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カテゴリ:神秘体験空間
「はたらけど、はたらけど、猶わが生活(くらし)楽にならざり、ぢっと手をみる」という短歌をつくった石川啄木は、その伝記によると実際は、この短歌とは、ギャップ(職を転々とし、女性問題、借金問題に追われる日常)のある生活をしていた、というのは、割と有名な話である。
【はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞など | 短歌の教科書|短歌の作り方・有名短歌の解説サイト (tanka-textbook.com) とりあえず、石川啄木にとっての労働の価値観は置いておいて、この短歌を、人智学で再考すれば、労働が生活向上の手段でない、のを明らかにしているのがわかる。つまり、逆説的にとらえれば、いくら労働しても、裕福な生活が身につかないのは、自分の幸福が、そこにはないからで、暮らしが楽にならないのは、前世の自分の振る舞いに起因しているからで、労働で与えられる金銭で、幸福(一時的には得られるが、永遠ではない)を得ることはできず、つまり、幸福が内からくる真理を物語っている、句といえるわけなんである。 だから、恐らく、「ぢっと手をみる」というのは、半ば諦めの境地で、自分の人生の運命を、手相に委ねたのかもしれない。自分の手相の、金運でも調べてみたのかもしれない。とにかく、手をみて、「自分の人生って、何なんだろうか?」と問いかける短歌である。喜劇的にいうなら、前世が裕福だったからだよ、という答えがでるかもしれない。前世が裕福だと、今度は貧困に生まれてくるからである。 このように、人生には何度も逆境ともいえる、障害といわれる、行き詰まりが準備されている、順風満帆であったら、人生からは何も学ばないからである。職業や仕事がなければ、嫌な人とも話さないで済むし、思い通りにいかないからこそ、人生を生きる意味がある。 かの天下人の、徳川家康だって、人生は重い荷物を背負って歩くようなものである、と言ったようにされているわけなんである。 人生は、思い通りにいかないし、至る所に障害が張り巡らされている、障害競走のようなものかもしれない。戦争はなくならないし、政治家のような、権力で、他人を支配しようとする自己顕示欲が強い人も沢山いる。以下のような、他者を犠牲にし、自らの目標達成を目指す悪魔のような、自分さえ良ければいいという人などに、職場で関わったら、ぢっと手をみるどころか、生命がいくつあっても足りないブラック職場と化すだろう。 他者を犠牲にし自らの目標達成を目指す「危険」なマキャベリ的人物、2つの特徴(Forbes JAPAN) - Yahoo!ニュース このような悪魔のような人物と遭遇すると、職業が行き詰まり、過労死などで、人生も行き詰ってしまう。特に、日本社会の場合は上下関係が厳しいので、先輩や上司にこのような人物がいると、人生が行き詰まりを迎えてしまう。自分も半世紀も物質界を生きてきたので、このような人物は、結構多く、自分を賢いと思っている節があり、他者の意見を一切聞かずに、自分の価値観を押し付けてくるので、随分と苦労させられた。このような行き詰まりの場合は、とにかく環境を変えるしかない、と思われる。シュタイナーの「職業のカルマと未来」の本を書いた訳者の西川隆範氏が、この本の冒頭で、自身の職業経験を載せているのだが、なかなか参考になる。その序論で、西川氏は、マックスウェーバーを紹介しているのだが、ウェーバーは、職業を神から与えられた使命と捉え、禁欲的に労働する近代西欧人の生活態度がプロテスタンティズムに由来し、その生活態度が、合理的な営利追求という資本主義の精神をつくった、と考えたという。 つまり、神に仕える精神で職業に奉仕すれば、その奉仕の精神が資本主義の合理的な営利追求となり、アダムスミスの、神の見えざる手と同じような、市場原理の合理的な営利追求となる、というわけなんである。神の見えざる手とは、以下のサイトを参照に。 ☆ ☆ ☆ K.Kawabata_courses (kobe-u.ac.jp) 今回はアダム・スミス(1723-1790)という人についてのお話しです。アダム・スミスは「近代経済学の父」と呼ばれていて、現代の経済に多大な影響を与えた人です。