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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2024年09月24日
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カテゴリ:神秘体験空間
元旦に震災が襲った能登半島にまた天災が襲ったが、巷の与党の自民は何もできずに、こんなときに総理が外遊にふけ込んで大顰蹙を買っているらしい。裏金議員も処罰できない、自民の総裁選などで「現を抜かしている」場合でないと、天が警告しているのかもしれない。どの輩を総裁選で選ぼうが、増税で、国民の生活を破壊するしか能がないので、堂々巡りの無駄である。

現代のような政治をいくらしようが、国民の生活が幸せになることはないばかりか、全体として益々不幸になるだけである。というのも、物質界には、フェルミ統計という物質占有の法則があり、特定の物質状態は共有できずに、一人のみが占有するしかできないからである。つまり、物質界では平等所有の原則が成り立たないからである。だから、幸福を外に求めると、それは束の間の幻想でしかないので、仏教や、ヒンズー教では、外界からの離脱の出家が説かれたわけなんである。

フェルミ統計 | 天文学辞典 (astro-dic.jp)

フェルミ・ディラック統計 [JSME Mechanical Engineering Dictionary]

フェルミ分布関数 - Wikipedia

極論をいえば、このフェルミ統計のせいで、物質界の状態が、電子の状態一つで決まる限り、それを所有する者は一人しか許されずに、その状態を外に幸福と求める限りは、唯物論に染まらずを得なくなるわけなんである。しかも物質は、生命体とは異なり、酸化し、風化し、自然と崩壊し、結局は無に帰してしまう。

これが悪魔の罠なんである。だから、唯物論で、人間の生活を形作ろうとするほど、物質的な富の独占が進み、格差社会が拡がって、物欲を増す少数派と物欲に満たされない多数派へと、格差社会を拡大していくだけだからである。

シュタイナーは、少数派の占有のために、多数派を唯物論に洗脳し、犠牲にする、催眠術的な心理工作が、古代からオカルトの世界で行われてきたのを、黒魔術と呼んで警告しているが、実際にシュタイナーも、この黒魔術の秘密結社に肉体を奪われたわけだが、それはいまもディスインフォメーション工作として有名で、米国の大統領選が、このようなジレンマに陥っている、のが明らかだろう。現代では、認知戦とも呼ばれているらしい。

IPA NEWS Vol.6720247月号) | IPAについて | IPA 独立行政法人 情報処理推進機構

軍事研究家・小泉悠氏が「人の脳が戦場になる」解説 「信じない人」が狙われる<認知戦インタビュー詳報>:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)


バックミンスターフラーによれば、この米国でのディスインフォメーション工作は、旧ソ連のロシアの米国でのスパイ活動からはじまったようである。以下のようにググれば、怪しい情報も含んで色々出てくるが、恐らく、全てはグルジェフからはじまっているように個人的には解釈している。

旧ソ連「黒魔術暗殺部隊」の存在がCIA機密文書で発覚! 頭蓋骨破壊、病気誘発、超能力コピー!ーオカルトニュースメディア トカナ (tocana.jp)

ゲオルギイ・グルジエフ - Wikipedia

ピョートル・ウスペンスキー - Wikipedia

ナチスとチベットとグルジェフ (client.jp)


このような都市伝説みたいな話の、恐らく、認知戦の源流がグルジェフにあるのだろうから、グルジェフに回帰すれば、認知戦が無意味であり、悪魔による人類の軛にあるのに人類は遅かれ早かれ気づくだろう。それは以下のサイトが明らかにしているようにもみえる。

誰もが思い込みで動いているという衝撃 | 涅槃の書 (nehan.xyz)


このサイトの内容からわかるように、人間は多種多様の思い込み、物質界への期待と憧れで動き、動かされているのだが、それはその人が自分で気づいて、理解するまで続けられるもので、他者からみればどうでもいいことなのである。つまり、グルジェフに語らせるならば、例えば、巷の、総裁選などは、人生から学べない人間の権力闘争の遊具で、ネズミが回し車で遊ぶ、のとなんらかわりがない、と答えるだろう。

