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テーマ:ニュース(99895)
カテゴリ:雑学
私は母と小学校2年の時に両親の離婚により離れ離れになりました
当時は友達にも話せず兄弟だけの『秘密』みたいにその事に触れずに 生きてきました。母には何の罪も無いのに飲んだくれの父が・・・・ 今で言うドメスティックバイレンスで毎日々母を責めていて、耐えられなくなり 家を追い出されるように出ていきました。 そんな母が私が高校2年生の時の夏休みの時に親戚のおばさんと突然 訪ねてきた時の事を33年前の今でも鮮明に覚えています。 私は机に向かい勉強してました。 伯母さん『まーちゃん(幼少の頃の私のあだ名)今日お母さん連れてきたの 逢って貰える?』 私 『親父に悪いから逢いたくない!』 と本音は逢いたかったけどそう言ってしまいました。 だけど母はそんな俺の気持ちを察してか、勝手に入ってきました でも俺は母の顔見ること無く背を向けたまま涙をこらえていました 母 『まーちゃんごめんね』 母 『お母さんの事ごめんね!』 母 『元気でやってるの?』 私 『俺の事なんか心配いらない!ただ君枝(妹)が可哀想だよ』 母 『そうだよね!お母さんがいけないんだよね』 涙ながらにひたすら謝る母とひたすら泣くだけの俺がそこいました 母 『これなんかの足しに使って!』 とお金を置き帰ろうとする母 私 『お金なんかいらないよ親父にバレたら大変だからいらない』 また来るからね!の言葉を最後に母は帰りました。 住んでる場所も電話番号も聴かなかった私自身が最も非情に冷たい人間と 知りました。 それから15年通算24年経過した時に風の便りで母の所在を知り俺は居ても 立ってもいられず母の元へ、行った日は丁度留守で翌週再度逢いに行きました さだまさしさんの『無縁坂』ではないですが、母は今僕よりも小さくなった! まともに見たのが24年ぶりでまるでタイムスリップしたみたいに・・・・ 一見して母とわかりましたが、別人のように小さく老けていていました。 私 『お母さんごめんね!俺と兄貴がもっと大きかったら こんな不幸にならなかった』 と謝り 母 『もう逢えないかと思っていたから母さん嬉しい・・・』 そしてそれこそ24年間分の話をして、親父もクモ膜下出血後の後遺症で 植物状態で家に帰れないし、母と同居しようと妹にも声掛けマイホームに 呼びましたが妹は 妹 『逢いたく無い』って 私 『どうして?なんで?・・・何と思っても良い俺は母親と暮らす!』 そんな会話が今は懐かしい、24年振りに再会した母と同居の段取りも済み年が 明けた1月7日昭和天皇が亡くなられ、世の中が喪に更けているときの深夜、母 の近所の方から電話があって『発地さんお母さんが今日亡くなられた』との訃報・・ 脳内出血だったそうです。 だから、今回の一連の拉致被害者と遺族の心情察すると計り知れません! だから、国には全員帰国するまで真面目に関わってもらいたい。 テレビで芸能人が離婚・結婚を繰り返したりもしますが、それを見て皆さんは 安易に離婚するような影響だけは受けないで貰いたい。 追伸、こんな私ですがアチーブメントの青木先生に逢ってから、父・母の子に生まれて きた事、本当に感謝できるようになりました。 先生にお逢いしてなかったら自分本位の人間で終わっていたかも知れません 師匠ありがとう お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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