山下清
7月最後の日曜日、
明け方、大きな地震で、飛びおきた。
すぐに、テレビをつける。
震源地は、福島だった。
米処の新潟も、大洪水で、
米農家は悲鳴をあげている。
今朝、放射能マップというものを、
じっくりと眺めていたら、
福島を中心にして、
東京都内まで、広がっている。
実態は、こんなマップどころではないのだ。
小さな、この島国は、もう取り返しがつかない位、
放射能が大気中に飛び散っている。
終戦後の、政治政策のあらゆる汚点のつけを、
民主党新政権は、どうあがいても、払拭できずに、
3・11以後、最大の国難の前で、
利権の泥沼の中を、
ただ、いたずらに、浮遊し続けている。
その行為が、
世界中の失笑にさらされていることすら、
気にもならない感覚の鈍磨さに、
日本の人々は、怒りすら、忘れてしまいそうになる。
東北に生きる、
寡黙で、ひたむきな、美しい顔、顔。
霞ヶ関に生きる、
空しい言葉と、顔、顔。
放射能と生きる覚悟を、一番しているのは、
汚染にさらされながら、
一縷の望みを託している、
農家や酪農家や漁師の人々。
目立たぬ場所で、
雨の日も、風の日も、
じっと、日本の食料を支えてきた人々。
便利さを捨てても、
経済大国の幻想を捨てても、
自然の風の流れを、
ずっと、ずっと、ずっと、先の、
気が遠くなるような歳月のために、
取返さなくては。
今ほど、私たち個人が、
自ら、 情報を掴み取ることが、
試されている時代もないのだと思う。