つまり、ほとんどの地球人は、この地球上で、眠ったままに、「現を抜かしている」のである。それはフェルミ統計のなかで、物質的幸福を外に求める、椅子取りゲームでしかないのである。だから、せめて、この誰かが占有する、このフェルミ統計ゲームから抜け出て、ボーズ統計、身近な例でいうなら、光のように、どの物質も万遍なく、照らし出し、価値観を共有する状態にまで、自分を創造していく必要がある。

シュタイナーは、電子は光が凝縮した状態だと述べているが、だから、電子の凝縮状態を解放し、光に昇華させるのが、現代人の課題なんである。

ボース統計 | 天文学辞典 (astro-dic.jp)

ボース分布関数 - Wikipedia


さて、前回紹介したように、現代人は唯物論に染まり、破壊知識しか持ち合わせていないので、その知識でみえるもの、外見のみを重視して、選出してしまうので、美映えのする、カリスマ性の、詐術性の、嘘で散りばめられた、誇大広告の、中身が空っぽの最悪の人物を選び出してしまうわけなんである。

自らを破壊する存在を、選んでしまうのは、自分のなかに破壊を正当化する何ものかが眠っているからである。政治なんて、利害調整の面倒くさいものは誰かに任せればいい、という考えそのものが、破壊を正当化するものともいえるかもしれない。この他力本願の考えが破壊を正当化している、ともいえる。というのも、逆説的に言えば、面倒くさいことを自分でやることで、自分の能力が向上するからである。

他力本願 - Wikipedia

他力本願 | 仏教語豆事典 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) (hongwanji.or.jp)

いま他力本願という言葉を使ったが、上のサイトによれば、本来の意味は違うらしく、「仏の力、阿弥陀仏の慈悲のはたらき」を他力といい、その仏の力で行うことらしいので、少なくとも、自分の外にある力ではないから、本当の意味では、自分の内にある力で、自力ではないので、自分のなかに眠っている、慈悲の力であるのがわかる。だから、物理的にいえば、電子の力ではなく、光の力であるだろう。

簡単に要約すると、つまり、自力とは、覚醒意識で解き明かした知識のことで、他力とは覚醒意識では解き明かせない、人間の内にある、心のなかの、仏の慈悲の力で、潜在意識のなかの叡智なのがわかる。早い話、他力本願とは、霊能力のことだろう。

しかし、この霊能力は、霊能者でないと使えないので、目覚めていない一般人には何もできないので、他力とは、現代人には、何もできずに、他人任せにしてしまうので、本来の霊能力が、低俗化して、他人任せの意味になってしまったのだろう。

しかし、いずれにしろ、現代人の大きな間違いは、そもそも幸福を外に求めてしまい、最悪の人物を選び出して、それに委ねてしまう選択が、低レベルな腐敗堕落の、政治を生み出しているわけなんである。政治家の中身ではなく、外見に囚われて選出してしまうから、最悪の人物を選び出して、天と地の間に境界をつくり、国境をつくり、同じ人類なのに、互いに論争、闘争、そして戦争をする羽目に陥ってしまうわけなんである。

このような巷の混乱した出来事に付随して、末法の世特有の、仏教沙汰にしょっちゅう出くわす日々の海のなかで、ネットサーフィンはもはや死語となり、相変わらずの、ネットフーテンの寅さんの日々なのだが、棚からぼた餅というような、次のような面白い動画に出くわした。それは「仏教物語」や「ブッダの真実」という以下の動画である。

仏教系の動画というと、創価が関わっているのではないかと一応心配にはなるが、「仏教ものがたり」は創価のようだが、こちらは表面上は違うみたいだが、どこでつながっているかは、自分で判断するしかなく、おカネをとられるかどうかが大体の目安なんだろうが、無料で、怪しい詐欺サイトでもないので、いまのところは問題ないようにみえる。

仏教物語 - YouTube

ブッダの真実 - YouTube


日本では仏教のほとんどが、喜捨という形で、おカネをとっているので、お釈迦さんがそんなことを教えたはずはないので、末法の世でのニセモノである。だから、日本の仏教のほとんどはニセモノなので、ホンモノはほとんどないと思うしかないだろう。この点については、各自で判断するしかなく、それが修行の一環ともいえるかもしれない。

そもそも、おカネがなくても、幸福な生活が送れるようになるのが、お釈迦さんの教えなので、坊主が信者からおカネをとって生活するのは堕落腐敗の末法なんである。坊主自らが、おカネがなくても暮らせる生活をしないと意味がない。

