GW総集編season3 #2 オラが村の山と海を歩くべ!
アタシの悪いクセすぐシリーズが中断するコト(・_・;)っつーコトでGW総集編season3 #1はコチラ愛宕山公園愛宕山公園は、明治24年(1891)に開園した市内で一番古い公園です。ペリーの浦賀来航の際に交渉に当たった浦賀奉行組与力・中島三郎助の招魂碑を建立した時に、公園として整備されました。 昭和35年(1960)には日米修好通商条約の締結100年を記念して咸臨丸出港の碑が建てられています。碑の裏には、艦長の勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が刻まれています。 与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑もあり、園内から一望できる浦賀港の風景も魅力です。~横須賀市観光情報サイト「ここはヨコスカ」より~しばらくキッツイ階段上って行くと眼下にもうびゅりほーな浦賀湾が見えるですその先もキッツイ階段が続いて山の中腹ぐらいまで来るとよくわかんない石碑と咸臨丸出港の記念碑が立っておりました(´Д`;)/そこからまたまた階段山道誰が置いたのか木の根元にこんなご夫婦ご利益あるんか(ー_ー?)!?木々の間から対岸の東浦賀がよく見えるですあれは東叶神社西叶神社と対なので両方お詣りすると願いが叶う。。。。。。っつー語呂合わせで人気急上昇頂上近くには与謝野晶子がダーリンとこの地を訪れた際に(何しに来たんだろうねぇ。。。)詠まれた歌碑その奥には浦賀奉行所与力中島三郎助招魂碑中島三郎助 幕末の始まりである黒船来航と、幕末の終わりである箱館戦争に深く関わった希有な人物として知られる。 黒船が浦賀に来航したとき、戦闘態勢を取り明らかな砲艦外交で上陸を迫るペリーに対して、最初の交渉にあたったのが中島三郎助であった。当時の中島三郎助は浦賀奉行所の与力に過ぎず明らかに身分不相応。しかし、ペリー側の真意を探るため、三郎助は自らの身分を副奉行と詐称。ペリーの船「サスケハナ」に通訳1名のみを引き連れ乗り込んだ交渉は大胆そのものであったと伝えられている。その後、ペリーの船を仔細に観察した経験を買われ、日本ではじめて西洋式大型軍艦の建造を指揮する。わずか8ヶ月で完成させた軍艦は鳳凰丸と名付けられ、三郎助は実質的な艦長に就任した。 その後、長崎海軍伝習所の第一期生となり、勝海舟や榎本武揚らとともに、造船学や航海術、砲術を学ぶ。 のち、軍艦操練所の教授方となり後進を指導するなど、幕府海軍の整備・育成に尽力。 戊辰戦争では、幕臣として息子の恒太郎・英次郎とともに、海軍副総裁である榎本武揚らに合流。 箱館政権では箱館奉行並となる。 最後は、榎本武揚の退却の命令を断り、五稜郭を守る最終拠点・千代ヶ岡陣屋を守り抜こうと奮戦。二人の息子とともに戦死した。~幕末ガイドより~知ってたこの人(・o・)オラが村ぢゃ超有名人で商店街もpushpushってつい最近アタシも知ったんだけど( ̄^ ̄)ゞオラが村ぢゃ毎年ドッグ跡でまつりやるのよってつい最近始まったんだけど( ̄^ ̄)ゞとりあえずはぁどな山登り()を終えたので海を見ながら休憩した後山を下りるとすぐにオラが村の病院に辿り着くです実はこの病院が船番所跡なんだって船番所 番所では、江戸へ出入りする船の荷改め(検査)を行い、それは江戸中の経済を動かすほどの重要なものでした。 その業務は昼夜を通じて行われ、三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当していました。 ~横須賀市HPより~彼理来航の時はココが拠点となって彼の上陸を阻止していたのよねしょっちゅう通ってたのに知らなかったなぁその病院の目の前は海その海に設置された桟橋は陸軍桟橋太平洋戦争終了後南方から引き揚げてきた約36万人の人々がここで日本の地を踏んだことからそう呼ばれてるそうでございます引き揚げ船の中でコレラが発症し足止めを食らった船内で多くの人が日本に降り立つことなく亡くなったという悲劇も有り記念碑も立っていますさてさて海っぷちの某有名人のお屋敷の脇を通り抜けまた山の方へ向かって次は浦賀奉行所跡を探しながら歩いて行くとえ\(◎o◎)/!ココ!?なにやら古い団地が立っておりますが大昔結婚決めたオッサンが友人に会いに来た団地だったですまさかその団地が奉行所跡だなんてねぇ。。。知らずに26年も来ちゃったのねぇ( ̄ェ ̄;) しかも看板が立っている用水路は当時そのままのお堀の石垣だそうでまたまたビックリ(資料館の画像より当時の奉行所模型)色んなコトを新発見できて股マタお利口になっちゃったお利口にはなったけど暑さとはぁどさに疲れが見え始めたGWの午後1時でございましたm(__)mこの後まだまだ寄りたい場所があるもんで今日はこの辺でね~続く~あこの日々のヨロコビとなります毎日ポチッとヨロシクね