WSK🇦🇹G・Gruber🇦🇹
元ウイーン少年合唱団のカペルマイスター Dr. Georug Gruber(1904年~1979年)合唱指揮者。1904年7月27日オーストリア・ハンガリー帝国のウイーン生まれ。オーストリアの音楽学者、合唱指揮者、作曲家、指揮者。彼は音楽教育に全てを捧げると決め 教会音楽ピアノ、オルガン、グレゴリオ聖歌、教会歌唱、指揮と作曲を学びました。1924年に設立されたウイーン少年合唱団の合唱指揮者7人のうちの一人。1930年に首席指揮者に任命され1932年までヨーロッパ各地で数回のコンサートツアーを企画し、1932年から少年合唱団のカペルマイスターとして北米や南米にコンサートツアーをした。(第一次世界大戦後)1937年、彼はブルクカペレの学長で教会会長のヨーゼフ・シュニットとの意見の相違によりウイーン少年合唱団を辞任。ウイーンモーツァルト少年合唱団(今のモーツァルト少年合唱団とは関係がない)を設立し、この合唱団とともにヨーロッパ、アメリカ、オセアニア、オーストラリアをツアーし、交響楽団を指揮する機会を捉えた。第二次世界大戦が始まった時グルーバーと少年達はオーストラリアにいました。彼は平和的な意図で入国したが、ドイツ帝国との戦争状態の為オーストラリア政府の「客人」となり、少年達はメルボルンの大司教の後援を受け聖パトリック大聖堂少年合唱団の中核を形成し、ホストペアレントを割り当てられた。グルーバーはこの大聖堂少年合唱団を指揮する一方、1941年まで教員養成大学で学校音楽を教えることも許された。(オーストラリアの少年合唱団の基礎を作ったのではないかと思います。)その後日本軍がニューギニア島を占領した為ドイツ人と同じ敵性外国人として収容所に収監され収容所の中でオーケストラのリーダーになりました。第二次世界大戦の数年間オーストラリアで生活。(色々と苦労があったのでしょう、でも音楽があったから頑張れたのでしょうね)終戦後彼は世界クラスの少年合唱団を設立する為にオーストラリアへの滞在を申請したが受け入れられず 47年にオーストリアへ強制送還された。少年達全員は移民を許可された。(此の少年達の話はPonkoさんのブログに詳しく載っていました。)オーストリアに戻った彼は音楽活動を再開ザルツブルクに移住、49年にはザルツブルク音楽祭の指揮を務める話もあったがシュニット学長(WSK)の反対により話は無かったことに。しかし本国へ帰ったグルーバーは精力的に音楽活動を行った様です。(シュニット神父はどうしてそういう事をしたのでしょう?)その後1953年に南アフリカへ移住して南アフリカの合唱の分野の先駆者となったそうです。数年前「ドラケンスバーグ少年合唱団」についての話を聞き(聞き間違えかもしれませんが、ドラケンスバーグ少年合唱団の創立当時ウイーン少年合唱団の先生が指導をしていたと⋯?)ドラキーズにも繋がっているのではないかと想像してしまいました。昔、南アフリカ演奏旅行もウイーン少年合唱団は行っていました、今も南アのツアーをやっているかどうか知りませんが⋯。グルーバー先生は1979年9月5日に南アフリカ ケープ州ファート・ビューフォートでその生涯を閉じたそうです。⭐️グルーバー先生は映画音楽も作曲「歌う若者ー小さなストリートシンガー」1936年、1950年1月に初上映。 映画の中でウイーン少年合唱団が歌っていた「歌えば楽しい」(日本名)はその映画の為に作曲した様です。ウイーン少年合唱団を辞める一年前に作曲?余談⋯映画「野ばら」は、「小さなストリートシンガー」が元になっている。「野ばら」の中で歌われている曲は「歌声響けば」ノイブライト作曲。「小さなストリートシンガー」の中で歌われていた『歌えば楽しい』(日本名) 後に1959年の映画「朗らかに鐘は鳴る」の中で再び歌われています。「◉「歌えば楽しい」(日本名)HNKみんなの歌1963年5月放送・歌)東京放送児童合唱団「◉「あふれる若さ」(日本名)NHKみんなの歌1966年4、5月放送・歌)西六郷少年少女合唱団作曲した曲は探せばまだあるでしょね。書籍もある様です。⭐️モーツァルトの研究者だったそうです。(論文も書いている)「フェルディナンド大公のインスブルク宮廷楽団におけるドイツの歌」という論文で音楽学の博士号を取得。音楽大学での指導者の論文はグルーバー先生の論文などが参考資料として使われる事もある様です。単なる合唱指揮者ではない様です。グルーバー先生は音楽史や合唱教育などに力を注いでいたのにどうしてシュニット神父との意見の相違でWSKを辞めてしまったのか?意見の相違とはどんなものだったのでしょうか、今となっては知る由もありません。シュニット神父との意見の相違があってWSKを辞めたおかげでオーストラリアや南アフリカの合唱教育に力を注ぐことができたのでしょうね。南アフリカの合唱音楽というも書き物もある様です。ここでグルーバー違いのL・Gruber氏の曲(オーストリア民謡) 映画「野ばら」でも歌っていた。歌はウイーンの森少年合唱団。「私のママはウイーン生まれ」(みんなの歌では「ワルツは素敵」となっていました。)グルーバ先生の指揮の元当時のWSKの歌声です。ここにもあるようにB面ですね。残念な事に私は買いそびれました。またヤフオクに出てくるかも⋯。当時のWSKの指揮者?の名前が掲載されています。G・Gruber作曲の「あふれる若さ」此の曲は多分オリンピック用に作曲したのかな?と勝手に想像しています。⭐️グルーバー先生がオーストラリアにいた頃(第二次世界大戦) ユダヤ系で初めてウイーン少年合唱団へ入ったゲオルグ・ティントナーという(ブルックナーを指揮する第一人者)音楽家がニュージーランドへ。(当時ナチの為に多くの音楽家が国外へ⋯)此の指揮者はウイーン少年合唱団でブルックナーの弟子のフランツ先生に指導を受けウイーン国立音楽アカデミーでピアノ、作曲を学びフォルクスオパーで仕事をしていた。(きっとオーストリアにとっては将来有望な指揮者だったのでしょうね。)ユダヤ系である為ナチスによるオーストリア併合により職を失い出来るだけ遠くでの職を探してニュージーランドへ。戦後、オーストラリアのオーケストラ指揮者、南アフリカのオーケストラ、イギリスのオーケストラと滞在は短期間だったそうです。最後はカナダのオーケストラへ。ブルックナーのレコーデング(大作)をし 日本へも2000年に来る予定でしたが前の年に亡くなったそうです。大変残念です。同じ名前のゲオルグさん達は戦争の為に人生を狂わされてしまいました。戦争さえなければ⋯。