直木賞作家の伊集院静さん。酒やギャンブルを愛し、無頼派とも言われたが、その言葉は多くの人を励まし元気づけた。
伊集院静さんを偲ぶ 「伊那谷への旅」
出典:『一度きりの人生だから』 p95~p100 伊集院静 発行:双葉社
俳人、井上井月(いのうえせいげつ)が三十数年を過ごした長野の伊那谷へ、つい数日前に訪ねてみた。(略)
岡谷から飯田線に乗り換えて、伊那谷へ入った。(略)
線路は川と平行に走っている。
隣りの高校生に、あの川は何という川か訊くと、天竜川、と応える。
---もしかして、このまま太平洋に流れ込むってことか?
すると私はすでに南アルプスの高地から少しずつ下りはじめているということになる。
川岸、辰野、宮木、伊那新町……ようやく伊那の名前が出る。
羽場、沢、伊那松島、木ノ下、北殿(何やら珍しい名前が多いナ)、田畑、伊那北、そして伊那市で下車をした。
三時間半、電車に乗っていた。
春日城跡へ行き、町を見下ろす。
- 何もないナ……。
と思いつつ南アルプスの方に目をやれば美しい峰々が連なっていた。
---そうか、やはり山の方から少しずつ太平洋にむかっているのだ。
また電車に乗り、駒ヶ根で下車。
こちらは町らしい町である。
さて井上井月にゆかりの場所はあるのだろうか、と駅の構内の案内を見上げたら、
すでに帰路の支度をしないと、今夜の銀座の待ち合わせに間に合わない。
- いったい何をしに来たんだ、私は?
首をひねりながら岡谷へむかい、中央線でスーパーあずさ28号に飛び乗り、東京を目指した。
甲府で赤富士を見たかったが、すでに陽は暮れていた.
七時三十分過ぎに新宿へ着き、急いで銀座にむかった。
何処やらに 鶴(たず)の声聞く 霞かな
これは井上井月の辞世の句だ。
何処やらに ベルの音聞く 春日かな
失礼しました。
出典:『一度きりの人生だから』 伊集院静著 p95~p100