何だか実感が沸かないんだけど、
明日から広島に行くのです。前々からちょっと言っていた、いとこの結婚式に行くのです。広島は…3年半ぶりくらいかな?今日夜のニュースで原爆投下の日関連の事をやっていて、黙祷を捧げていなかった事に気付いて『しまったー!』と思ったけどまたすぐ忘れていて、夜家に帰ってきて、ネット徘徊してる時にその事に触れた日記があって、その人も黙祷を捧げてなかったとあったけど、取りあえず思い出せたのも縁だと思って、夜中に1人黙祷を捧げた。自分で1分は計れなかったけど、目を閉じている間中焼けただれて苦しんでいる人々の姿がまぶたに浮かんできて、すごく恐かった。3年半前と4年前、1人で広島に行ったけれど、ちょうど4年前の夏、宿泊先で深夜に、うなされて見が覚めた私としては、やっぱり、広島には強い、濃い、沢山の想いが今もあるんだろうなぁと思わずにはいられない。朝起きて朝食を食べに行くと、表からは分からなかったけど、そこが大きな川のすぐ側だった事に、とても驚いて、何となく納得した。朝食はとても美味しかったし設備も良かったし、営業妨害になるからどこかって事はかかないけど(笑)あー今夜中だし思い出すとちょっと恐いなぁ。 今日のこの日のこのイベントのニュースは、アメリカでは放送されているのだろうか、外国では放送されているのだろうか。『知らない』『知らせない』事は、やっぱり罪なんだ。同じ過ちの芽を育ててはいけない。広島市長は、はっきりとアメリカに対する批難の言葉を発した。よく言ったと思った。考えれば当然の発言だけど、何かを気にして、真っ当な発言をできない人っていうのはたくさんいる。何のために?何を守って?何を恐れて?人は沢山のものを求めるけれど、実際手に入れると、今度は失う事を恐れてしまうのかもしれないな。だったら私は何も持たないでいい。目に見えるものは何も持たなくていい。頭の中に入るものだけ貯め込んで、手ぶらぶらぶらで歩いていこう。ピエロのJokerだ。(意味は『カードミステリー』という本でどうぞ) ブッシュ大統領はどうして広島に来ないのか。どうしてイラクに行かないのか。世界中の人が、広島・長崎に行くべきだと思う。いや、それは日本にいる私の傲慢かな。世界中で、広島・長崎の事を語るべきだと思う。もっと。目の前の欲に、いくら囚われていても、それは核爆弾ひとつで、あっけなくなくなってしまうものでしかないのに。全てのものが簡単にうまく行くとは思わないけれど、資本主義の豊さと引き換えに、なくなりつつあるもの、資本主義が奪っていくものが沢山あるように思う。 想像力 と、 創造力。想像力、自分ではない存在についての事を想像してみる、そして自分に置き換えて、その経験を自分の物とする。人の話に耳を傾けてみる。創造力、与えられる何かを求めてばかりいるのではなく、自分の求めるものを、自分の手によって作り上げていくという事。失敗から学ぶという事。 都会で暮らすという生活スタイルは、なくなってしまったものの代わりに、積極的に補わなければいけないものが沢山ある気がする。現代の都会に暮らす子供の生活スタイルと将来は、どこにも先例がないものだから、いままでの価値観で、間に合うものではない気がする。生身の体での経験を、もっと沢山積んで欲しい。そういう遊び方を大人が教えてあげて欲しい。考える事と体を動かす事。そのバランス。 私がバランスよく育ったなんて事は、とてもとても言えないけれど、ある意味極端だったと言う意味では、両方の要素はあったと思う。 何で現代はこんなにゆとりがないんだろう?ゆとり、と、ただ時間があるという事(=暇)という事は違う。暇は退屈であって、刺激を求め始めるだけ。こころのゆとり。本当に難しい。そういうものを大事にしないで来た現代。そういうものが無駄や弱者として切り捨てられて来た現代。人が、足りなくなったものを求め出す事は分かってるけれど何にでもお金をかけなければ手に入れられない、手に入れられる方法を知らないっていう事は、やっぱり『心の貧しさ』って言葉に繋がるのかな。 『手遅れ』というものが存在するとは思いたくないけど、存在すると認めざるを得ないなら、せめて手遅れにならないことを祈って、自分にできる事をやるしかない。でも無理はしてはいけない。 心に留めておいて、時々思い出して想うだけでも、いつか、自分に何かできる時が来ると思う。きっとそう思う。 誰も、『何もできない存在』なんかじゃない。 寂しい人をみかけたら、その事を、教えてあげて欲しい。 涙が出そうになるくらい、胸が熱くなるくらい、私はそう感じる。 『その人』にしかできないこと、『自分』にしかできないこと。その縁と、タイミング。 大事な事だと思うわけです。