というのも、おカネで生活をしても、霊能力を獲得できないからで、カネ頼みの生活では、誰しも、カネをこの世に残して死ぬわけで、カネがなくなって、あの世にいけば生活できなくなるからである。だから、逆説的にいえば、物質界に依存しない生き方をすれば、それがそのまま霊能力になるわけなんである。

末法思想 - Wikipedia


人智学からもわかるが、乞食のような外的に貧困な生活をしてはじめて、霊能力獲得修行の初歩段階の、根無し草の故郷喪失者となり、仏教では、托鉢という修行ともなっているが、昔の日本社会ならまだしも、現代社会ではカリユガの唯物論に洗脳されて、物質的生活が進んでしまったので、坊主だけで生計を立てるのは、あまりにも仏教徒には酷で、ひもじい生活もままならないので、何らかの仕事をしながら、質素倹約に努めることで、できるだけ、お釈迦さんの教えを守っていこうというのが、出家しない、乞食にならない、在家信者が生まれたというわけなんである。

托鉢 - Wikipedia

在家 - Wikipedia


仏教は極論を廃し、常に中道を生きるのを説き、つまり、いまを生きるのを、大切にするので、霊能力がそれほど身につかない、在家信者も認められる現状ともなっているが、それではやはり本当の意味では修行にはならないので、できるだけ少しづつ、死に際しては、断捨離していくのが望ましいわけなんである。つまり、少しづつ、物質的生活を捨てて、精神的生活を完成していくわけで、あの世に旅立つ準備で、これが本当の終活といえるかもしれない。

断捨離 - Wikipedia


長々と余談を紹介してしまったが、先の動画「仏教物語」などをみて、改めて、お釈迦さんの教えが、「前世からのメッセージ」のマスターたちの教えと同じで、より詳しく説いているのが、わかったわけなんである。それは、幸福は内からくるのであって、外に求めても、一時的なもので、永遠ではない、ということと、いま生きているのを実感し、感謝するのが、幸福を感じる一歩である、ということである。

そして、この、いま生きているという、感謝の力から、阿弥陀如来の、仏の慈悲の力が生じる、ということなのである。これが、現(うつつ)の正体で、現を抜かすとは、いまに生きずに、過去に囚われ、未来を充てにして生きることなんである。つまり、現を抜かすとは、いまを生きていない感覚、意識なのである。

人間は日々に、理想や夢を求めがちだが、いまという現実を生きなくては、それらは幻想で、現実逃避でしかない。これらは結局は、執着心で、いまの自分の不満から出ていることで、自分を否定して、いまを生きていないせいにある。過去の成功や失敗が忘れられず、未来にそれを求めようとしても、いまを生きなければ、単なる執着心であって、自己を否定し続けるだけなんである。

これは巷の総裁選の立候補者たちをみていてわかる。節制生活さえもできない面々が、指導者になっても、何が指導できるのか、果たして、聞いてみたいものである。口から出まかせで、理想論や夢を語っているが、現実は天変地異の連続で、その救済策さえも提案できずに、無責任に実行もしない。この国の現状すらも理解できていない。

要するに、足るを知る、を知らないから、自分の能力を知らないから、いまを生きるのを怠り、執着心が生まれてしまうわけなんである。とりあえず、いまの自分の能力を認め、背伸びをしない堅実な、地道な生き方が、幸福への第一歩というわけなんである。孫子も兵法で語っているように、自分を知るのが大切なんである。

彼を知り己を知れば百戦殆からず - Wikipedia

いまの自分の現実を知る事からはじまるが、それはローマは一日にして成らず、という諺もあり、夢や理想を求めるには、まずは足元を見直し、毎日を感謝して生きる、その延長上にあるのを、自覚しないと、執着心に、誘惑に取り込まれてしまうわけなんである。お釈迦さんの仏教の教えでは、自分の日々の生活を見直すのがまずは、幸福への一歩というわけなのである。

先に紹介した動画「仏教物語」では、いまの政治家を代表する人物を紹介していたので、以下に紹介する。

「その人は性根が腐っています」ダヤーという人物の物語である。

【激ヤバです】その人は性根が腐っています。ブッダの生き方 - YouTube


ダヤーは、物質的な富を追求し、結局、その欲望に負け、欲望のために死んでしまう。まるで、現代の政治家そのものといえる。物質的な富を追求し、生命を失った元総理もいたよね。票稼ぎのために、統一教会と仲良くしていたようである。人生は、自分の学びのためにあるわけで、何を学んだのかも疑問だった人物である。

