いい言葉に出会ったので、メモ代わりに残しておきます。
池田晶子さんの言葉です。
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「わからない」から考える
私は、「わかる」とは「常識」をわかることなのだと言った。聞き慣れた言葉で言えば、その名を「分別」、気取った言い方をするならそれは、「良識」。
オウムの人々が無分別なのは一目瞭然、では、分別「くさい」顔をしたじつはそれだけの人、これは何か。
分別くさい顔をしたただの良識派、そういう人と話をしていて、つまらないなあと私は感じる。それは彼らが、「常識」をわかりきったことと思っているからである。そう、「わかる」とは常識をわかることだと私は言った。しかし私は、「わかる」とは「わからない」とわかることなのだとも言った。無分別な狂信者との間に対話が不可能なように、分別「くさい」良識派との間でも、対話はやはり、進まない。それより先へと展開していかないのである。
「わかる力は愛である」
「わかろう」という意志、これは何か。言うまでもない、優しさである。わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、ほかでもない、愛である。愛のない人にはわからない、愛のない人が、わかっている以上のことをわかることはあり得ない。なぜなら、最初から、わかる気がないからである。わかる気のない人に、なぜわかるわけがあるか。愛していないものを、なぜわかる気になれるか。
齢(とし)をとらなきゃわからない
とか、
君にはなんにもわかってない
といった、自らする線引きの非論理性と狡(ずる)さとを私は憎んだ。それで、どうしてほしいのよ。なら、
君は私でないからわからない
と言い合ってごらん。
わかる力は、愛である。えてして人は気づいていない、真の知力とは愛であることを。
わかる力という愛は、言い換えれば「覚悟」なんだろうなーと思います。
留学前にもこの言葉を読んでいたのですが、
いろいろ体験した今、全然実感が違って、この言葉が身にしみて響きます。