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カテゴリ:スピリチュアル
恥ずかしい話だが、山折哲雄氏の著書を初めて読んでいる。氏は、 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 山折 哲雄 (やまおり てつお、1931年5月11日- )は日本の宗教学者、評論家。専攻は宗教史・日本思想史。国際日本文化研究センター名誉教授(元所長)、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、 平城遷都1300年記念事業評議員。角川財団学芸賞、和辻哲郎文化賞、山本七平賞選考委員。 という人らしい。 大学で宗教哲学を学ぶ人の多くがそうであるらしいが、氏もまた仏教の寺院の息子として生まれた。 ひろさちや氏によると、大学のインド哲学科などに来る学生はほとんどそんな生い立ちらしく、ひろさちや氏はその点、異色だったらしい。 山折氏もインド哲学科を卒業したが、臨死体験やその後の「絶食」による非日常体験を経て、ご自身の考え方がかなり変わった、と著書に書かれている。 そんな氏の「宗教の力」)(PHP新書)というのを、先日日本に行った時に仕入れてきたのでそれを読んでいるのだが、さすがに、というか、なんと言うか、宗教というものを長年見つめてきただけのことはあって、浅学の私など及びも付かないようなことを書かれている。 書かれているが、氏の生い立ちや関心は、やはり「仏教」からの視点で語られている事が多く、一部には見解を異にすることも当然ある。 この本の一部に、なぜキリスト教が日本に根付かないか、ということが書かれていて、その考えられる理由を三つ挙げておられる。 その三つのうち、二つは、「そおかなあ~」という感じだったが、一つはなかなか鋭く、「うん、そういうことは有りうるなあ」と思えるものだった。 考えてみると、クリスチャンでもない私が、教会に通い、そこに来られるクリスチャンの方(日本人)と話をしていても、やっぱり欧米人のクリスチャンとは違う、と感じることが多々ある。 この辺の違いを、日本人に深く根付いている「霊魂感」とか「先祖崇拝」に求め、この深い部分で、キリスト教とは相容れない「感性」を日本人は持っている、という論法だ。 仏教の発祥の地はインドである。 そして日本は、大方、仏教の国である、とみなされている。 しかし、ここで言う「仏教」はインドの「仏教」か、というとそうではない。 もちろん、お釈迦様に発することは間違いないとしても、仏教というものは、その後の弟子達によって、どんどん変化、あるいは発展してきたし、それが中国を経て日本に入ってくると、この「仏教」は劇的な変化を起こしている。 日本人の信じる「仏教」は、インドの仏教やチベットの仏教、あるいは東南アジアの仏教とは根が同じでも、全く異なる。 ひとつには、法然、親鸞、道元、最澄、空海、日蓮など、今の日本の仏教の基礎を確立した宗教家がなぜかほぼ同時期に輩出し、日本独自の「仏教」を生み出してきた。 こういった「仏教」の流れと、キリスト教の有り方を比較すると、その違いは歴然としている。 つまりキリスト教は、今にいたるも「中央集権」的な体質があり、すべては「聖書」に戻り、すべては「西洋神学」に則っている。 それが正しい、間違っている、という議論ではなく、仏教が日本独自に変化を遂げて、深く日本人の間に根を下ろしたのとは対照的に、キリスト教は、日本独自の「日本キリスト教」に発展はせず、今もなお、「世界」のキリスト教(そんなものがあるのかわからないが)に合わせて教えが説かれ、神学が研究されている。 元に戻ると、山折哲雄氏が書いている「キリスト教が日本に根付かない理由」というのも、こういったところに関係している、と思われる。 まだ読み始めたばかりだが、先学の思索のあとを、謙虚に学びたいものだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.12.11 10:58:38
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