さて、ダヤーのような不幸な人物を反面教師にして、自分の日々の生活を見直すのがまずは、幸福への一歩で、それは以前、スヌーピーの名言で紹介した、「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどうゆう意味であれ」というセリフを髣髴とさせるが、配られたカードが、正に自分の能力であって、自分なのだから、スヌーピは、こころないルーシーの差別発言の、「なんであなたは犬なのか?」の疑問に対して、犬である自分について、不満をもたない、自己否定しない、ウィットに富んだ返しをしているセリフなんである。

人生がハッピーになる!スヌーピー名言集「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどうゆう意味であれ」|心に響く言葉・やる気が出る名言 (motivation-up.com)



スヌーピ―の素晴らしいところは、他人と自分を比較しても、違うのは当たり前で、それが個性で、例えば、なぜ自分がドラマの主役ではないのか?という不満と同じで、この応えは、自己肯定をうまく表現している、更に、もっと良い答えは、「犬だってまんざらではないさ、素晴らしい匂いを嗅ぎ分け、生きられるからね」というセリフも考えられる。ともかくも、スヌーピは、主人公チャーリーブラウンの飼い犬の脇役でありながら、主人公を超える世界的人気を獲得している点で、スヌーピーがもし犬でなければ、多くの人に幸福を与えていなかったかもしれない。

だから、「ねぇ、ルーシー? 僕が犬でなければ、この連載も終わってたかもしれないよ。チャーリーブラウンとルーシーだけの世界じゃ読者は満足しないよ」というセリフを続けて、返すべきだったのかもしれない。実際に、スヌーピの登場からピーナッツという漫画は人気になったようで、言葉をしゃべる犬は漫画の世界だが、スヌーピに限らず、ルーシーも時と場合により、次のような名言を残している。

「わたしの人生よ、それを生きなきゃならないのはわたしよ!」
「あなたのいけない所はね、自分を信じないことよ!自分の能力を信じてないのよ!」

このように、ルーシーも名言を残しているのだが、ルーシーが語ると、キャラの性質上、読者には、あまり響いてこない。このルーシーのセリフを、スヌーピ―に語らせると、哲学的に聞こえるから不思議でもある。

「自分は犬だ、犬として生きなければならない!」「君という人間のいけないところはね、自分を信じないで、自分の能力を信じないところだよ! 犬は犬の能力で生きるだけだからね」

とスヌーピーの言葉に変換すれば、なぜか、犬に話されるほうが、言葉に説得力が増す感じがする。このピーナッツのなかの、スヌーピーというキャラは、ドラえもんにも通じるところがあるが、ドラえもんは、言葉ではなく、道具で叶えてしまうところがコメディなので、大きく異なる。

このスヌーピーのような哲学を語る犬のモデルは、もしや、犬と呼ばれた古代ギリシアのディオゲネスではないか?と想ってもいる。このディオゲネスは、お笑い芸人の元祖とでもいえる存在で、とにかく、自らの境遇に不満など一切もたずに、幸福に暮らしている逸話が残っていて、あのプラトンと度々哲学的問答をして、「狂ったソクラテス」と評されているのが、非常に面白い。

ディオゲネス (犬儒学派) - Wikipedia

かつて犬のような哲学者がいて、いまのスヌーピーになったと、個人的には信じているのだが、どんなに苦しい境遇でも、笑い飛ばして生きる、強い精神力は、以前紹介した、NHK朝ドラの、「おしん」にも通じる生き方でもある。まるで、前世からの自分の因縁を知っていたかのようでもある。

カルマの法則と輪廻転生では、前世の自分の振る舞いが、現世の自分をつくるのだから、現在の境遇をつくったのは、正しく自分なんである。だから、文句を言ったり、過去に囚われ、未来を充てにして、いまを生きないのは、自分を生きないことで、自分への罰当たりでもある。自己否定を続けて、いまを生きないと、またいまの自分に将来も出くわし、更に自己否定を続けて、最後は、自分を失ってしまうわけなんである。

