。なぜ、金持ちに生まれなかったのか、こんな親の子に生まれたくなかったとか、自分の親は選べないと、人生について、文句を言うのが、現代人には、もはや権利や言論の自由での習わしみたいになっているが、それらは、唯物論で人生を捉えてきたせいなのが、人智学の、人生への正答から明らかになる。

人智学によれば、いまの自分の行為が、次の自分をつくるように、前世での自分の自由な選択が、現世での自分を巡る人間関係や環境をつくっている、というのである。つまり、なぜ、今の自分は自分なのか?という答えは、前世で、自分が、自分を選んだからである、というわけなんである。なぜ、自分は金持ちでないのか、それは前世で金持ちでないのを選択したからであり、つまり、前世で金持ちが嫌になったか、金銭に恵まれる生活に飽きた可能性が高いわけなんである。

同様に、なぜ、いまの親が、親なのかは、前世で自分が、親友のなかから、来世で自分の親となるのを望み、選択したからなのである。前世がみえなくなったので、前世で自分が選択したのを忘れてしまい、文句をいっているだけなんである。だから、神様にしたら、お前が選んだくせに文句をいうのはお門違いで、自分に文句をいいなさい、というわけなんである。要するに、いまの自分の人生は、全て前世で自分で選択した結果なのである。

だから、自分の人生に文句を言う奴は、自分がわかっていないポンコツなんである。俗にいう、自意識過剰のエゴイストなんである。日本語は、霊能者がつくったのかわからないが、非常にわかりやすくできているが、特に自業自得という、日本語は、カルマの法則の自業と、輪廻転生の自得を上手く表現している。つまり、自業自得の人生なんである。ということは、現世での選択と振る舞いの生き方が、来世の自分の人生をつくるわけなんである。だから、仏教では、善人になりたいなら、善行しなさい、と説くわけなんである。

ただし口だけで唱えていても、来世では、善人にはなれない。言葉は、現世での一回の人生でしか通用しないからである。しかも、現世の言葉は、物質界を表現するのに適したものなので、言葉遣いから、来世の人生をつくることはできないが、その点で、日本語は、仏教の経典の、古代インドの霊的なサンスクリッド語などから派生しているようで、自業自得などが、霊的真実を加味されてつくられているようでもある。

真言宗では、梵語のマントラがあり、日本語には、霊言として知られているが、それは霊言を話すことで、善行の代わりをなし、来世の善人に転生するのを願った言葉なのかもしれない。だから、京都のような仏教都市では、京言葉として、相手を建てることで、来世で自分を建てる、霊言による、建前が発達したのかもしれない。だから京言葉を使うには、ちょっとした心遣いの、相手の気持ちを察する霊能力を要するわけなんである。現代人は唯物論に洗脳されているので、この心遣いを嫌味と捉えてしまうのも致し方ないのかもしれない。実際に腹黒い俗物のような京都人もいるからかもね。

仏教用語 (sanjobetsuin.or.jp)

だから、仏教都市の京都人の模範となっているのが、善因善果、悪因悪果であるのが、人智学からも読み解けるわけなんである。ちなみに、東京は何の都市なのか、といえば、どうやら、明治神道都市であるようだ。東京の元は、厭離穢土の、徳川幕府の江戸城にあり、天海の道教由来の古神道にあるようで、京都から遷都して、実際は、帝の行幸という形だが、徳川政権の白の薬師寺系仏教から、道教の古神道からの明治帝による明治神道に代わったようである。

明治帝が霊能者であったかどうかは定かではないが、宮内庁の一派から、そのような話が民間にも伝え漏れている。大正帝では、霊的に狂人の霊媒体質が生まれたので、同族婚をやめて、異族婚になったという噂もあるが、都市伝説の類であるようだ。この幕末の混乱の時代には、明治帝替え玉説もあり、フルベッキの写真なども、以前紹介したが、日ユ同祖論などと相まって、日本の国体を南北朝の古代から世界史的に研究しないとわからない。一説によれば、神道も仏教も、太陽信仰からきていて、太陽霊を日本語では、八百万の八幡と表現したようである。スペイン語で、八幡は、ヤハンとなり、ジャパンとなったようである。

日本という国名は、陰陽師由来の道教の、陰と陽の二本(にほん)ともとれるし、日の本の、聖徳太子で有名な、太陽信仰にもとれるし、大和のやまとのヤハンが訛って、二ホンにあるとも多様な説があるが、前回紹介した、奈良タイムの、千年先を見通す、千里眼による政治を模範としていた事情や、神道の巫女からもわかるが、霊能力の養成国だったのがわかる。なによりも、帝をミカドと呼び、イスラエルの東征した十民族のガド族に由来するという都市伝説もあり、三種の神器説とともに有名だが、人智学によれば、現世での信仰心から、霊界を研究することが、次の転生で、霊能力を獲得する糧となると説いているので、この日本という国は、古来から霊能研究国家であったのは、疑いの余地もないだろう。

千里眼 - Wikipedia

だから、西郷南洲などは、大久保一蔵を、欧州病に罹った患者と呼んでいたようで、欧州洋行組がいないうちに、明治帝に奏上し共に国体を決めてしまおうと取り図ったが、大隈が告げ口して、慌てて帰国した大久保に権力を握られて、島津斉彬が掲げていたアジア連合構想が阻止されてしまい、ついには大久保‐伊藤に強請られ、明治帝にも裏切られ、下野してしまう構図は、アジア連合を阻む西洋の唯物論による軍事的な軛という、仲間を裏切り、西欧に自分を売り込む毒饅頭野郎がいる、現代の政局の構図にも反映しているといえるかもしれない。

このようなユダのような、裏切り者は、キリストの最後の晩餐において、赦されて明らかになっているが、その名の通りの、彷徨えるユダヤ人としても有名で、仲間を裏切った罪から、永遠に逃れられないのは、明らかである。というのも、キリストは、ユダ当人の自由な意志を認め、赦したわけで、つまり悪魔に加担するのを赦したのだが、裏切りを赦したわけではないから、ユダは、永遠に転生し続けても天国にはいけない悪魔の手下になりさがるわけなんである。

神を背くことは赦されるが、背いた罪からは、永遠に逃れられないのは、なによりも、自分をつくるのが、自分の選択であるのだから、自業自得なんである。裏切り者は罰せられはしないが、その罪から永遠に逃れることはできず、自分を永遠と裏切り続ける、天邪鬼となるわけである。だから、ユダはキリストを裏切り、後の転生でも、アウグスティヌスとなって、ローマ帝国を裏切り、常に裏切り続ける人生を送るわけなんである。

人生をキリストを模範に生きるか、ユダのような裏切り者として生きるかは、あなた次第なのである。





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Last updated  2024年09月03日 15時02分54秒
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