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今日は、久しぶりに教会に行って来ました。日本出張中を除いて、3週間も行かなかったのは初めてかも知れません。 なぜかここのところ、土・日が忙しく、行く余裕がなかった、というだけの話ですが。 私が教会に行き始めてから、かれこれ5年以上経っているでしょうか。 クリスチャンでもない私が教会に通うのは、 1. 一週間で一番、精神的に静謐な時が持てるから 2. 過去の偉大な書物(聖書)を勉強できるから 3. いろいろな意味で考える材料を豊富に提供してくれる場だから というような感じです。 聖書は、さすがに2000年の歴史がある本だけに、昔から神学者や哲学者は言うに及ばず、文学や芸術に大きな影響を与えてきました。 それだけの「人類の知恵」的なものを、全く知らない、というのは余りにももったいない。 そんな気持ちもあり、機会があれば聖書勉強会にも参加してきた5年間でした。 ただ、周囲のクリスチャンの方々の期待とは裏腹に、私のキリスト教に対する、いえ、宗教というものに対する見方、考え方は、逆に、それらを部分的に否定する方向にますます行くようになり、今日に至っています。 一言で言えば、キリスト教に限らず、ほぼ全ての宗教において、その恩恵とかめぐみ、もっと即物的に言えば、「ご利益」というものの話しばかりが強調され、あまりにも、その「闇」 「影の部分」 を無視しすぎている、という認識が深まってきたからでもあります。 キリスト教などの「一神教」に、必然的につきまとう、「独善性」と「排他性」。 その中にいる人がいくら「恩恵」を被ろうと、「恵み」を受けようと、この「闇」の部分で人類に災厄をもたらしている事実を、けして、これらの宗教の人たちは認めません。 事実としてそうなのに、けっして認めません。 私には、どうしてそう無視出来るのか、その方が不思議なくらいです。 話が、テーマとしてあげた「存在そのものが罪」というものからだいぶ逸れてしまいました。 本当は、キリスト教の、根本となる「罪」というものに関して、今日の教会で考えたことを書く予定でした。 が、これを書き出すと、この日記の2倍や3倍書いても、間に合いそうもありませんので、またの機会にしたいと思います。 ちょっとだけ覚書を。 人間存在の意義を考えると、私たちは、なんのために、この「世界」に生きているのかを突き詰めていく過程で、必然的に「神」あるいは「あるもの」の意図にぶつかります。 その「あるもの」の意図を考えた時に、この「人間存在」そのものの意味、意義、目的と言ったものがおぼろに浮かび上がってくる気がします(完全には、人間の知性では把握できるものではないでしょうから) その「意図」を考えていくと、キリスト教の言う「罪」の解釈が、聖書に書かれえいることや教会で解かれていることとは全く別の意味をもってきます。 それに照らして考えた時に、あまりにも、今の宗教の、キリスト教の、考え方は、「人間的」と言わざるを得ません。 逆に言えば、それが「神の言葉」だとは到底思えない、ということです。 このことについてはまたの機会に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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