『国富論』(「諸国民の富」とも呼ばれる)を書いた人としても有名です。この『国富論』については、いくつかの重要なポイントがありますが、特に有名なのは「神の見えざる手」と言われるものです。これは「市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成される」とする考え方を指します。つまり各個人が利益を追求することは、一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるけれども、あたかも「神の手」によって導かれるように、社会全体の利益となる望ましい状況が達成されるというものです。これは「市場メカニズムを重視する」考え方で、現代の経済学の基礎となっています。 ☆ ☆ ☆ このアダムスミスの、神の見えざる手とは、現代人は唯物論に染まっているので、神を、モノを支配する市場の悪魔に解釈し、利益を、主に金銭の貨幣などの物質的な信用手形とみなしているから、人間同士で殺し合う戦争沙汰にもなってしまうわけで、ウェーバーのプロテスタンティズムからわかるように、神というからには、その利益が、愛や慈悲に相反しないものでなくてはならない。 つまり、早い話、職業が金銭を巡って対立を起こすようなものであってはならないわけで、それでは、悪魔教崇拝になってしまうだけなんである。利益というからには、宇宙全体にとっても、人類全体にとっても、共に愛や慈悲を深め合うものでなくてはならないからである。端的には、一人勝ちであってはならないわけで、ウインウインの特定の二人勝ちの癒着でもよくない。全員が負けない、敗者のないシステム変換が肝要なのである。 どういうことかというと、モノではなく、心の発展でないと意味がない。利益とは、愛や慈悲が深まらないと意味がない。愛や慈悲の感受性が高まらないとダメなんである。つまり、アダムスミスが、求める市場での自己の利益も、ウェーバーが、求めるプロテスタンティズムの資本主義の精神も、共にそこに、カルマの解消と輪廻転生がなければ、絵に描いた餅なんである。 カルマの解消が、今生の自己の人生の目的で、だから、自己の利益になるわけで、自己の職業に、プロテスタンティズムの資本主義の精神が生かされるには、自己の職業が、前世での自分の行為に由来しているからこそ、禁欲的な奉仕の精神が、キリストの説いた、富を積むのなら、天国に積むべきである、に叶うわけなんである。早い話、いかなる職業も、宗教にならないとおかしいわけで、それは金銭だけを求めるのではなく、自分の愛や慈悲の精神を高め、深めるものでなくてはならないわけなんである。 だから、職業や人生に行き詰まっている場合は、信仰から外れていることを意味しているわけなんである。そこで、ウェーバーの説く、プロテスタンティズムの資本主義の精神では、「神に祈って、働きなさい」というわけで、この場合の神とは、今の現世の、自己をつくった、過去世の、自己のなかの、カルマによるバランスの自己のなかの核のことになる。この本来のプロテスタンティズムが、悪魔教となってしまったのは、カルマと輪廻転生が抜け落ちてしまい、現世だけの一回の地上生だけしか、考えられなくなってしまったせいと、シュタイナーは何度も指摘している。 このプロテスタンティズムが、仏教の在家信者の意味でもある。簡単に紹介すると、「日常生活と別個に精神修養があるのではなく、一心に仕事に打ち込んでいれば、悟りは開ける」というわけなんである。この「一心」とは、勿論、自分だけの、金銭的な、モノ的な利益だけではなく、それらの全体を生かそうとする、宇宙全体の発展に寄与することなんである。 一心で打ち込んでいなくても、人生には、至る所に罠や障害が張り巡らせられていて、思い通りには、生きられないようになっているわけなんで、実は、この一心は、多心でもあり、多心を高め深めていくと、一心に結びついていくわけなんである。だから、一心というよりも、人生を生き続けようとする自由な意志とでもいうべきかもしれない。悪魔の罠や、障害を乗り越えて、自由に生きる、クリエイティブな心、愛と慈悲を感じ、高め、深める心というべきかもしれない。 さて、西川氏は、序論で、続けて、シュタイナーによる、ゲーテの職業観を紹介しているが、ゲーテは、若い秘書エッカーマンに、「有用な仕事に力を集中して、君の為にならない仕事は、全て放棄したまえ」とアドバイスしているという。