ついには自分がわからなくなり、自分とは何だろうか? 自分は死んで無になったはずなので、無なのではないか? しかし、無なのに無でない感覚は何だろうか?と無の堂々巡りに陥るわけなんである。

無の堂々巡りに陥らないように、というのも、地球人は、悪魔に支配されているからだが、だから、前回から続けて、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。

              ★       ★       ★

ゲーテのファウストから

現代人は、唯物論という悪魔が与えた知識に従って、実際には、悪魔を地に招来しかねない最も重要な地位に、最悪の人間を選ぶ、という傾向に支配されている、というのは、現代にとって、苦い真実だが、現代の著しい権威信仰と朦朧とした日和見主義に陥らず、世論に左右されないなら、この苦い真実は、現代人にも認識されるだろう。

19世紀の哲学者の見解によれば、世論は、私利私欲による排泄行為にすぎない。汚物まみれの下水源から吐き出された世論の影響を受けなければ、何が問題なのか洞察できるはずである。

最悪の人物が、いわゆる世論によって崇拝の対象にされている。最悪の人物が選ばれている、のを洞察し、もっと徹底した人生観を育成しなければならない、のを明らかにしなくてはいけない。

公職は、悪魔アーリマン、ゲーテのファウストから引用するなら、メフィストフェレスにより占められている。「ファウスト」のなかに、メフィストフェレスの職務の代行ぶりが描かれている。ファウストは、生涯の終わりになって、ようやくメフィストフェレスから解放される。

ファウストは皇帝の宮殿にきて、以後の時代にとって、非常に重要な発明をする。彼は紙幣を発明する。それから、人工知能ホムンクルスにより、古代世界へと導かれる。ホムンクルスは、メフィストフェレスの支援により、出来上がったものである。

それから、ファウストは軍司令官になり、戦争をする。その戦争を指導しているのはメフィストフェレスである。ファウストは最後になって、だんだんとメフィストフェレスから解放されていくのが、描かれている。

ファウストは教授職をやめた後、官職に就かずに、世界を彷徨う。「メフィストフェレスが彼のそばにいて、悪の力を送り、今日の、人類の生活のなかに、作用させている」と言わねばならない。これが第1に注意すべき霊的な真実である。

第2に注意すべき霊的な真実は、「カルマの法則から、人類の生活のなかに、作用するものを、人間の潜在意識のなかで、正しく認識するのは、非常に困難である」ということである。この潜在意識=無意識の、領域にも、自然科学は、発展して、「科学的」な精神分析を駆使して、到達しようとしている。

しかし、自然科学の唯物的方法で、心魂のいとなみを考察するほど、著しい誤謬が生じる。学問の方向性が間違っているので、人間の心魂のいとなみを、唯物的に考察しようとするからである。人間の心魂のいとなみは、上層の、覚醒意識に現れるだけでなく、その下層の、潜在意識でも多く活動しており、その活動が、覚醒意識にも、波のように打ち寄せるのを、いまの学問も認めている。

以前の霊的な考察で、潜在意識に存在する具体的な活動を挙げた。紙切れを燃やせば、煙が排気孔に押し寄せる。この紙切れのようなものが、覚醒意識の下の、奥底の潜在意識のなかに、多く沈んでいる。

「心理学に取り組んでいる人のなかには、暗い潜在意識のなかの心魂の能力や、その能力の不足を、心魂のいとなみを説明するのに、持ち出して、用いないといけないと予感している」ともいえる。ただ、このような見解は、霊界を想定していないので、霊的な真実とは、アベコベの誤謬を主張することになるだろう。

確かに、自然科学的な心理学の観点から、人間生活の発展を眺めることができる。心魂が、幸せ、不幸せ、嬉しい、苦しいと感じるのを、覚醒意識から無理に説明しようとしなくなっている。代わりに、心魂を、教育的に解明しようとしている。たとえば、日常の表象では、忘れられている、かつて体験した喜び、苦しみ、失望を、心魂のなかに探求しようとしている。

忘れられているのは、消え去ったのではなく、潜在意識のなかで、グルグルとめぐっていると考えている。

(現代人は、脳を電気回路として考え、感情が、この電気回路から起こるものと考えている)





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Last updated  2024年09月24日 15時36分33秒
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