そして、ゲーテ自身も、多面的な洞察を得ようと努め、活動面では、ただ一つのことに自分を限定したという。 また、ゲーテは、「自分の本領にとどまって、能力以上のことはしない。生産的でない日や時間には、むしろ雑談や居眠りをしたほうがいい。そんなときにモノを書いたりしても、後で、嫌な思いをするだけだ」などを述べているという。つまり、ゲーテもネタ切れのときは、雑談や居眠りをしたわけなんである。 ネタ切れといえば、随分前にTVのニュース番組で、ネタ切れのときにはどうすればいいか?の話題で、三谷幸喜氏は、「ホテルのベッドと壁の間に挟まって寝る」と応えていたのが、いかにも喜劇作家らしい、ネタ切れとの格闘が喜劇になっているが、終いには睡魔に負けて寝てしまうわけで、ネタ切れのときは、とりあえず寝るしかないように思われるが、色々な意見も調べる意味で、ネットでググってみると、以下のような、主に漫画家だが、色々な対処法がみつけられる。 ☆ ☆ ☆ アイディアの出し方のコツ ネタ切れを克服できる3つのB - ログミーBiz (logmi.jp) 「横になり目を瞑る」「お風呂に入る」など、音楽や映像など余計な情報がない状態で思考を巡らせると、さっきまで思いつかなかったアイディアがすっと出てくる時があります。机に向かって出るアイディアは、あんまり期待できないことが僕は多いです。ネタに詰まった時は、知らず知らずのうちに影響を受けるのが怖いので、なるだけ仕事から遠い事をやります。 1,一旦作業から離れて、映画を観る、街に出るなど他のことをしてみる。思いもよらぬところからヒントが降りてくることがあります。 2,人と話す。「こういうところで詰まってるんだけど…」という話題から始めて、連想される漫画の話、最近読んだ本や観た映画の話、お互いの体験談など、話を広げていきます。すると、思わぬタイミングでネタが降ってきたりします。 1と2どちらも、楽しみながら「視野を広げる」「インプットする」ための方法です。 漫画のネタ出し・詰まった時の対処法【漫画家調査レポート】|マンナビ マンガ賞/持ち込みポータルサイト (mannavi.net) 有名なやつなんだけど、「アイデアが出る3つのB」ってやつ知ってる? 結構コテコテで有名なやつなんだけど。俺、本当にそうだと思ってて。1個はBusね。移動中。車に乗ってる時。あと、Bath、風呂。あと、もう1つ、Bed。寝てる時、寝起きってところ。アイデアってどうしたら良いかって、これすごくおもしろいんだけど、基本的に血流なんですよ。だから、ここが(首の後ろ)が詰まってるとアイデアが浮かばなくなる。 スピリチュアルの人はよくね、ここに(首の後ろ)に入ってくるとか言うじゃん? 僕は昨日ヨガに行ってきたんだけど、ヨガに行くとここが(首)が通るんで、アイデアがすごく湧く。 ☆ ☆ ☆ 上の、Bus、Bath、Bedの3つのBには、私も経験上、助けられた思いがある。共通するのは、気分がリフレッシュされるとき、つまり、バスに乗っているとき、風呂に入ったとき、ベッドで寝起きたときなどの、睡魔に襲われ、ふとウトウトしているときに、アイデアが、ふっと浮かんでくるというか、降りてくるような気がする。 シュタイナーは、ドイツの田舎町の風習の、寝起き時にはすぐに日光に当たらずに、数分間、暗闇のなかで、想いにふける、のを紹介し、そうすると、天使たちからその日一日の生活への助言が与えられ、アイデアが、思い浮かぶ、と推奨している。これは、例えば、スポーツでのタイムアウトの作戦会議みたいなものといえるかもしれない。 現代社会では、自給自足はかなり困難なので、生活費を稼ぐためには、働かざるを得ないが、働き続けるには、仕事についてのアイデアは必要不可欠で、だからして、3つのBなどの、天使たちの陰からの助言が必要不可欠なのがわかる。私の場合は、いまは、「前世からのメッセージ」のマスターたちの助言である。 『「前世」からのメッセージ』のマスターたちによれば、人間は自分自身を四角い氷のように、一人一人が物質的に分離した存在だと思い込んでいる。しかし、実は、人間はみな互いにつながり合っている、同じものなのである。 だから、自分と同じバイブレーションを持つ人とだけつきあっていればよいというわけではなく、自分と同じレベルの人に魅かれるのは当たり前の話で、しかし、それだけではいけない。自分のバイブレーションとあわない人たちとつきあうのもまた必要なのである。このような人たちを助けるのが、大切だからである。 永遠の道とは、内に向かうもので、これは外に向かうものよりも困難な、苦痛の多い旅である。人間は、自分の内なる喜びの感覚に全責任を負っている。 内なる喜びの感覚に全責任を負うために、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★ 前世の仕事 夢のなかで、訂正者が、起きているときに行われた教育を、訂正するのを通じて、指摘したいのは、人間の霊魂のなかに、全てが存在し、それが受肉から、次の受肉へと進んでいく、ということである。ある受肉から次の受肉に作用する力の源泉があり、この力の源泉である、霊魂の核と、生まれてから死ぬまでの人間の生活との間にどのような関係があるのか、よく考察する必要がある。 人間はいわば四弦の楽器で、カルマが演奏される。自我、アストラル体、エーテル体、肉体(物質体)の四弦から、演奏されるわけである。四弦なので、バイオリンと同じなので、バイオリンで譬えてみる。カルマの弓に擦られて、4つの体の振動による組み合わせで、音楽が生まれ、個人の人生が音色として奏でられる。多様な音色で、この四弦が演奏される。 空虚な一般的な抽象論ではなく、具体的に語ろうとすると、人間の生活のメロディーを解説するのは非常に困難である。カルマの弓が、人間の四弦をどう演奏するか、を見れるときにのみ、実り豊かに解読できるからである。その際、地上生での一般的な観点も考慮しなくてはならない。 「人智学観点からの子どもの教育」で書いた肉体と、特にエーテル体が成長する、子どもの成長期を考察する。凡そ、7歳から14歳までの子どもの成長を考察してみる。そうすると、この時期に、特に際立つ特徴が現れるのがわかる。この時期に人体の成長が強まるのがわかる。子どもの成長は複合的なので、生まれてから7歳までのときにも現れるが、7歳から14歳までに明確に現れるので、深く観察できる。 身体や振る舞い全体を通して、はっきりした特徴がこの時期の子どもに現れる。姿勢、身振り、生活態度などの表現が、振る舞い全体に、例えば、ずんぐりした姿、短躯、長身などや、しっかりとした足取り、踊るような歩み方などである。 子どものときの成長の全部ではないが、大部分は、前世の職業のカルマの作用に由来する。この霊的な事実を無視し、日常生活の表面に現れる姿勢や、振る舞いによって、職業を決めようとすると、間違いを頻繁に犯すだろう。その子どもが前世で就いていた同じ職業に就かせようとすると、過ちを犯し、その子のためにならない。この子どもの成長期にみられる大部分が、前世の作用だからである。 (前世とは異なる人生を送るために生まれてくるわけで、同じだとまた同じ過ちを繰り返すので、千日手で、無意味だからである) この子どもの成長期の前、もしくはその後に、特にアストラル体が現れる。そして、アストラル体は、現れる前に形成された肉体やエーテル体に作用する。人智学を知っていれば、それが外的な物質界でも観察できる。7歳から14歳までの子どもの成長期に、職業のカルマを通して純粋に現れた肉体やエーテル体を、アストラル体は、他のカルマの作用によって改変する。 つまり、人体のなかに、相反する二つの力があることになる。一つは、一回きりの人生の、現世に沿って人間を形成する力で、エーテル体に由来する。もう一つは、この力に対抗し、部分的に、中和し、無効にする力である。このアストラル体に由来する力を通じて、前世からくる職業のカルマが構築した人体を改変する。 だから、「エーテル体は、形成的に作用する。アストラル体は、改変的に作用する」のがわかる。肉体の振る舞い、姿勢は、エーテル体に由来する。実際に激しく争っている、この二つの力を通じて、職業のカルマの作用が表現される。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024年10月16日 14時40分53秒
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